| 12 | 2012/01 | 02 |
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むかしむかし、あるところに、二つの村がありました。
二つの村は、たいそうなかが悪くて、西の村人は東の村のわるぐちを、東の村人は西の村のわるぐちをいっていました。
そこに、ある日、一人のたびびとがおとずれました。
「なんてなかのわるい村なんだ」
たびびとは二つの村のなかのわるさを悲しみました。そして、近くの山の中にはいると、大きな木の枝とわらを何本もひろってきて、二つの村のちょうどまんなかに、大きなヤジロベエをつくりました。
「ヤジロベエ、おまえはこの村をみまもっておくれ。二つの村の悲しい気持ちがかたよりすぎないように、おまえはここに立ちつづけるんだよ」
たびびとはそういって、次の村へとたびだちました。
「ようし、ぼくが村をまもるんだ」
ヤジロベエは、決心しました。
ヤジロベエは木とわらでできているので、しゃべれません。けれども、二つの村をなかよくさせたいというきもちは、本物でした。
それからしばらくして、東の村のわかものがヤジロベエのところへやって来ました。
わかものはたいそうおこっていました。
「西の村のやつらめ。あいつらのせいで、川の水がよごれてしまったぞ」
ヤジロベエは、その言葉のおこった気持ちを、右の手でひょいとつまみました。
右の手がすこしおもくなりましたが、これくらい、なんともありません。
「おや、しゃべったら、なんだかすっきりしたぞ」
若者ははればれとした顔で東の村にもどりました。
またしばらくして、今度は西の村のわかものがやってきました。
わかものは、たいそうにくたらしそうに言いました。
「東の村のやつらめ。あいつらさえいなければ、もっと畑が大きくなるのに」
ヤジロベエは、今度は左の手で、そのにくたらしい気持をひょいとつまみました。
左の手かおもくなりましたが、さきほどの右の手のおもさとあわせてちょうどいいくらいです。
「なんだかすっきりしたぞ」
わかものは気持ちのよい顔で西の村へかえりました。
「ああ、よかった。こうしてぼくが、二つの村のいやな気持をかかえれば、きっといつか、なかよくなるぞ」
ヤジロベエは、自分がやくにたててうれしいのでした。
二人のわかものが、それぞれの村で言いました。
「あのヤジロベエのところで、思っていたことをしゃべるとすっきりするぞ」
それ以来、二つの村では、いやなことがあるとヤジロベエのところへ行ってしゃべるようになりました。いやなことは、もちろんほとんどが相手の村のことです。
「西の村の牛のせいで、このあたりは臭くてたまらない」
ひょい。ヤジロベエはその気持ちをつまみます。
「東の村の馬のせいで、毎朝うるさくてたまらない」
ひょい。ヤジロベエはその気持ちをつまみます。
「息子に買おうと思っていたおもちゃを、西の村の村長に買われてしまった。なんてじゃまなやつらなんだ」
ひよい。ヤジロベエはつまみます。
「娘にやろうと思っていた花が、東の村の村長につまれてしまった。どうしてあいつらはじゃまばかりをするんだ」
ひょい。ヤジロベエはつまみます。
ずっとずっと、いつまでもヤジロベエはつづけます。
そうして、気がつくと十年がたっていました。
「ああ、おもい。なんておもいんだ」
ヤジロベエのつまみあげたいやな気持ちは、つもりつもって、すごいおもさになっていました。丈夫な枝でつくられたヤジロベエのうでも、ちかごろではぎしぎし、ぎしぎし、なりひびいて、ささやかな風がふくだけで、いまにも折れてしまいそうです。
そんなことには気づかない二つの村のひとたちは、今日もいやな気持ちをしゃべりにきます。ほら、東の村の村長がきました。
「西の村なんて、さっさとなくなってしまえばいい」
右手でひょいとつまむと、あまりの重さにヤジロベエのからだが、ぐぐぐっと東にかたむきました。いまにもころんでしまいそうです。しかし、ころぶわけにはいきません。東にころべば、つもりにつもったいやな気持ちが、東の村にあふれてしまいます。ヤジロベエは必死にこらえます。
今度は、西の村の村長がきました。
「東の村なんて、はやく消えてしまえ」
左手でひょいとつまむと、あまりの重さに今度はぐぐぐっと西にかたむきました。もちろん、西の村にもいやな気持ちをあふれさせるわけにはいきません。ぎしぎしとうでを鳴らしながら、ヤジロベエはころばないようにがんばります。
その夜、ヤジロベエはなげきました。
「ああ、ぼくを作ったたびびとさん。なんでもっとじょうぶな枝でぼくのうでを作ってくれなかったのですか。これではもう、ここに立っていることはできません」
そこへ、一羽のカラスがやってきて、ヤジロベエの頭に止まりました。
「ころんでしまえよ、きみ。そんなにがんばっても、きみになんの得があるというのだい。きみがつらいだけじゃないか」
ヤジロベエはただゆらゆらとゆれて、首をふります。
「ぼくは、村の人たちが笑ってくれるなら、それでいいんだ」
「おまえはなんてバカなんだ。そうしてずっと耐えて、いつか泣きながら折れてたおれてしまえばいいさ」
カラスはバカにしたように鳴きながら、飛んでいきました。
次に、東の村からわかい男が、西の村からわかい女が、やってきました。東の村の男と、西の村の女は、ヤジロベエの前にたつと、二人で声を合わせて言いました。
「東の村も西の村も、なくなってしまえばいい」
ああ、またいやな気持ちがふえました。ヤジロベエはころばないようにふんばりながら、右と左のりょうほうの手で、二人のいやな気持ちをつまもうとしました。
ところが、おや? ヤジロベエはおどろきました。いやな気持ちがみあたりません。これはどうしたことでしょう。
二人はそのまま、それぞれの村に帰っていきました。
それから数日は、だれもヤジロベエのところに来ませんでした。
ヤジロベエはほっとして、このままだれも来なければ、ずっとここに立っていられると思いました。しかし、そういうわけにもいきません。
ある日、東の村の村長と、西の村の村長が、どうじにヤジロベエのところに来ました。
ああ、ぼくももう、おわりだろうか。ヤジロベエは思いました。二人の村長はとてもなかがわるいのです。いまのヤジロベエに、二人のいやな気持ちをかかえることなんて、とてもできません。
二人の村長は、ずっとにらみあっています。そして、ついに二人がどうじに口をひらきました。
「わしがわるかった」
二人は言いました。
「息子のおかげで、やっとわかった。わしらは力を合わせるべきだったんだ」
「娘のおかげでやっとわかった。いがみあっていて、どれほどのことができるだろう」
おどろくヤジロベエの前に、東の村長の息子と、西の村長の娘がやって来ました。
二人は、この間の夜のわかい男とわかい女でした。
「わたしたちは、けっこんします。もう東の村も西の村もありません。ここは、ひとつの村になるのです」
二人はわらっていました。ヤジロベエが見たくてたまらなかった、それはそれはすてきなえがおでした。
そのとき、ばきばきばき、という音がしました。
ヤジロベエのかかえていたいやな気持ちは、ぜんぶなくなりました。
もう、どこにもいやな気持ちはありません。
ヤジロベエはうれしくて、かるくなった両手でおもいきり、ばんざいをしました。
そのいきおいに、もろくなっていたヤジロベエのからだはたえられませんでした。
こうして、ものすごい音をたてて、役目をおえたヤジロベエはころんだのです。
東でも西でもなく、おひさまの見ている南へむかって、ころびました。
やっと、ころぶことが、できたのです。
あるところに一つの町がありました。
町の人は何に対しても無関心で、だれが困っていても、助けようとしません。だから町はいつも静かで、ちっとも栄えませんでした。
これを見ていた神様は、大きなたまごを三つ、町の真ん中の広場に置くことにしました。
はじめは、だれも気にしませんでした。この町の人は、何に対しても無関心だからです。たまごの横を、見ることもなく通り過ぎます。
そうして何日もが過ぎましたが、ある日、一人の男がたまごにぶつかりました。
男は転びましたが、たまごにはひび一つ入りません。
「なんて丈夫なたまごなんだ」
男は驚いて、三つのたまごを殴ったり蹴ったりしてみましたが、一つも割れません。
大人の頭ほどもあるたまごは、持ち上げてみるとひどく軽いものでした。
地面に叩きつけてみましたが、やっぱりたまごは割れません。とんかちを持ってきて、それで叩いてみましたが、やっぱり割れません。
「おい、みんな、こいつはすごいたまごだぞ。絶対に割れないんだ」
最初はだれも立ち止まりませんでした。けれども、男があれやこれやと試しているうちに、何人かが足を止めはじめました。
「割れないはずがないだろう」
立ち止まった人々は、自分なりの方法で、たまごを割ろうと試しました。
壁に投げつけたり、高いところから落としたり、釘を打ちつけてみたり、何度も踏んづけてみたり、思いつくかぎりの方法が試されましたが、たまごは一つも割れません。そうしてたまごが割れないままに、何日かが経ちました。
割れないたまごの話は、人々の口から口へと伝わり、町中の人間が知るようになりました。毎日毎日、いろんな人が訪れて、いろいろな方法でたまごを割ろうとためしました。
もちろん、だれがなにをしてもたまごは割れなくて、みんなが首をひねりました。
「いったいこのたまごの中には、なにが入っているのだろう」
町の人たちは、口々に中身についてうわさをし、自分たちなりの予想を立てました。
普通に大きな黄身と白身だけだという人。
巨大な鳥が産まれるのだという人。
金銀が詰まっているのだという人。
赤ちゃんが入っているのだという人。
天使様が入っているのだという人。
いろいろな予想が立てられましたが、割れないことにはわかりません。
たくさんの人がたまごを囲んで見ている中で、だれかが言いました。
「ああ、たまごの中身がわかるなら、なんだってするのに」
その時でした。たまごがひとつ、自然にパカリと割れました。
驚きながらみんなが中身に注目します。
ところが、たまごの中は、空でした。
「なんだ、空じゃないか」
「でも、なんで空なんだろう」
「そんなことより、いったい、どうして割れたのだろう」
割れたたまごの殻は回収されて、研究されることになりました。
ところが、あれだけ堅かったたまごの殻は、いまではもう、普通のたまごと変わらない、もろくて柔らかいものになっていました。
残りの二つのたまごは、あいかわらず割れないままです。
「なにか、残りの二つを割る方法もあるはずだ」
町の人々は、こぞってたまごの研究をはじめました。
たまごを割るために、いろいろな発明がされました。その発明をもとに、また別の発明がつくられて、またたくまに、たくさんの発明が町中にあふれました。しかし、どの発明品も、たまごを割ることはできません。
なかなかうまくいかないので、だんだん、人々はイライラしてきました。
「お前の発明品なんか、役に立たないんだ。やめちまえ」
「なにを。お前の発明品だって、なんの役にも立たなかったじゃないか」
「なんだと、おれの発明品は、役に立つのだぞ。そら」
イライラのたまった人々は、発明品を使ってケンカをはじめました。硬い硬いたまごを割るためにつくった発明品たちです。それを人間になんて使ったら、とてもひどい目にあいます。
「イタイイタイ」
「イタイイタイ」
ケンカは町のあちこちで起こり、いろんなところから、イタイイタイという声が聞こえてきました。
ですが、この町には、人を助けるという考えはありません。だれもかれもがケンカをするばかりで、助けてなんてくれません。だから、イタイイタイという言葉ばかりが、町にあふれるようになりました。
「うるさいなあ」
一人の男が、あまりのうるささに耐え切れなくなりました。
男は、割れたたまごを研究していました。割れた殻をくっつけようとして、傷をなおす発明をしたのです。
その発明を使って、男は怪我をしている人たちを治していきました。
「これで静かになるはずだぞ」
男はホッとしましたが、それだけではありませんでした。
「ありがとう」
傷を治した人々は、生まれてはじめてその言葉を口にしました。
「おや、なんだかこの言葉は気持ちがいいぞ」
男はその言葉が聞きたくて、町のあちこちに行っては、人々の怪我を治します。何度聞いても「ありがとう」は気持ちのいいものでした。
「みんな、ありがとうは気持ちがいいぞ」
男が教えると、町の人々は疑いながらも、ほかの人たちを助けてみました。町のあちこちで「ありがとう」の声が重なり、人々はその言葉に夢中になりました。
気がつくと、人々は助け合うのが、当たり前のことになっていました。助け合って研究も進み、発明はどんどん生まれました。今度は、ケンカの道具にならない発明です
さまざまな発明品の力で、町はどんどん発展していきました。
「助け合うって、いいものだね」
だれかがそう、言ったとき、町の広場の真ん中で、パカリとたまごが割れました。やっぱり、中にはなにも入っていませんでした。
残ったたまごは、あとひとつです。
「最後のたまごにはなにが入っているのだろう」
人々は、興味を失いません。
「最後のたまごの中にこそ、きっとすばらしいものがつまっているに違いない」
人々は、口々にたまごの中身を予想しますが、もうケンカは起きません。たまごの中につまっているであろうすばらしいものについて語り合い、そのすばらしいものを目にするために、毎日、いろんな研究をして、いろんな発明を生み出しました。
たまごのあった広場はきれいな公園になりました。公園の真ん中には立派な台座がつくられて、たまごは、そこに大事に置かれました。
町の人たちは、この公園を訪れるたびに思います
「いつかたまごの中身を見るために、がんばろう」
こうして町は発展を続け、助け合う発明の町として有名になったのです。
「ああ、よかった。たまごのおかげだ」
すべてを見ていた神様は安心しました。横にいる天使は不思議でした。
「でも神様、あのたまごは空なのに、どんな意味があったんですか」
「逆だよ。たまごは中が満たされると割れるのだよ」
神様は教えてくれました。
「一つ目のたまごは『好奇心』を求めていた。町に好奇心が満たされて、たまごの中いっぱいになったから、割れたのだよ」
「二つ目は、なにを求めていたのですか?」
「二つ目は『優しさ』を求めていたのだよ。好奇心と優しさに満たされて、町は素敵になったのだ」
「でも、三つ目は割れなくて残念でしたね」
神様は笑いました。
「三つ目は割れなくていいんだよ。あの中には『夢』がつまっているんだ。割れないから、わからないから、夢はいつまでも夢でいられるのだよ。決して割れない夢の塊が、また新しい夢を生むのだ。だから、たまごの周りは、いつだって夢に満たされているのだよ」
割れないたまごに夢を見て、今日も町は素敵に輝きつづけます。
タケルくんは砂場が好きです。
好きなのでほかの子が砂場にいると、
「どけよ」
と、蹴飛ばして、どかしてしまいます。
だから、タケルくんはいつも砂場で一人でした。
今日もタケルくんは、一人で砂のお城をつくります。
「よし、できたぞ」
タケルくんは自分のつくったお城を満足そうに見下ろします。
「どうだ、すごいだろう」
見回してもだれも周りにいません。
タケルくんがいつも蹴飛ばすので、だれも公園に来なくなってしまったのです。
せっかくすごいお城がつくれたのに、自慢する相手がいません。
「いいさ。お城はここにあるんだからな」
タケルくんは一人でそうつぶやきます。
ところが、ないはずの返事がありました。
「いいや、よくないぞ」
「だれだ」
驚いて声のした方を見ます。
ところが、そこにはタケルくんの作った砂のお城があるだけです。
「気のせいかな」
「気のせいじゃないぞ」
また返事がして、お城の入り口から、だれかが出てきました。
タケルくんのつくったお城は、タケルくんの背の半分もありません。
だから、そこから出てきたそいつも、とても小さなやつでした。
お父さんのゲンコツくらいの大きさです。
そいつは全身まっくろで、背中にまっかなマントを着けていました。
「なんだ、おまえ」
タケルくんの質問に、そいつは胸をはってこたえます。
「おれは砂場の魔王だ」
砂場の魔王は、ぴょんとジャンプすると、お城のてっぺんに立ちました。
「この城はおれのものだ」
「それはぼくがつくったものだぞ」
タケルくんがムッとして云うと、魔王は笑いました。
「住んでいるのは俺様だ。ありがたく思え」
なんて自分勝手なやつでしょう。タケルくんが苦労してつくったお城を勝手に自分のものにするなんて。タケルくんは怒ってそいつを捕まえようとしました。
魔王はタケルくんの手をひょいとよけると、ピョンピョンとタケルくんの腕を跳びのぼり、肩にのって、タケルくんのほっぺたを蹴飛ばしました。
「バカめ、魔王様にかなうものか」
「いてっ! よくもやったな」
タケルくんがカンカンに怒って捕まえようとすると、魔王はピョンピョンと飛び跳ねながらブランコのところまで逃げました。とてもすごいすばやさで、タケルくんでは捕まえられそうにありません。
「なんでいきなり蹴飛ばすんだよ」
タケルくんが云うと、魔王はつんつるてんの真っ黒な顔をうなづかせました。
「それはな、俺様は気が弱いからだ」
胸を張ってえらそうに云います。
「気が弱いから、城をとりあげられたらイヤなんでな。おまえを蹴飛ばした。だが安心しろ。本気では蹴らなかったぞ。本気で蹴ってたら大変なことになるところだ」
そこで魔王は声をひそめました。
「本気で蹴ったら、相手はいなくなってしまうからな。お前も気をつけるといい」
「じゃあ、お前を本気で蹴ってやる」
その日、タケルくんは日が落ちるまで、魔王を追っかけて走り回りましたが、一度も捕まえることはできませんでした。
「いつでも挑戦に来い。俺様はここにいる」
お城のてっぺんに立って、魔王はやっぱりえらそうに胸を張って云いました。
次の日も、タケルくんは公園を走り回りました。
すべり台をかけのぼり、ブランコをぶんぶんと揺らし、シーソーを何度もぎったんばったんさせながら、公園を走り回りました。
けれども、魔王はとてもすばやくて、さっぱり捕まえられません。
「俺様は王様だからな、だれにも捕まえられないぞ」
タケルくんが疲れて休んでいると、魔王は砂場のお城に戻ります。
「なんだよ、王様なんていったって、仲間が一人もいないじゃないか」
「おれには対等な存在なんていない。だから、仲間も友達もいない。おれは、砂場の魔王だからな。王様とは、そういうものなんだ」
「友達がいないだけじゃないか。そんなの、威張ることかよ」
「せめて威張ってないと、悲しいじゃないか」
タケルくんは、魔王がどんな表情をしているのか、気になって見てみましたが、どれだけ見ても、魔王の顔はつんつるてんの真っ黒です。
「でも、お前は部下にしてやってもいいぞ」
魔王は云います。
「お前は城を作ってくれたからな。城のおかげで、俺様はここにいられる」
「どういう意味だよ。城がないとなんだってんだ?」
「城がない王様なんて、変だろう? そんな王様、もう王様じゃないさ。だから、魔王であるおれ様は、城がないといられないのさ」
魔王がニヤリと笑ったような気がしたけれど、口なんてないから、わかりませんでした。
次の日も、その次の日も、タケルくんは公園を走り回りました。
もう、なんで魔王を追っかけているのかも、わからなくなっていました。捕まえてどうしようというのかも、まるで考えていません。ただ走り回ります。
それでも、結局、最後まで魔王は捕まりませんでした。
最後は、すぐで突然でした。
その日も、タケルくんは魔王を追っかけて走り回っていました。まだお昼だというのに、お日様は隠れています。
「そろそろかな」
すべり台のてっぺんで、魔王は云いました。
「なにがだよ」
「お別れさ」
魔王の言葉と同時に、タケルくんのほっぺたに、冷たい感触がやってきました。
雨が、降ってきたのです。
最初、タケルくんは魔王が何を云っているのかよくわかりませんでした。
気がついたのは、雨が強くなってからです。
「あっ」
と叫んだときには、もう手遅れでした。
砂場につくったお城が、雨で崩れはじめていました。
「城がないとおれはいられない。そういうわけさ」
魔王の真っ赤なマントは真っ黒になって、真っ黒な顔は雨の中に薄れはじめました。
「なんでだよ」
タケルくんは怒って言いました。
「なんでいなくなるんだよ、バカ野郎」
「お別れが怖いのか」
「怖くなんかないぞ」
「俺は怖いぞ」
魔王は、最後も笑いました。
「怖いから、別れる前にこっちから蹴飛ばすのさ。こんな風に」
魔王はタケルくんのすねを蹴飛ばしました。
タケルくんも、魔王を蹴り返しました。
思いっきり、本気で蹴りました。魔王はいつも通りによけます。
そして、タケルくんの蹴りは砂のお城にあたって、お城は消えてなくなりました。
魔王も、いなくなりました。
「本気で蹴ったら、相手はいなくなってしまうからな」
魔王がそう云っていたのを、思い出します。
思い出しても、もう、真っ黒なあいつは、どこにもいません。
雨は、次の日も降っていました。
タケルくんは、今日も砂場に行きます。ほかに、タケルくんが遊ぶ場所はありません。ここだけが、タケルくんの場所でした。
真っ赤なカサをささえて、タケルくんは立ち尽くします。なにもできないで、立ち続けます。
それから、どれくらい経ったのでしょう。
「お城、なくなっちゃったね」
だれかが隣に立っていました。
「立派なお城だったのにね」
近所の子です。前にこの公園で遊んでいました。その時、タケルくんは蹴飛ばしました。
「すごいなっていつも思ってたんだ。でも、なくなっちゃったらしょうがないね」
その子はにっこりと笑うと、言いました。
「晴れたら、また作ってよ。ぼくも一緒に作るよ」
タケルくんは、いつも通りに蹴飛ばそうとしました。おもいきり、蹴飛ばそうとしました。
「本気で蹴ったら、相手はいなくなってしまうからな」
けれども、魔王の言葉を思い出して、やめました。本当は、だれにもいなくなって欲しくなんかないのです。
「行こうよ。ぼくの家で遊ぼう」
蹴飛ばす代わりに、差し出された手を、握りました。
「なんだ、やっぱりそうだ」
「なんだよ」
「みんな、タケルくんが怖いって云ってたんだ。砂場の魔王と呼んでたよ。でも、本当は優しいんだよね」
ニコニコ笑う友達に、タケルくんは答えました。
「砂場の魔王は、もういないんだ」
昔、戦争がありました。
それはそれはとてもひどい戦争で、たくさんの人が死にました。
戦争はとっくに終わったけれど、帰ってこないものがたくさんあります。
おばあさんの息子も、その一人です。
「えらくなって、お母さんを楽にしてあげます」
そう云って、ずっと昔に戦争に行ったきり、帰ってこないのです。
おばあさんは息子が帰ってくるのをずっと待っていました。
近くには、だれも住んでいません。
「おばあさん、ここはもうダメだよ」
戦争で、このあたりの土地もダメにされてしまいました。畑には、ほんの少ししか作物は実りません。
「だから、私たちと別のところへ行きましょう」
近くに住むみんながそう云ってくれましたが、おばあさんは断りました。
「わたしゃ、息子を待たなきゃならんから」
もう帰ってきませんよ、とは、誰も云えませんでした。こうして、おばあさん一人を残して、みんなは去っていきました。
それからずっと、おばあさんはたった一人で息子を待ち続けました。
息子は帰ってきません。
本当はもう、おばあさんにもわかっていました。息子はたぶん、戦争で死んだのだと。
ある日、おばあさんは大きなカカシをつくりました。
「これからは、おまえが私の息子だよ」
カカシは風に揺れて、うなづいているようでありました。
それからおばあさんは、長いことカカシと一緒にすごしました。
「今日は風が強いね」
カカシはうなづきます。
「からだを壊しちゃいけないよ」
(はい、お母さんも、からだをお大事に)
今ではもう、お母さんにはカカシの、いえ、息子の云っていることがわかります。
「うんうん、おまえは優しい子だね」
畑に実るわずかな作物を食べて、おばあさんはカカシと一緒に何年も待ちました。
でも、一体なにを待っていたというのでしょう?
「おかしいね、息子を待っている気がするよ。おまえはここにいるというのに」
(はい、お母さん、ぼくはどこにも行きません)
息子の答えに満足して、おばあさんは笑いました。
そうしてある寒さの厳しい年の冬、息子の隣で眠るように亡くなりました。
「お前のおかげで、わたしゃ幸せだったよ」
(はい、お母さん。ぼくもお母さんのおかげで幸せでした)
こうして、誰もいないやせた畑に、大きなカカシだけが残りました。
息子は、本当に戦争で死んだのでしょうか?
いいえ、息子は生きていました。
おばあさんの住む山から遠く離れた海のそばで、ひっそりと暮らしていました。
「お前はよく働くね」
村の人は、よそ者の息子に優しくしてくれました。
実際、息子はよく働きました。死に物狂いで働きました。
「家族はいないのかい? 両親は?」
息子は首をふって答えます。
「いいえ、もういないのです」
息子は、後悔していました。
「私にはもう、お母さんに会わせる顔がない」
えらくなりたくて、戦争へ行きました。
泣いて止める母親をふりきって、戦争へ行きました。
たくさんたくさん戦いました。
たくさんたくさん、殺しました。
その意味に気づいたのは、戦争が終わってからでした。
えらくなんか、なれませんでした。後悔だけが、残りました。
「ああ、私の手は、汚れている」
一人の夜、息子はつぶやきます。
本当は、息子も母のいる故郷に帰りたいのです。ですが
「優しい母の教えに背いてしまった。どんな顔で、帰ることができるだろう」
会いたくて会いたくてたまらない母親に、二度と会うまいと、息子は決めていました。
息子は働きつづけました。やがて村の人にほめられて、小さな畑をもらいました。
息子は、その畑のために、小さなカカシをつくりました。
「このカカシは、なんだか、お母さんに似ているな」
息子はカカシのことを、心の中だけでこっそりと「お母さん」と呼びました。
それからも息子は働きつづけました。
それが、奪ってしまった命への、唯一のつぐないだと思っていたのです。
結婚しないのかという周囲の誘いも断って、息子はひたすらに働きつづけました。
そうして、何年もが経ちました。
小さなカカシはぼろぼろになってしまったけれど、ずっと息子を見守ってくれました。
その役目も、もう終わりが近いようです。
「ああ、どうやらダメらしい」
息子は病気にかかってしまいました。
はやりのうつり病です。病気を治す方法はありません。
息子は世話になった人たちに迷惑をかけないよう、一人で村を出て行くことにしました。
「お母さん、一緒に行くかい」
小さなカカシだけを背に抱え、息子は旅立ちます。
行くあてなんて、ありません。
何日も何日も、ひとけのない場所を歩きつづけました。
しかし、からだが覚えていたのでしょうか。
やまいがいよいよひどくなり、意識が朦朧としはじめたころ、息子は見覚えのある場所に立っていました。
「ああ、なんだ。ここは、うちの山の近くじゃないか」
息子が生まれ育った、母親と過ごした家の近くでした。
「お母さん、おうちへ帰りましょうか」
ボロボロになった小さなカカシに、息子は話しかけます。近頃では、もうカカシだってことも忘れてしまいがちです。
「ああ、お母さんのからだは軽いですね。心配になります」
(いいんだよ、おうちでゆっくり休もうじゃないか)
「そうですね、早くおうちへ帰りましょう」
何十年も昔に飛び出た村に、息子はやっと帰っていきました。
村にはもう、だれにもいません。
やせた土地は、荒れ野となって、だれからも見捨てられてしまいました。
ふらふらと歩きつづける息子は、その一画に、不思議な畑を見つけました。
なぜでしょうか、そこの畑だけ、豊かに作物が実っていたのです。
そして、作物の真ん中では、大きなカカシが、風に揺れて、たたずんでいました。
あたりを見回して、息子は気づきました 。
「おや、ここはうちの畑ですよ、お母さん」
(そうだね、やっとうちに帰ってきたね)
「これだけの作物があれば、お母さんも困りませんね。それに見てください。とても立派なカカシです。とても大きく、とても力強く、この畑を守ってくれています。ああ、私もこのカカシのようでありたかった。このカカシのように、ずっとここを守りたかった」
息子は背負ってきた小さなカカシを、大きなカカシの隣に並べて植えました。
「ここならとても安心ですよ、お母さん」
そうしてニッコリ笑って、二つのカカシの足元で、息子は眠りにつきました。
誰もいなくなってしまった山のふもとの小さな畑で、豊かな作物に囲まれて、お母さんのつくった息子のカカシと、息子のつくったお母さんのカカシが、いつまでもいつまでも、仲良く並んで風に揺れていました。
ある公園に、一匹の猫がいました。
猫は、箱の中に住んでいました。すて猫なのです。
その向かいに一匹の犬がいました。
犬も、箱の中に住んでいました。やはりすて犬なのです。
二つの箱はブランコをはさんでありました。
二匹はいつも向かい合って、いつもケンカをしていました。
たとえばこんな風です。
「ああ、さむいなあ」
猫がそういうと、犬がこう答えます。
「おまえはこんじょうがないからさむいんだ。おれはこんじょうがあるから、こんなのへっちゃらだ」
「きみの箱には毛布があるじゃないか。だからだよ」
「おれはこんじょうがあるから、こんなものはいらないんだ」
犬はそういって、猫のあたまに毛布をかぶせます。
またあるときはこんな風です。
「お腹がすいたなあ」
猫がいうと犬はこたえます。
「おまえはこんじょうがないからおなかがすくんだ」
犬はふらりとでていくと、しばらくして、お魚をくわえてもどってきました。
「こんじょうのないおまえは、こいつでも食えばいい」
「きみの分は?」
「おれはこんじょうがあるから平気なんだ」
二匹には、なかなか飼い主が見つかりませんでした。
人間が来るとかくれるからです。
「にんげんにつかまると、ひどいところにつれていかれるぞ。おまえはこんじょうがないから、きっとなきわめくぞ」
犬がそういうので、猫もいっしょにかくれるのでした。
そんなある日、公園のまわりにたくさんの人間がきました。
近所の子供たちが、あつまってなにかをするようです。
「気をつけろよ。ねむっちゃだめだぞ」
犬はいいますが、猫はこまります。
「でも、ぼくはとてもねむいんだ」
「じゃあ、おれがみはっててやる。おれはねむらないでもへいきだ。こんじょうがあるからな」
でも、本当は犬もとてもねむかったのでした。
うとうとして、気がつくと、犬のまえから猫はいなくなっていました。
「ああ、とうとう行ってしまったか。本当は、だれかにひろわれた方があいつはしあわせなんだ。だからこれでいいんだ。おれはこんじょうがあるから、さみしくたって、なかないぞ」
けれども、ひとりぼっちになってしまった公園にいるのは、こんじょうがあってもつらいことです。
犬は箱からでると、公園の外にあるきだしました。
猫は、やさしい飼い主にひろわれていました。
部屋のなかはとてもあたたかく、ごはんもおいしかったので猫はしあわせでした。
けれども、ときどき気になります。
「あの犬は、どうしているだろう」
こんじょうがあるからきっとへいきなんだろう、そう思っても、心配なものは心配です。だって、ともだちなんですから。
そんなある夜、飼い主の女の子がいいました。
「あっ、雪」
見ると、外では、たしかに雪がふりだしていました。
「たいへんだ」
おどろいた猫は、窓のそとへとびだしました。
雪のふる夜は、とてもさむいものです。こんじょうのない猫にはつらいものでしたが、それでも猫ははしりました。ともだちがたいへんだから、がんばって公園にはしりました。
公園では、ふたつの箱に雪がつもっていて、犬はいませんでした。
「犬くん、犬くん、どこにいるんだい」
呼んでみても、だれもこたえてくれません。犬はどこに行ってしまったのでしょう?
犬はあれからいろんな場所をあるいてまわったのです。
猫のいる家の前にも、いったことがあります。へいのすきまからのぞくと、猫はストーブのまえでとてもあたたかそうでした。
「ああ、よかった。やさしい飼い主がみつかったらしい。あいつはこんじょうがないから、飼い主がいたほうがいいんだ。おれはこんじょうがあるから、ひとりでもへいきだぞ」
犬はそうつぶやいて、猫のいるいえからはなれました。
犬はいま、はしのしたにいました。ここなら雪がつもらないからです。
それでも、雪のふる夜はとても寒くて、犬は目をとじて、ふるえていました。
「おれはこんじょうがあるからへいきなんだ」
つぶやく声も、ふるえています。
「犬くん」
なぜでしょう。猫の声がきこえてきます。
「おれはさみしくなんかないぞ。あいつなんて、いなくてへいきなんだだからあいつの声なんて、いらないんだ」
「犬くん、こんなところにいたんだね」
「しつこいぞ」
犬が目をあけると、猫がのぞきこんでいました。
「ばか、おまえ、なんでこんなところに来たんだ」
「とても寒いから、犬くんがしんぱいで、さがしてたんだよ」
「おれはこんじょうがあるから、このくらいの寒さ、へいきなんだよ」
けれども、ほんとうはへいきじゃありませんでした。ごはんもちゃんと食べていない犬は、さむさのせいで、ほとんど動けなくなっていたのでした。
それでも、犬はいいます。
「こんじょうのないおまえは、さっさと家にかえるんだ」
「ううん、ぼくは犬くんといっしょにいるよ」
「だめだ」
「なんでだい」
犬は、すこし考えていいました。
「おれはこれから、遠くにいくんだ」
「じゃあ、ぼくもいくよ」
「だめだ。そこは、こんじょうのあるやつしかいけない場所なんだ。おまえみたいにこんじょうのないやつは、つれていけないんだ」
「そうか。それじゃあ、しょうがないね」
猫は犬のとなりにすわりました。
「じゃあ、犬くんがいくまで、ここにいるね」
「ふしぎだね」
猫はいいました。
「ぼくたち、ずっとおなじところにいたのに、こうしていっしょにねるのは、はじめてだ」
「ああ、そうだな。こんじょうのないやつといっしょにねるなんてはじめてだ」
犬はいいました。
「こんじょうのないやつといっしょにねると、こんじょうのないのがうつるんだ。そうすると、遠くにいくのが、つらくなるんだよ」
「じゃあ、遠くにいかなければいいよ」
「そういうわけにも、いかないんだよ」
犬はもう、目がうまくあけられなくなっていました。
「じゃあ、ぼく、よけいなことをしたのかな」
猫がいうと、犬はしっぽをひとつだけふって、答えました。
「いいや、ありがとう」
その夜は、とてもさむかったけれど、犬の毛皮につつまれて、猫はあたたかでした。
あけがた、目をつぶったまま、犬はいいました。
「おれはそろそろいくよ。ここにのこっているように見えるかもしれないけれど、へんじをしなくなったら、もうどこかにいっているんだと思ってくれ」
それからしばらくして、犬はくるしそうにほえました。
「大丈夫かい?」
猫がきくと、犬ははっきりといいました。
「おれは、こんじょうがあるからな」
それが、さいごのへんじでした。
それから猫は、犬にあったことはありません。
橋のしたにいっても犬はいなくて、だれにきいても犬の場所はわかりません。
ほんとうに、遠くにいったのでしょう。こんじょうのあるやつしかいけない場所に。
「ぼくのともだちは、とてもこんじょうがあるんだよ」
ときどき、猫は飼い主の女の子にそういいます。
けれども、女の子には猫がなにを言っているのかわかりません。
それでも、猫はなんどもなんども、おなじはなしをくりかえします。
「ぼくのともだちは、とてもとてもこんじょうがあるんだ」
あなたの家の猫が鳴き続けていたら、そっと話を聞いてあげてください。
きっと、大事な友達の話をしてくれているのです。
塔は決して大きくはなかった。
神の庭自体がそれほど面積のある場所でないのだから当然ではあるが、塔の中は細く長い螺旋状の階段と、各階に一つずつ部屋が配されているだけの質素な造りであった。
部屋は庶民が住む家屋の部屋と同程度の大きさしかなく、ここが聖王城の一部であると云うことを考えれば異様なほどの狭さであると云える。
だが、その部屋にある物は決して庶民の家にはないものばかりであった。
(いったい、なんなのだここは)
さすがに闇ばかりでは何も見えぬ。
彼は非常用のランタンに火を灯し、塔の中を進んだ
ランタンは実用性の高い、小型だが明りは非常に強いもので眩しすぎるくらいだと普段は文句をつけられるほどのものだったが、いまは濃い闇の中で闇に押しつぶされそうに不安げにかよわく炎が揺れている。
小さな炎が浮かび上げる情景は、彼には理解のし難いものだった。
塔内の壁は、確かに石造りであった。だが、外の壁と違い石を積み上げたものではない。
触ると確かに石のざらついた手触りを伝えてくるのだが、表面にまったく凹凸がなく、石と石の境目というものがなかった。
一つの大きな岩の中をくりぬき、丁寧に磨き上げでもしたら、こうなるであろうかという具合だ。
不可思議な壁に囲まれて螺旋状に伸びる階段は細かったが、際限なく長かった。
所々にある入り口と同じように謎の模様の彫り込まれた、しかしこちらは木製の扉にはいずれも鍵はかかっておらず、開いて中を覗いてみれば、浮かび上がるのはいずれも無人の、怪しげな品々であふれかえった部屋だった。
最初に開いた部屋には無数の書物が散乱していた。
部屋の四方にはきっちりと書棚が並べられており、そのほとんどを書が埋めていたが、所々空いているのは、床に広がる書物のせいであると見えた。
一つ二つを手にとって開いてみたが、いずれも彼には理解のできぬ言語で書かれていた。見たこともない、平原のものとは思えぬ不可思議な言語であった。
平原の言語はほとんど全てが直線を組み合わせた幾何学的な模様を描くはずであるのに、書物に書かれているのは直線と曲線が複雑に入り混じる不思議な言語だった。
次に開いた部屋には、奇妙な平原風でない曲線を描いた滑らかな手触りの、古いが手入れの行き届いた机と椅子が一組あり、机の上には拳大ほどの大きさの透明な球体があった。
彼ははじめその球体を水晶かと思い、、ランタンの明りを近づけてみた。
するとその珠の中で炎がゆらめいたかと思うと、すぐに炎は四散し、珠の中には万華鏡のようにいくつにも分かれた炎が奇妙な模様を描いてはすぐに形を変え、二度とは同じようには映らなかった。
そして最も奇妙なことには、その後明かりをいくら遠ざけようとも、その球体に灯った炎は消えることがなかった。
次の部屋にあるものは彼にも理解できるかと思われた。無数の剣が規則正しく立てられていたのだ。
剣はいずれも金や銀の鮮やかで緻密な装飾がなされており、そのいずれもが華麗で宗教的でとてもイルナー的なものであった。彼は知らず安堵の吐息を漏らした。
だが、違和感を感じ、明かりを当てて一本一本をよく見てみると、違和感を感じるのもどうりで、剣はいずれも刃引きしてあった。
儀式用か装飾用か、と思ったが、次に手にとった剣は先程と同じように刃引きしてあるにもかかわらず、刃にはいくつもの血糊がこびりついていた。
そうした剣はいくつもあり、ついた血糊にはひどく古びたものや逆にまだ血も乾いておらぬものまである。
(わからない……。なんなのだここは。何もかもが理解できない。それに、真新しい血のあとまであると云うことは……)
血の臭いがつんと鼻をついた気がした。吐き気を感じたが、しかし近々ろくに食事をとってもいない胃は吐き出すものもなく、彼は身を曲げながらその部屋を出た。
帰りたい、と彼は思った。だがどこに彼の帰る場所があると云うのか。
(フェミナ……フェミナ)
愛しい名を唇には乗せずつぶやく。
進む先には闇、だが振り返るそこにあるのもまた闇であった。
彼はなお塔を上った。
上る階段は果てしなく、闇は更に深さを増し、彼の手に下げられたランタンの明かりなどは今にも消え果てそうに見えた。
ここは理解できない。手に負えない。そう思ったならば本部に戻り、隊長に報告した上で判断を委ねれば良いのだが、しかしそういう気にはなれなかった。
なぜかと問われても彼自身にも分からない。使命感とも義務感ともつかぬ、とにかくもこの塔を上りきらねばならぬ、という奇妙な思いが彼を捕えていた。
部屋を一つ一つ調べるのは、もはや諦めた。
いくら調べても彼には理解ができないし、塔はどこまでも続いていたからだ。
(誰かいないのか、それを確かめなくてはならない)
乾かぬ血のついた剣から推察するに、少なくとも遠くない時間にこの塔を訪れた者がいるはずだ。
その者はあるいはまだこの塔の中にいるかもしれない。
いや、いる公算のほうが高いだろう。
彼は、周囲の気配に注意しながら塔を上り続けた。
だがいくら上っても何者の気配もない。
ふと覗く部屋の中には得体の知れないびろうどのような布や、見知らぬ文様の旗、一番ひどいときには見たこともない一つ目の生物の死骸が硝子瓶の中からこちらを見ていたりしたがそれだけで、生きているものは虫一匹たりとて存在する気配はなかった。
どれほど昇り続けたであろうか。
彼は自分が丸一日もこの階段を昇り続けているような気持ちになってきた。
実際にどれほど経っているのかは分からない。
塔の中は用心深くとすら云えるほどに外界からの光を完全に遮断しており、いまがまだ夜なのか、あるいはもう日は昇っているのか、それとも昇った日も再び沈んだ後であろうか、それすらも分からない。
(そして、男が再び太陽の下へその姿を晒したときには、大いなる都は完全に潰え、その廃虚すらも深い砂塵の下にただ身を横たえるのみであった)
とある迷宮に迷い込んだ旅人が、艱難辛苦の果てにそこを脱出すると、外の世界では幾百幾千の時が流れていたと云う。
それは、どこの逸話であったろうか。
幼い日の記憶は他人事のように遠すぎて、もはやよく覚えてもいない。
彼は己を笑った。
(どうしたことか、境界の扉といい、今日はよくくだらない説話を思い出す。そんなものより、現実のほうがよっぽど容赦もなければ恐ろしくもあることを知る歳にはなったろうに)
乾いた口には出さぬ笑いに吹かれたように、ランタンの炎はひととき強く輝くと、突然ふっと消え去った。それでは、油が尽きるほどには塔をさまよったということか。
予備の燃料など用意していない。今度は何も身を守る術も持たぬまま、彼は再びまったくの暗闇の中に立たされた。
(進むも闇、戻るも闇、どちらに行こうが、同じことか)
彼は自嘲的な笑いを、今度は声に出してあげた。
その時、気づいた。
(光……)
彼の前方上、いまいる場所からあといくらも階段を昇ったところに、薄く青い光があった。
光があまりにもわずかなものであったため、炎の赤に紛れ今までは気がつかなかったのだ。
塔の中に入ってより、初めて彼が目にするランタン以外の明かりだ。
(明かり……扉が、ある)
闇に多少目が慣れてくると、その青光が閉じられた扉から漏れているものだとわかる。
扉の向こうに何かある。あるいは何者かがいるやもしれない。
彼は慎重に、壁に手をつきながら一段一段闇の中を光目指して昇っていった。
(耳鳴り。……いや、違う)
感じるが聞き取れぬ、得体の知れぬ音が彼の耳に響き始めた。
足が重い。闇が物質的な重さを持って粘ついているようだ。
嫌な予感を感じた。というよりは、最前よりずっと感じていた悪寒が、ついに無視することのできぬほどに膨れ上がっていた。
引き返せ、いまからでも遅くない、帰れ、彼の本能がそう告げていた。
だがそれは過ちだ。すでに彼は絡めとられ逃れることなどできはしない。
ついに彼は青光の漏れる扉の前に立った。
そしてそれはどこまでも続くかと思われた螺旋階段の終点でもあった。
どれほど昇ったのか、彼はついに塔の最上階へ立ったのだ。
手を伸ばすと、扉は彼の手に触れぬうちに自ずから開いた。
その瞬間、彼は青い光に包まれながら、その人を見た。
(陛下)
「誰……だ」
かすれた声だった。
彼はとっさにその場にひざまづくと臣下の取り得る最上級の敬意を示す礼をした。すなわち、携えた剣を手早く外すと床に置き、その手前の床に己の頭をつけた。
そのまま告げる。
「近衛隊所属、クライ・ローデンスと申す者でございます。今宵特殊警備隊の任に着き、王城内を警護いたしておりましたところ、見慣れぬ建物を見つけ、いかなるものかと調査に参りました」
口早に告げそのまま黙って身動き一つせず次の言葉を待った。その人は何を思っているのか、しばし沈黙した後、云った。
「……顔を上げよ」
その声もかすれた小さなものであった。まるで老人のように。
だがいいしれぬ威厳をもまた備えている。
人の上に立ち、導くことに慣れ、それを当然と捉えているものの持つ威厳だ。
(なぜ、ここに……)
その人を、彼は近くでしかと見たことはない。
近衛兵とはいえ、所詮彼は一兵卒にしか過ぎず、その人は生きながらにして天上の人であり、彼もまた遠くから太陽を見るようにその人を仰ぎ見るばかりであった。
だが、それでもその人を見まごう者など国内のどこを探してもいまい。いかに彼が絶望の最中にあっても、その人を前にして礼を失うことはできなかった。
「御前に私のごとき卑しき身の者が姿を晒し、御尊顔を拝する無礼をどうぞお許しくださいますよう、その平原よりも広く太陽のごとく暖かなる御心に御願い申しあげます」
神聖イルナー王国で最も尊き人、地を治める平和の具現者、その人。
「地上にただひとかたなる我と民人の主君、神聖イルナー王国第十七代……」
かさかさかさ――
言葉をさえぎる枯れ草を揺らしたような音が、その人の笑う声だと気づいて、彼は戸惑い顔を伏せたまましばし口を閉ざした。
「何を思い違いしている。口上はよい、顔を上げよ。そしてしかと私の顔を見るがよい」
「恐れながら……」
彼は顔を上げ、そして見た。
広い部屋だった。いかなるからくりか、その部屋は塔の今まで見たどの部屋よりも遙かに大きく、円を描く形で広がっており、天井も高かった。これこそが、聖王城に本来あるにふさわしい広さと云えた。
しかし飾られているのは、高名な画家の描いた絵画の代わりに自ら青く光る奇妙な巨大な硝子板――これが先程からの光の正体であった――であったり、英雄神リクリスをかたどる彫刻の代わりにおぞましい三つ目の巨大な毛むくじゃらの怪物の生きているかのような剥製であったりした。
奇妙なものばかりであり、あまりに無秩序で統制されていなかった。それらの共通点は一つだけである。
いまこの世界には存在してはいけないはずのものである、という。
それら禁忌のものに囲まれて、幽鬼のごとく立っているのは……
(違う)
黒い影に溶け込むように立っているのは、一人の老人だった。
「どうした。いつまでそんなところに座り込んでいる。入ってくるがよい」
「……はい」
呆然としながらも、彼はそうあるべく日頃仕込まれているように、動揺を最大限押し隠し、老人の言葉に従い立ち上がり室内に歩を進めた。
部屋に入るとすぐに、後ろの扉が音もたてず閉まった。
「私の顔が見えるか」
「はい」
あの硝子板の光で室内の大体の様子は知れる。
「では、お主の思い違いも理解したか」
「……はい」
今となっては、いったいどこをどう見間違えたと云うのか、そこに立つのは、聖王イル・サイナスとは似通うところ一つない老人である。
似ているはおろか、むしろ正反対の存在とすら云えた。
聖王イル・サイナスは、その為政者としての才覚とともに美貌の人としても知られていた。
王子であった頃から非常にイルナー王族的な、線の細い美少年であると云われていたが、十八で即位するときにはその美貌は地に並ぶものなきと評されるほどとなっていた。
しかもその美貌は歳を重ねるごとにますます輝きを増していくのだ。
腰までもある艶やかな金の――まさしく金色としか云えぬ――髪は太陽のごとく自ら光を発しているようであった。
一点の曇りもない金の瞳はすべてを見通しているようでありながら、許しと慈愛に満ちていた。
肌は透き通るように白く傷一つとしてなく、また傷つけることも不可能に思われるほどになめらかで、その肌の上にすっと筆で描いたように奇麗な朱をひく薄い唇も、鋭く意志強さを感じさせる眉も、これが正しい、最も美しい、人のありかたであるのだと人々に思わせる。
白と紫を基調とし、そこに金糸で美しく緻密な刺繍がいくつも入った聖王衣は、平原随一と云われるイルナーの文化の髄を極めた豪奢で鮮やかなものであったが、それを身に着ける人のほうがなお輝いていた。
それでいて弱さを感じさせると云うことは決してなく、逆らいがたい威厳と強さをもまた持っている。
聖王イル・サイナスは、まさしく聖なる王であり、王となるべくしてなった人だと誰もが云った。
先王の第三子であり、王位継承権もまた第三であったサイナス・トリータが、兄王子の相次ぐ不幸により王になったのは、運命であると人々は噂した。
二人の兄王子が民衆に厭われていたわけではない。
第一王子ギルアス・ロードは多少素行の悪さで知られてはいたが、同時に勇猛な武将であり、常に前線に立ち軍を指揮する姿は民衆の目に頼もしくうつった。
第二王子カイラス・ツィーズは物静かではあったが、目には深い知性をたたえ、詩吟に通じ、文化の国であるイルナーの一方の象徴とも云える人であった。
二人とも方向は異なるとはいえ、聖王家の人間としてふさわしいだけの美貌とカリスマは持っていた。
それでも、違う、違ったと、いまとなっては民衆の誰もが思う。
彼らは聖王となる運命にはなかった、と。
二人の兄王子に非はないし、その死は悼むべきことではあったが、しかし違う。
二人と聖王イル・サイナスとは、あまりにも《違う》。いや、イル・サイナスがほかのいかなる人間とも《違いすぎる》のだ。
イル・サイナスは、一つの世世界であった。
イル・サイナスが微笑めば、国もまた微笑むだろう。
イル・サイナスが怒りに震えれば、国もまた怒りに震えるだろう。
イル・サイナスはつまり、そういう存在なのだ。
(その、聖王陛下と……)
自分のことでありながら、彼はまったく不思議であった。
姿を見たのは一瞬とはいえ、なぜ目の前に立つ老人を主君であるなどと勘違いしたのか。
奇妙な老人であった。全身をまったくぼろぼろの、ぼろきれのような黒衣で覆い隠し、顔と左手だけをそこから出している。左手は枯れ枝のように細く乾いており、そのためか不自然なほど指が長く見える。
だが彼をたじろがせたのはやはり顔で、肌が乾ききっているのは手と同じだが、その中で目だけが夜に飛ぶ鳥のように大きく見開かれ光っていた。
「気味が悪かろう」
彼の気持ちを見透かしたように、老人は云った。
「……いえ、決してそのようなことは」
「正直者だな、目が語っている」
なんと答えていいかわからず彼は黙った。
気味が悪いかと云えば、確かにそうだった。
青い光のみがうっすらと差す室内で、老人は闇の中に立つ、というよりも、むしろ闇を背負っているように見えた。
塔を上る間、彼は進めば進むほど闇が濃くなるような感覚に襲われた。この部屋にはわずかとはいえ光もあると云うのに、その感覚は少しも薄れていない。むしろこの部屋が今までのどこよりも闇が深く濃く、重く感じられる。
(まるであの老人から、闇が生み出されているようだ)
自分の考えを馬鹿らしいと思いながらも、どうしても彼にはそう思えてならなかった。
あの老人こそが闇の源、元凶なのだ、と。
老人が、微かに左手を動かしたと見えた。
「うっ」
急激に、抗いがたい力によって彼は腰を下ろさせられた。次の瞬間、彼は何かに腰を掛けている自分を発見した。
(つい先程まで、確かに何もなかったはずなのに……)
座り心地の非常に良い、ゆったりとした椅子だった。彼の腰は柔らかな感触に包まれ深く沈み、腕は自然で心地よい形に肘掛けにおかれていた。
座っているのが自然なことであると思わせるような椅子だった。不自然な点があるとすれば、いかに目を凝らしてもその椅子が目には見えない、ということだけ。
「座るがいい。……あまり気にするな、どうあがいても通常の視力で見えはしない」
老人も、同じように見えない椅子へと座った。
再び微かに左手の指先を動かす。
するともともとあまり強くなかった青い光は更に薄くなり、あるかなきかのごとくとなった。
彼の目には室内の様子も分からなくなったがしかし、それでも老人の姿は一段深い闇で輪郭を描いたようにはっきりと見えた。
「さて……」
彼は老人と向かい合うような形で座らされていた。
距離は結構離れている。だが、光が弱くなってから彼には老人がすぐ近くにいるようにも遙か遠くにいるようにも感じられた。
老人は暗闇と同じ色をした黒い瞳で彼を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「おまえは何者だ。どうして、いかようにここへとやってきた」
どうして。
それはむしろ彼の訊きたいことだ。
なぜ、緑豊かなはずである神の庭は荒れ果て、存在するはずのない塔が神の庭にあり、なぜその塔の中にこの老人はいるのか。ここでいったい何をしているのか。
疑問を飲み込み、彼は慎重に云った。
「聖王近衛隊所属、クライ・ローデンスです」
礼を失さぬよう、だが先程よりはずいぶんと簡潔に云う。
「なぜここへ来た」
「警備の巡回中、見慣れぬ建物があったからです」
「……どうやってここに来た」
「どうやって、と申しますと」
「いかなる手段を用いてこの塔に入り込んだのか」
「どうやって、と云われましても……。神の庭より扉を開け、入ったのですが」
「……ではお前にはこの塔が見えたのだな」
(当たり前だろう。これほど堂々建っていれば、いやでも見える)
「はい」
内心を押し隠し、彼がそれだけ云うと、今まで淡々と話していた老人は少しの間黙りこくった。
「私からも少しよろしいですか」
「待て……」
闇の向こうで、老人がわずかに身じろぎするのが見える。動揺しているように見えるのは、彼の気のせいであろうか。
「……そうか」
「よろしいでしょうか」
老人は無言だしうなずきもしないが、否定もしない。
(何から、訊くべきなのか)
彼が迷っていると、再び枯れ草の笑い声が聞こえた。
「おもしろいものだな。偶然か、あるいは……。よかろう、お前、クライと云ったか」
「はい」
「ではクライ、少し昔話をしてやろう」
言葉と同時に、周囲は完全な闇に包まれ、どうしたことかあれほど存在感を示していた老人の気配も突如として跡形もなく消えた。
驚いた彼はとっさに立ち上がろうとした。
が、強力な見えない手に押さえつけられでもしたかのように、身動きが取れない。
「あわてるな。私ならここにいる。ほかでは決して聞けぬおもしろい話をしてやろうというのだ。じっくりと楽しんでいけば良い」
再び、笑い声がした。
彼は観念した。
(この老人が何者かはわからぬし、特殊警備隊の任を考えれば、こうも得体の知れぬ相手の云うがままになるわけにはいかぬのだが……)
「安心しろ。この話が、お前の知りたいことのいくらかの答えとはなるだろう」
「わかりました」
なかばやけ気味に彼は云った。もとより、一月前より自暴自棄には慣れている。
彼の気持ちを知ってか知らずか、老人はかすれた声で朗々と語り出した。
「現在の平原諸国のほとんどすべてが、魔道帝国ロズの支配を打ち破り新たに建てられたものだということは、知っているであろう」
彼はうなづいた。平原に住む者ならば三つの子供でも知っているような事実だ。
「その中にあってただイルナーのみが旧暦より続く由緒ある国である……だからこそイルナーは聖なる土地であるのだ、と。誰もが知っていることだ。だが、なぜただイルナーのみが暗黒帝国ロズの魔手を逃れ存続することができたのか、わかるか」
「大神ローネスの御加護かと」
(馬鹿らしい、信じてもいないことを)
「愚かな。神が何をしてくれるというのだ」
彼が心の中のみにとどめた言葉を、老人は恐れる様子もなく口にした。
「だがそれが公式の見解となっているな。愚かしい、どうすれば、そこまで愚かであれるのだろうな。神が何をしてくれる。神はいるかも知れない、だが神は選り好みして人間を救ったりはしないだろう。人間、というよりは種を、だな。神が真実創造の主であるのならば、人も畜生もわけへだてのないものであろう。……真実はな、イルナーとは暗黒魔道帝国ロズそのものであるからだよ。いや、ロズの正体が神聖イルナー王国である、というべきかな」
「……」
老人のあまりに意外な、そして冒涜的な発言に、一月前より愛国心の薄らいでいる彼とても言葉を失った。
「もとより、あの時代に最初の戦乱を起こしたのはイルナーだった。聖戦などではない、純然たる軍事力をもっての侵略戦争だよ。初めは隣国との小競り合いに過ぎなかったが、イルナーは最も魔道の研究が進んでいる国だったのでな、圧倒的な勝利をおさめた。勝利に味をしめた時の王は、更なる侵略を望み魔道の軍事利用の研究を進めるため一人の天才魔道士を召し抱えた。魔道士は王の期待に応え、さまざまな軍事的魔道を編み出した。その最たるものがマモノ――そう、今もゾルドの森で永遠の命を持て余している、あれだよ」
「……」
「あまり驚かぬな、ではこれはどうだ」
青い光が彼の眼前に広がったと思うと、そこにマモノが浮かび上がった。
「うっ……」
彼はあわてて立ち上がろうとしたが、からだが動かない。
「あわてるな――虚像だよ、ゾルドの森の光景を映し出したに過ぎない。実害は何もない。どうだ、これがマモノだ。無論、知ってはおろうな」
「……ああ」
「見るのは初めてか。ゾルドの森には強力な結界が張られ、何者も入ることも出ることもできないのだから、当然か」
彼はろくに返事をすることもできず、あえぐように呼吸をするだけだった。
彼の目の前には、いくつもの奇妙な生命の姿が映し出されていた。
全身に無数の口と牙を持つもの。
腹部に巨大な一つ目を持つもの。
腕が樹木のようにいくつにも枝分かれし、その先に小さな手が鈴生りにいくつも生えているもの……。
いずれも、見るもおぞましい異形の怪物の数々であった。
(気持ち悪い……なんだこれは、この不快感は……)
「わかるか……、わかるな、これがマモノだよ。この人間もどきがね」
「人間……もどき」
そう、おぞましいのは、その異形の怪物たちがすべて、人間を思わせる形をしていたことだ。
そう思い至ると、目を逸らしたくてたまらなくなったが、体は動かず目をつぶることもできない。
「見るのだ。見るのだよ」
老人の声にサディスティックな響きが加わる。
「これがマモノだ。これが旧イルナーの生み出した生体魔道兵器だ」
一体のマモノが、そのからだを頭部と思われるところから縦に真っ二つに裂いた。
赤黒いグロテスクな内部が現れると、そこには巨大な牙がある。
(吠えている……)
虚像から音は聞こえなかったが、空気が震えたような気がして彼は身震いした。
それは冒涜だった。
生命を作り出した大いなる神への、この世に生きとし生ける生命全てに対する、冒涜。
マモノとはそういうものであると、彼は理解した。いや理解させられた。どこまでもおぞましいマモノの姿を一目たりとも見たならば、誰でも理解すせざるを得ないであろう。
こみ上げてくるのはただひたすらに、嫌悪。
こんなものが存在してはいけないのだと、理屈ではなく本能に刻み込まれる。
それがマモノであった。
「この禍々しい生命を用い、旧イルナーは平原に覇を唱えた。いかなる強大な軍隊もマモノにはかなわなかった。瞬く間にイルナーは平原の半分までもを平らげた。誰もがイルナーの凶行に怒りに震え、イルナーの滅びを願った。そして――」
音を立てずマモノの姿が消え、再び周囲は闇に包まれた。
「彼らの願いは叶った。イルナーが内乱により滅びたのだ。ここから先は多少私の推察が入るがね、やはり無理があったのだ。最初の戦争から旧イルナーの滅亡までは一年とないという。国土も充実しなければ人心をつかむこともならない短期間での連戦では、マモノに頼らざるを得なくなる。おそらく滅亡直前のイルナー軍はほとんどマモノであったろうな。……私はね、思うのだよ。人を殺すのは、やはり自然の摂理のうちにあるものでなくてはならない。摂理のうちにない死は、歪みを生む」
「ゆ……がみ……」
「そう、歪みだ。存在してはならぬ、摂理の歪曲だよ。ひとたび生まれた歪みはさらなる歪みを生むしかなくなるのだ。旧イルナーは歪みを生んだ。魔道という名の歪みを。その歪みがついに旧イルナーを包み込むほどに大きくなった、ということなのだろう。……内乱を起こしたのはマモノを造り出した魔道士だった。仕組まれていたのだよ、最初から。マモノはすべてその魔道士の命に従うように造られていたのだ」
「では、まさかその魔道士が……」
「魔道士の名はロズ・クリーウァイ――暗黒魔道帝国ロズの誕生だ」
「……」
「あとは、まあつまらぬ話だ。お前の知っているであろうこととたいして変わらぬ。十数年の後、平原のほとんどは草木の生えぬ、生き物の影のない渇いた死の大地と化した。人々は各地に潜み、反逆の時を待った。そして勇者フェイズが現れ、絶大な統率力を持って大イルナー共和連合を結成、ロズとの全面戦争を起こしついにこれを打ち破る。フェイズは旧イルナー王家の血族であることから、復興したイルナーの王座に就き、国名を神聖イルナー王国と改める。もっとも、フェイズは王家のものであったとはいえ、傍流も傍流、太平の世なら王族などとはとても認められぬ程度のものであったがな。ともあれこうして現在の神聖イルナー王国が生まれたわけだ」
それがこの話の締め括りであると知り、彼は大きく息を吐くと、いつのまにか自由になっていた身を見えない椅子に深くもたらせた。
「魔道帝国の礎が、我がイルナー王国であった、か。なかなか興味深い話でした」
「旧イルナーがマモノにそうまで頼らなければ、マモノなどを造り出さなければ、マモノを生み出した魔道士を召し抱えなければ、いや、そもそも魔道などという歪みを生み出さなければ、暗黒魔道帝国ロズなどというものは存在しなかったはずなのだ。ロズを打ち倒したところで、それで神聖なる国であるなどと、片腹痛いわ」
重い声で、老人は云った。彼はうなずく。
「その通りかもしれません」
「ほう……。お前は近衛兵であるのに王国を否定するような言葉を捨て置くのか」
「私は」
彼は笑いながらキッパリと云い切った。
「本当はもうどうでもいいんですよ。イルナーもローネスも王国も。いくら信じていようとも答えてくれることなどない。先程あなたも云われましたね。神はいるかもしれないが、選り好みして人間を助けたりはしない、と。きっとそれは真実なのでしょう。しかし、いくら信じ尽くしても答えてくれないのなら、神も国も王も必要ない。……本当はね、私はもうこの生だってどうでもいいのですよ。ただ仇を討てないのだけは心残りですが、きっともう無理だろうし……」
彼が話しおえると、老人はそれをどう受け取ったのか、深い沈黙がおちた。
「……顔を見せてもらってよいか」
「どうぞ。しかしこの暗闇では何も見えやしませんが」
「案ずるな」
突如激しい光の中に包まれる。
眩しくて何も見えなくなる。だが彼は目も閉じずその光を受け入れた。
「これは」
「しばらく待て……すぐに終わる」
言葉通り光がおさまると、再び彼の前の空間に虚像が映し出された。今度はマモノではなく、彼の見知ったものだった。
(これは……俺か)
彼の顔であった。しかし、一月前の、本来の彼の顔とのあまりの違いに、彼自身でも一時そうと分からなかった。
(ひどいものだな、これは)
最初老人を見たとき、青い光の中に立つ姿を幽鬼のようだと感じたが、人のことは云えない。
目の前に大きく映し出されている彼の顔は、不眠と断食のためひどく頬が削げ落ち、髪はもとのブロンドがわからぬほどの白髪混じり。肌は死体のように青白くそのくせ目の周囲は異常に黒ずみ、落ち窪んだ眼窩の下で狂気の色を秘めた灰褐色の瞳が鋭く中空を睨んでいた。
「すみませんが、消してもらえますか。不快です」
「不快か、己の顔を見るのが」
「ええ、どうしようもなく」
「……わかった。すまなかったな」
言葉とともに、映像は消えた。
しかし、彼の脳裏には自身の顔が焼き付き消えなかった。
「一つ、よろしいですか」
「よかろう」
「結局、あなたは何者なのですか。先程の話からは、それを示唆するものはなかったように思うのですが」
「ふん……。魔道帝国ロズが滅びたとき、ロズの魔道文明はどうなったと思う」
「ことごとく破壊され、ごく一部がローネス教の管理下で封印されているのみと聞いていますが」
「ロズの礎となったのは旧イルナーであったと云ったろう。魔道文明は、もともとイルナーのものだったのだ。それを捨て切ることができるわけはなかろう。しかも極限までぼろぼろになった国を立て直さなければならないのだ。結果、ほかの国は知らぬが、イルナーでは公然の秘密として魔道は使用され続けた」
歴史を覆すような言葉にも、もはや彼は少しも動じなかった。こうも立て続けでは、驚きも麻痺するというものだ。
「それでも一応は魔道の恐怖というものが身に染みていたのだろうな。時が経つにつれ、魔道は生活から取り除かれた。だがイルナー王家は魔道の完全なる消滅を惜しんだ。魔道を失ってはイルナーは他国に対し有利性を失うことになる。当時の王家は悩み……そして魔道を秘匿することにした。隠したのさ」
「隠した……」
「そう、一ヶ所に集め、それを誰も手の触れられぬ場所へ隠した。聖王城の深く、立ち入ることの許されぬ庭に、魔道のめくらましをかけて」
「……それが」
「この塔だ。ここは最後の魔道文明の遺産であり結晶だ。一応はこの塔も封印されはした。ただし、教会ではなく王家の管理下でな。時代は平和であったし、魔道が危険なことは理解してはいたが、イルナーに危険が迫ったときのいわば切り札として、この塔はつくられた。そしてながらく使われていなかったのだがな、この争乱の時代に、聖王は塔の封印を解いた。そういうことだ。……私は魔道士の最後の生き残りだよ。王家は塔の使用者として密かに魔道士の家系を一つだけ存続させた。その家は一子相伝としてこの塔にある魔道すべての使用法を子供に伝える。私がその家系の現当主、最後の生き残りと云うわけだ」
急に、部屋が明るくなった。あの不思議な青い光ではなく、彼の見慣れた明かりだった。
彼のランタンだった。いつのまに手放していたのか、彼の足下に油が切れていたはずのランタンが炎を灯して置いてあった。
「この塔は王家の秘匿だ。本来ならばどのような形であれここに近づいた部外者の口は封じなければならない」
「……殺す、ということですか」
もし今までの話が真実だとすれば、外に漏らすわけにはいかない。彼もとうにそれは理解していた。
「そうだ」
「私を殺す、と」
予想していたことだ。彼には恐れはなかった。
(これで良いのかもしれないな。自分で死ぬ気にもなれぬ俺に、神が機会をくれたのかもしれない)
そうとすら思った。だが老人は笑い声とともに答えた。
「本来ならば……な。だが、お主はおそらく誰にも云わんであろう。仮に誰かに云ったとしても、今のお前ではついに精神に異常ををきたしたのだ、としかみな思わんだろう。……帰るがいい、クライ・ローデンス」
再び抗いがたい力が彼をとらえ、立ち上がらせランタンを手に取らせた。
「ただしこの塔のことは誰にも云ってはならない。云えばその場でお前は命を落とすことになる。お前の生命波長はすでに登録した。どこにいようが魔道がお前をとらえていると思え」
「わかりました」
彼は言葉に従うことを決め、ぼんやりと青く光って場所を指し示す扉のほうへと歩いた。
「本日は大変興味深い話を聞かせていただき、大変感謝いたします。この御恩は忘れぬようにいたしましょう」
「忘れるのだ。今宵目にしたものの全て、耳にしたことの全てを」
「わかりました」
扉は彼が近づくと、手も触れないうちに開いた。
「それでは失礼いたします」
「……待て」
彼は立ち止まり、声のしたほうへと振り向いた。しかしそこにあるのは闇ばかりで、老人の姿はやはりなく、声だけが続いた。
「お前、この部屋に入ってきたときに、私を誰かと見間違えていたようだったな」
「はい、恥ずかしながら、その通りです」
「あれは、誰と……」
「聖王イル・サイナス陛下です」
老人はいままでで一番深い沈黙の後、云った。
「何故、間違えた。私と陛下は似ても似つかぬように思うが」
「さあ……。ただあの不可思議な青い薄光を背に立つあなたの姿を見た瞬間、聖王陛下であるように感じたのです」
「……」
闇の向こうで誰かがふっと微笑んだように、彼は感じたが、気のせいであったろうか。聞こえてくるのは、ただ老人の急き立てる声ばかりであった。
「……とんだ不心得者よ。さあ、いくがよい。そして二度とこの塔に近寄るでない。もっとも、お前の目にこの塔が映ることはもうないであろうがな」
彼は部屋を出、そして階段を下りた。
来るとき永遠に続くかと思われるほど長かった階段は、精神的なものかあるいは魔道の技か、存外に早く終点を迎えた。
重い鉄の扉を、彼は入ったときと同じようにゆっくりと開け放った。
(夜が明けている)
高い壁の向こうに、昇り始めた日の光が見えた。
長い闇の放浪から帰ってきた彼を迎えたのは、廃虚と化した街ではなく、いつもの聖王城と朝日であった。
彼は神の庭の扉を開けた。そこにはまだ壁にもたれて眠りこけている少年兵の姿があった。
「いつまで寝ている」
「はいっ……えっ、あっ……」
少年兵は目覚めきっていない顔であたりを見回し、数瞬後にようやっと自体を把握したか、彼に向かって深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございません、明け方になりついうとうとと……」
「いい。私が代わりに見張っておいた。異常はなし。扉の中もだ」
「す、すいません。ありがとうございます」
少年兵は何度も頭を下げた後で、そっと彼の背の向こう、彼のいましがた出てきた扉の向こうを見て嘆息をついた。
「ああ、やはり素晴らしいですね。私などは扉を開けることも許されていないので、昨日一度見せていただいただけなのですが、ここはとても美しい庭園ですね。さすがに神の庭と云われるだけのことはあります」
彼は振り向いた。
そこには荒れ果てた地も奇妙な塔もなく、当たり前のような顔をして色とりどりの花を咲かせた庭園があるばかりであった。
「クライ、一体どういうことだ」
隊長室を出ると、声をかけてくる者がいた。
日に焼けた赤褐色の髪と浅黒い肌を持ち、健康そのものといった逞しい肉体を彼と同じ近衛隊の正装に包んでいる若者。
同僚のディズラッド・アーリーンだ。
ディズラッドは歳は一つ彼より上だが、彼と同期であり、近衛隊に入隊したのも同時でもあることからか、以前より彼によく話しかけなにくれとなく世話を焼きたがる。
彼のほうも以前はそんなディズの好意をありがたいと思っていたし、つきあいも短くないので気心の知れた良い友人だと思っていた。
ほんの一月前までは、だ。
「うるさいな、俺にわかるわけがないだろう。上に訊いてくれ」
彼はディズラッドの手を邪険に降り払うと振り向きもせず足早に歩いた。
一月前、あの事件より後は、以前心地良いと思っていたディズラッドの好意が鬱陶しく感じられる。
彼が一人で部屋に閉じ込もっていたりすると、たいがいディズラッドが現れてあれやこれやと彼の気をひこうと話しかけてくるのだ。
ディズラッドが、意気消沈し自暴自棄に陥っている彼をなんとか元気づけようとしているのはわかる。ディズラッド・アーリーンとはそういう人間だ、と。
だが彼は思う。
(俺のことを考えているなら、そっとしておいてくれ。それが一番ありがたい)
そう思っているから自然態度が邪険なものとなってしまう。
それでもめげず話しかけてくるのが、ディズラッドの美点であるとは彼も知っているのだが、やはり鬱陶しいと思ってしまうものはしようがない。
「上って、隊長の上と云うと、命令系統から云えば宰相殿か聖王陛下だけだぞ」
「わかっているなら訊きに行けばいい」
「馬鹿を云うな。いくら近衛隊とはいえ、一兵卒にそんな真似ができるわけないだろう」
「ではあきらめろ」
「心当たりはないのか」
(鬱陶しくてかなわん)
そう思わざるを得ない。
冷たく聞こえるように淡白に云う
「ない」
「そうか……。クライ、何だったら俺が代わろうか」
「別にいい」
「よくはないだろう。こんなところに一日中立ってろだなんて、近衛兵にもなっておかしいじゃないか」
「お前も近衛兵だろう」
「いや、俺はいいよ。まだ新入りだってのに、失敗ばっかしてるからな。本来ならこういった罰は俺に下されるべきなんだ」
「命じられたのは俺だ」
「それはそうだが、何だったら俺が今から隊長に……」
さえぎって彼は云う。
「ディズ、そろそろ時間だ。行かなくていいのか」
「ああ、くそ、もうそんな時間か」
ディズは回廊の窓から夕焼け空を見上げると、いまいましげに一つ舌打ちをした。
「じゃあ俺は行くが、がんばれよクライ。後で様子を見に来るから、辛かったらそのとき交代しようぜ。なに、次の奴との交代時間までにこっそり戻ってくればわかりゃしないさ」」
(結構だ)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、彼は黙ってディズラッドの去っていくのを見るともなく見送った。
ディズラッドの姿が回廊の向こうに消え、あたりに誰もいなくなったことを確認すると、彼は扉に寄りかかった。
どうせ、誰も来やしないのだ、昨晩の彼のように、祭りの日に静寂を求める変わり者がそうそういるとは思えない。みな今頃は街に出て陽気に騒いでいることだろう。
彼は神の庭の扉の前に立っていた。
(本日夕刻をもってクライ・ローデンスの特殊警備隊の任を解く。同時に王城北十四地区警備を任ずる)
彼は塔を出た後、ほか大多数の兵士たちと同じように自室に戻りベッドの中に潜り込んだ。
日が暮れればまた警備につかなければならない。休めるときには休むのも兵の仕事である。
せっかくの祭りだからとなかにはそのまま広場に直行し、交代の時間まで眠らずに過ごす者もいたが、祭り気分を味わう気のしない彼は、少しでも喧噪が聞こえて来ぬようカーテンを締め切り布団を頭からかぶって目をつぶるばかりであった。
それでも夜を開け二日目を迎えた聖王大祭のこの世のものとも思われぬ喧噪は彼に安眠を許しはしなかった。
眠れぬのは喧噪のせいばかりでもない。あの日から彼は幾晩もまんじりともせぬ夜のなか、ようやくうとうとと眠り始めては悪夢にうなされ飛び起きると云う毎夜を送っている。
慢性的な睡眠不足であったが、それでも彼は眠気をあまり感じなかったし、もはや安らかな眠りというものが自分に得られるなどと思ってもいなかったから、気になりはしなかった。
むしろ眠れば必ず訪れる夢の中で、幾度も繰り返すあの時の情景を見ることこそが耐え難い苦痛であった。
昨晩もまた、彼に眠気は訪れなかった。しかしそれはいつもの不眠症とも祭りの喧噪のためとも違っていた。
(あれはなんだったのだろうか)
彼はあの塔と老人、そして老人の語った物語を目をつぶったまま思い浮かべる。
それらの奇妙な情景はあまりに現実ばなれしているため、どんなに克明に思い出そうともまるで夢のようにおぼろげで頼りなかった。
(怪しげな魔道の塔、最後の魔道士、マモノ、信じられないな。夢だったのかもしれない。なんだか、最近夢と現実の区別がつかなくなってる気がするから)
己の叫び声で目覚める夜半、彼は幾度となくむせぶような血の臭いを確かに感じた。それがよりひどくなったのかもしれない。
(それでも別にかまわんか。困ることでもない)
自分一人ごときが真実狂気に陥ったところで。
それよりも、あれはなかなかに楽しかった、と彼は思う。
勇者の血を引く正統にして神聖なる国家と云ってはばからぬこの国が、まさか魔道帝国を生み出す礎となっていたとは。とんだお笑い種だ。しかもまだ魔道を隠匿し、使用しているらしい。これを公表すればローネス教の聖地であるからと友好を保ってきた近隣国家が一斉にイルナーに牙を剥くだろう。
(それでも神聖王国などと、聖王などといっていられるものか)
そのさまを見てみたいと彼は思う。しかし、それを口にすることは禁じられていた。
でも、だからといって約束を守る義務はない。
嘘かまことか、口にすれば命を落とすことになるとあの魔道士は云っていたが、ただそれだけだ。
死ぬのは別に恐くない。
(ああ、でも死んだらこの国が糾弾されるさまを見ることができないな。それではつまらない、意味がない。……しかし、ということは俺は死のうと思えばいつでも死ねるわけだ。あのじいさんの魔道を信頼するならば)
それだけはとても信頼できそうだと、彼はほくそ笑んだ。
実際あの老人ほど魔道士と名乗るにふさわしい人間はいないように思われた。闇そのものを身にまとっているような人間だった。
(あの塔の話をするだけで、俺は死ねるわけだ)
その考えは彼の心を浮き立たせた。
(死ねる、気楽に、大した決意もしないでいいし、かなり確実で、誰にも迷惑が掛からない。最高だな)
気持ちが軽くなると、珍しく強烈な眠気が彼を訪れた。
その眠りはひさかたぶりの、夢をも見ぬ深い眠りであった。
*
再び意識を取り戻すと、すでに日は傾き始めており、部屋の扉を誰かがけたたましく叩いていた。
ディズラッドだった。
ディズラッドは近衛隊長が彼を呼んでいると告げ、着替えも終わるか終わらぬかのうちに彼をひきずるようにして近衛隊隊長室へと連れていった。
そして隊長から、彼は警備部所の転属を命じられたのだ。
近衛隊が祭りの間に特定の場所の警備を任ぜられると云うのはとても珍しい、ほとんど類のないことだ。
近衛隊はいわばエリート兵の集団であり、祭りの時はその能力を最大限に活かすため、大まかな配属地区と警備時間のほかはなにも制約されず、有事の時は自己の判断でその場を取り仕切る権限を持たされた特殊警備隊の任に着くのが常である。
昨日までは彼もその任に着いていたし、ディズラッドや他の近衛隊員は今も特殊警備隊として聖都中を巡回しているはずだ。
なのに彼だけが王城北十四地区、すなわち神の庭に通じるただ一つの門の警備を命じられた。
「俺にもわからん。これは上からの命令だからな。それに従うまでだ」
隊長はそう云っていた。
近衛隊は軍の中でも特殊な立場にあり、隊長は将軍などの命にも従う必要がない。近衛隊長は聖王を守る兵であり、命令ができるのは聖王その人か有事の際に王の名代をつとめる宰相だけである。
そうなると、彼ら国政の頂点に立つ人間がなぜ一近衛兵の警備場所を変えようなどと思うのか。
普通の人間ならばディズラッドのように理解に苦しむだろう。
ディズラッドにはそっけなく「ない」と答えたが、しかし彼には心当たりがあった。
(やはりあの魔道士か)
昨晩あの老人に出会ったこと、それ以外は考えられない。
あの老魔道士が王か宰相かに何か進言したのだろう。
そう予想はしても、彼に神の庭を警備させることに何の意味があるのかは分からないので、真意は伺い知れないのであるが。
「静かだな」
彼のつぶやきは、誰も他に人の見当たらない回廊に消えていった。
ほんの少し回廊の先へ行き、道を曲がれば多くの部屋の扉があり、部屋の内外には大勢の兵士が警備にあたっているというのに、神の庭の前はあくまでも静かだった。
しばらくの間、彼はただ呆然とそこにたたずんだ。
窓の外が次第に青く深くなり、やがて天に昨日と同じ満天の星空が輝き出すのが見えると、与えられた役割通り、周囲にある四つの篝火に順に火をつける。
周囲が明るくなると、回廊の向こうから誰かがこちらに近づいてきているのが見えた。
(ディズか)
うんざりした心持ちがしたが、近づくにつれよく見ると、その者は鋼と白銀で造られた近衛隊のではなく、真新しい鉄と革で造られた下級兵士の兵装をしているのが知れた。
両手には盆を持っている。食事の時間だ。
「お役目、ご苦労様です」
食事を持ってきたのはまだ年若い少年だった。
少年兵は彼が近衛隊だと知っているのか、うやうやしい態度で彼に盆を差し出した。
彼は無言でそれを受け取り、盆の上の瓶を引っ掴むと中身も確かめずに一息に飲み干して、むせた。
「……これは、酒か」
「は、はい」
「……どういうことだ」
呼吸を整えながら、彼は少年兵を問いつめる。勤務中の兵に酒が振舞われるなど、いくら聖王祭でも聞いたことがない。
「申し訳ございませんでした」
途端に少年は床に平伏した。
「私の不注意のために、あなた様にご迷惑をおかけいたしまして、本来ならば会わせる顔もございませんが、せめて一言お詫びをと思い、恥をしのんで参りました」
少年は床に伏したまま恐れるように体を震わせている。
彼はその少年兵が昨晩までここを警備していた、あの居眠りしていた少年兵であるらしいということにようやく思い至った。彼が特殊警備隊の任を解かれたことをどこからか聞きつけ、どういうわけか己が原因であると思ったのだろう。
「……それで、酒で酔わせて懐柔しようというわけか」
意地悪くそういうと、少年は泣きそうな顔を上げた。
「決してそのような……。許していただこうなどと思っていません。ただ少しでもあなた様のお役に立てることはないかと思い……」
「いいよ。許す」
彼は簡潔に云った。
少年兵は平伏したまま驚いた表情で彼を見た。
まだ軍に入ったばかりなのであろう、非常に幼いといってすら良い、兵装も下げた剣も重そうな少年だった。
「行ってくれ。今後一切俺のことを気に病む必要はない。これは俺のことだ。お前には関係ない」
彼が強い口調でそういうと少年はあわてて立ち上がり何度も「すいませんでした」と頭を下げながら去っていった。
(あんな子供が軍にね。神聖イルナー王国も落ちたもんだな)
そう思っている彼もまた、あれほどに幼い時分に軍隊入りしたのだし、今とてまだ若者と云える歳なのだ。
その場に腰を下ろし、瓶に詰まった酒をぐいと一口飲む。彼は酒はあまり好まず、ほとんど口にしないのだが、いまは不思議と溶け込むように心地良く酒が胃に落ちる。
(所詮、平和平和とうたっていても、あんな子供でも軍に入れなきゃならないほど戦乱は近づいているということか。そういえば、あの魔道士は)
また一口飲む。
(戦乱の時代のため聖王が塔の封印を解いた、と云っていたな。ということは、あの塔は今も国の平和のために機能しているわけだ。何の役に立っているのかね、こんな戦争一つ起こらない国に)
ほどなく瓶は空になった。
(いずれにしても、俺は二度とあの塔を見ることがない、とあのじいさんは云っていた。確かめようはない)
立ち上がると、足が少しふらつくことに気がついた。飲み慣れぬ酒は少量でも予想以上に彼を酔わせていた。
(参ったな、少し酔いを冷まさなければ。そうだ)
彼は名案を思いつき、神の庭へと通ずる扉に手を掛けた。
扉を開ければ風が通るだろう。開けてはならないと云われてはいたが、誰が見ているわけでもない。かまうものか。それに今朝はよく見なかったが、神の庭をじっくりと見てもみたい。あれは噂通り見事なものだった。
扉を開けた彼は、目の前に広がる光景にしばし呆然とした。
(やはり、俺は酔っているのだな)
月光に照らされながら、塔はそこにあった。
*
「……何故、再びここに来た」
「ここに塔があったから、かな」
彼は愉快な気持ちで半ば笑いつつ告げた。
「自然の摂理さ、そこに塔があれば上りたくもなる」
「再びここに来れば命はないと云った筈だ」
「結構結構。さ、やってくれ」
彼は床に寝転がった。
ひんやりとした冷たい感触が鎧越しにも伝わってくる。しかしこれは石の冷たさではないと彼は思った。もっと無機的な、根元的な冷たさだ、と。
部屋の中は相変わらず暗闇とその中に微かな青光が灯るのみで、彼のほうからはおぼろげに老魔道士の姿が見えるのみである。
「どうした。早くやってくれ。ちょうどいい。もう飽き飽きしてたんだ。早くしないと帰って皆にいいふらすぞ。この国の醜聞をさ」
「……なにに飽いたと云うのだ」
視界の端でちらちらと怪しげな装置がせわしなく動いているのが見える。
低い奇妙なうなり声のようなものが聞こえるのにも初めて気づいたが、それが何であるのか考えるのも面倒であり、目を閉じてそれらのすべてを消した。
「一言で云っちまえば、生きてることに、かな。面倒なことが多すぎる。人と会ったり話したり、考えたり、飯を食うこととか寝ることとか、全部面倒だ、全部。救いがない。意味もない。さ、やってくれやってくれ。……どうした、早くしてくれ。あんたの魔道とやらにはその程度の力もないのか」
老魔道士は答えず、強烈な明かりが閉じた目の上から彼を射した。
驚いて彼はとっさに目を開けたが、あまりの眩しさに再び目を閉じた。その動作が見えているのか、魔道士が彼に話しかける。
「あわてるな。ゆっくりと少しづつ慣らしながら開けるがよい。朝目覚めるときよりももう少しゆっくりとだ。この光は日の光よりはいささか人の眼に優しくない」
言葉に従いゆっくりと目を開けると、あたりは白く輝いており、彼は荒んだ心も忘れ、ただ周囲を見回した。
青光を放つ巨大な板が壁に沿って幾つも連なり、壁は神の庭そのものよりも大きく広がりゆうに千人をも収容できるようであった。
天井もそれに比例して高く、しかし部屋の壁全体が白く塗漆されたうえにそれを気づかせた明りそのものも強く白く、どこまでが天井とも彼には知れない。室内は直線のみで構成されている。
彼は気づいた。
(昨日と同じように階段を上がってきたのに、昨日とは部屋が違う。昨晩訪れたのは、ここと同じほど巨大ではあったが、円形であったはずだ)
室内は全体的に何もなくがらんとしていて、先程まであちらこちらで蠢いていたように感じた装置の数々はどこへ行ったのか、あるのは妙にまったく丸みのない白く四角い腰までもある突起のみである。
老人が腰掛けていなければその突起が椅子であるなどとは思わなかったろう。ではそのそばにある少し大きめのやはり白く四角い突起は卓であるのか。
(まるでこれは異文化だ。これが魔道の文明なのか。これは、なんというか、まるで平原的でない)
イルナー平原内の国家は、神聖イルナー王国にせよ隣国のリンクラウドにせよ平原を挟んで向こうの軍事大国セイランにせよ沿岸国家シェムス連合にせよ、またその他の幾多の小国にしても、その文明は基本的には同質のものである。
細かな違いは多くあるが、ローネス教を崇拝し、魔道を廃し、小麦を練ったパンを主食とし、石積みの家屋に住み、庶民は麻の、支配階級は絹で織られた服を好むなど、一般的な生活の根幹と言うものは変わらない。
そして平原外の国家というものは、平原に住む者にとっては存在しないも同然である。
高く険しい山脈と、ある境を越えると急激に流れを増す潮流のため、平原のものは平原に閉じ込められている。同様の理由により、外からのたずね人というものもない。まったくいないわけでもないが、訪れたものはそのまま平原に住まうか、故国へ帰ろうとしその後生死も定かでなく二度と平原に姿を現さないか、だ。文化の交流と呼べるものなどとうていない。
いま彼のいるこの部屋の空気は、平原のそれではない。
明らかな異文明の、異文化の香りがする。あまりにも彼には馴染みがなく、あまりにも異質すぎる。
昨晩の、闇に包まれた部屋は奇妙であり恐ろしくはあったが、彼の知っている類のものであった。幼き日に聞いた説話を思い出すほどに。
対していまのこの部屋はどうだ。
部屋の中心で椅子とおぼしきものに座し、なにを思っているのか彼を凝視し続ける老人をも含め、この部屋は異質でありすぎる。
「座るがいい。せっかくだ、今日は面白いものを見せてやろう」
老人が卓らしき白い突起の表面を撫でると、彼のすぐ後方で微かなかすれるような音がし、振り向くと老人が座しているのと同じような白い腰まである突起があった。
それは昨晩のような、力による強制ではなかったが、彼は老人の言葉を聞くとそれに操られたようになり、立ち上がって突起に腰掛けた。
座ってみると、その外見に反し、椅子は彼のためにあつらえたものであるかのように心地良く、瞬時、彼は場を忘れ思わず息をつき安らいだ。
が、落ち着いて周囲を眺めると、そこはやはり白い壁と青光の板に囲まれて不自然なほどに広い空間であり、違和感の塊だ。
老魔道士は昨晩と同様に、彼と向かい合うような場所に腰掛けている。
そう近い場所ではないが、そんなに遠い場所でもない、そこまでは彼にわかるのだが、それ以上は良くわからない。距離感が良くわからないのだ。
そう思う段になって、ようやく彼はこの室内の異常さの一端に気づいた。
(影がない)
これだけの光の下にあって、室内には一切の影というものがない。
そこかしこにある怪しげな装置も、白い突起も、老人も、彼自身のものすら、この場からは影というものが一切合財消滅していた。それゆえに距離感が取れなくなっていたのだ。
部屋の中で、一点だけが切り取られたかのように黒かった。
老人のいる場所だ。老魔道士の黒衣が白を裂き闇を落としている。
彼は老人の顔を見た。
近くもなく遠くもない場所にある老人の顔は影を失っているためか、白く平たく見えた。
いや違う、事実老人の顔を白く平たかった。
老人は仮面をつけているのだ。
白く平たく、目の部分にだけちょうどの大きさの穴のあいた仮面を。
仮面はいかなる材質でできているのか、アラバスターのように白く滑らかに見えるが、白銀のように輝いてもい、絹のように柔らかにも見えた。
「なぜ仮面なんか着けているんだ」
彼はとうにたいしたものでもなかった酔いなど覚めていたし、この白い光景に心胆寒からしめされ、死を望む心などひととき忘れたが、敢えて挑むようにふてぶてしく云った。
「あんたのしわだらけの顔など、昨晩よく拝ませてもらっている。いまさら隠すほどのたいそうなものでもないだろうに」
老人は仮面の向こうで何を思っているのか、彼のむやみに攻撃的な言葉にはなにひとつ動じる様子もなく、ただ黙って卓らしきものの表面を撫でた。
すると壁の四方をぐるりと囲む謎の板の青光が激しくなり、室内は白から青へと色合いを変えた。
「私は魔道士だ。魔道の徒――その意味がわかるか。わかるまいな。わかるまいよ。魔道の者であるということは、魔道以外の全てを捨てるということだ。それだけの代償を払いはじめて魔道の力を得ることができる。……全てだ。全て。わかるか。そこまでして得る魔道の力とは何なのか、それを今日は教えてやろう」
仮面の下から聞こえてくる老人の声は少しもくぐもることはなく、逆に奇妙なほど若々しかった。
「魔道の力とは、すなわち世界だ。魔道とは、世界をその掌中に収める力なのだ。いま私はここにいる。この私とおまえのほかに誰もいないフェイズ・デルストの塔にな」
「フェイズ……デルスト……」
デルストとは古語において、汚辱を意味する
「そう呼ばれているのだよこの塔は。もっともその名を知る者もほとんどいないがな。初代聖王イル・フェイズの生涯における唯一の汚点、フェイズの神聖性に傷をつけ、フェイズを汚辱するもの、ゆえにフェイズ・デルストと云う。……話が逸れたな。そう、ともかくもいま私はここにいて、他の場にはいない。だが、私はここにいながらにして世界の全てを知り得ることができる」
言葉の真意をつかみかね、彼は黙って魔道士の白い仮面を見つめた。
黒衣の魔道士が話せば話すほど周囲の青光は強まっていき、ついにその光は頂点に達したか、彼の周囲で、光が爆ぜた。
「見よ。これが魔道の力だ」
そして彼は見た。
聖都エイルナードの祭りを祝う人々で賑わう街並を。
リンクラウドの貧しさにあえぐ貧民街を。
セイランの猛々しき騎馬部隊の修錬の姿を。
一千一百を越すと云われるシェムス連合の大船団を。
古都ラーガーウァナの貴族どもの爛れた宴を。
フォトキアの狂える指導者ガルズァーク率いる狂乱の鬼兵隊を。
廃都サイウムに隠れ集う亡国の民人を。
平原のいたる国、その興亡すら問わず全ての都の姿を。
また彼は見た。
平原と外界とを隔てるイルナー連峰の暗く高き山々を。
穏やかに波を寄せるシィリズの海原を。
幾百年と枯れはて続ける〈白の草原〉を。
その中央にただ一つだけそびえるはじまりの大樹を。
ゾルドの森とそこに蠢くマモノの姿を。
どこまでも広がる星空を。
イルナー平原に存在する自然の、ありとあらゆる姿を。
魔道士の言葉がなにひとつ例えでもなければ、誇張された表現でもないことを彼は知った。
まさしくそこには世界の全てがあった。周囲に張り巡らされた青光を発していた硝子板に、平原のありとあらゆる情景が、ときに鳥のように空高くから、時に虫のように地の下から、また人の見ているような高さもあり、さまざまな形で彼の前に現れては消えた。
巨大な灰色の円が彼の前にあると思うと、それが急激に彼の視界一杯に広がり、次の瞬間そこには壮大にして優雅、夜の中にもこうこうと灯りがともり白亜の肌を輝かせる建物があった。
それがまさしく聖王城にほかならないと悟ったとき、彼は先程の巨大な円が聖都エイルナードを遙か上空よりのぞいた姿であることを理解した。
円形都市とも呼ばれ、完全なる区画整理により建国の時よりその姿を変えぬ聖なる王都は、正確に真円であるのだ。
「これが魔道だ。わかるか、これが魔道だ。魔道なのだ」
魔道士は興奮したような声を張り上げ、彼は目まぐるしく変わりゆく光景にただ魂を奪われたようにほうけているだけだ。
「平原のいかなるところへも魔道の目は届く。平原に住まう限り全てが私の掌中にある。おまえらが思考の限りを尽くした秘中の秘であろうとも、私の前では明らかすぎるほどに明らかだ。恥ずべきことも、身の破滅を招く秘密も陰謀も、あまねく全てが私の前にあかされる。見よ」
魔道士は黒衣を振り上げた。
次の瞬間、彼の前には陰惨な光景の数々が広がっていた。
血に塗れ倒れる男の横で、剣を下げ笑いを浮かべる青年。
たったいま老人の胸に包丁を突き立てている老婆。
客人に供されるであろうグラスに怪しげな粉末を混入する男の歪んだ笑み。
誰もいない墓所を荒らす者。
激しく燃える家屋の前で嘲笑を浮かべる女の横顔。
うつろな瞳で宙を見つめる中年女の足下には血を吐き出して悶え苦しむ若い男。
貴族の若者は、薄汚れ全身を縛られた者の眼球をえぐり出す。
闇の中で黙々と身を蠢かす男の下でなすがままにされている女はすでに事切れている。
痩せこけた女が首を絞めている赤子は我が子であろうか。
玉座の前に並べられた老若男女の生首を蹴り弄ぶ王の姿を見ている者はいない。
あるいは憎しみによって、あるいは陰謀によって、あるいはただ快楽を得るためのみに、またあるときには愛ゆえにこそ行なわれる人の世の陰の営為が、彼の前に展開されていた。
そこに人々の声がなかったのが、せめてもの救いだった。もし声もあり、彼らの呪いの、末期の苦しみと怨恨に彩られているだろう声の全てを耳にしていたならば、彼は気を狂わせずにはいられなかったろう。
「見たか。見たか。理解し得たか。これが魔道だ。これが魔道なのだ」
「やめて……」
彼の喉から懇願の響きを込めた言葉が漏れ始める。
「やめて……くれ……」
しかし魔道士は嗜虐の意図を明確に秘めた声をなお張り上げた。
「見ろ。見るのだ。見るのだ。おまえはここが魔道の塔と知りてなお再びここを訪れた。望むならば見せてやろうというのだ。これが魔道だ。目を逸らすな。見なくてはならぬ。見なくてはならぬのが魔道だ。目を背けてはならぬのが魔道だ」
血が血を洗い、策謀はつぎなる策謀に塗りかえられた。
敵を、友を、恋人を、妻を、夫を、親を、子を、師を、己を、見も知らぬ他人をすら、人々はその手にかけた。
苦しみと、憎しみと、快楽と、愛と、友情と、悲しみと、喜びと、悪逆と、正義が人々を破滅へと動かしているようだった。
「やめてくれ……やめてくれ……」
そこにあるのは絶望だった。
眼前に繰り広げられる光景は、生きているということそれ自体が破滅と死へと向かっているのだと云っていた。
彼は何度も懇願した。だが魔道士は映像を消し去りはしなかった。
彼がすがるような思いで見た魔道士の白い仮面にすら、子が実の親に犯される光景が映し出されていた。
やがて彼は諦観とも魅惑ともつかぬ感覚に襲われ、眼を見開き息を呑み、おぞましき情景を見るに身を任せた。見ながら心が壊れていくのを感じた。
そうしてどれほどの時が流れたろう。
百年の孤独と千年の苦痛をも越えたような思いの果てに、突如として全ては消え去り、再びあの白く影のない部屋と黒衣の魔道士だけが彼の前にあった。
彼は息を吐いた。
「これが魔道だ」
魔道士の声は落ち着いていた。落ち着きすぎるほどに。
呼吸が苦しく、何度も激しく肩を揺らしながら深く息を吸ったが、いくら吸っても足りないように思われた。彼のからだは長いこと呼吸することを忘れていたようで、先程のあの間、数えるほどにしか呼吸をしなかったのだ。
目が眩み、白い部屋の中へ魔道士自身も埋没していくように見えた。
が、一瞬後には逆に魔道士の背負う闇が部屋を黒く染めかえた。
自分が気を失ったことに、倒れた衝撃で目覚めて気づく。
気を失ったのは一瞬であるようにしか思えなかったにもかかわらず、離れた場所にいたはずの魔道士の白い仮面が目覚めた彼のすぐ目の前にあった。
魔道士は云った。
「帰れ」
冷めた、およそ感情と云うものを感じ取れぬ声だった。
「帰るがいい。理解しただろう。これが魔道だ。これが魔道なのだ。ここはお前の住まうべき世界ではない。忘れるのだ。そして二度とこの塔に近寄るな。例えその姿を見たとしてもだ」
魔道士の言葉は正しい。それは、あまりにも彼にとって異質なおぞましい世界であった。
本能がふれることを恐れる世界だ。
しかし、立ち去る気配を見せた魔道士の黒衣の裾を、彼は必死の力で掴んでいた。
「……待って……待ってくれ」
「……」
「頼みがある」
魔道士は苦い笑いを漏らした。
「恐ろしくはないのか、お前。魔道が、いまの光景が」
「恐ろしい」
恐ろしさに身体の震えが止まらなかった。話すこともままならぬほどに。衣服は汗でべとつき、頬を脂のような汗が幾つも滴っては落ちた。真実、彼は恐ろしかった。
「ならばなにも云わずに帰れ」
それでも彼は黒衣を離さなかった。いま手を離しては、最後の機会を失うと思われた。
(復讐を)
「魔道の、あなたの力、よくわかった。あなたはいながらにして全てを知ることができる。それは偉大で恐ろしい力だ。目を背けたくなるほどに。それを承知であなたにお願いする。その力をわずかでいい、貸して欲しい」
魔道士は椅子に座る彼を、漆黒の瞳で上からのぞき込むようにしたまま、何を思っているのかしばらく黙った後、しかしやはり冷たく云い放った。
「お前は魔道をわかっていない。まるでわかっていないのだ。いま見せたのは魔道の力のほんの一端に過ぎぬ。帰るがいい」
彼は震える手で、見た目よりも相当に上等らしい滑らかな手触りのぼろぼろの魔道士の黒衣を引き寄せた。白い仮面がより近くに来る。
「……離せ」
「あなたはいながらにして平原の全てを知ることができると云った。その言葉が真実であると云うことを私は知った。力を貸していただきたい」
噛みつかんばかりの勢いで彼は云ったが、止まらぬ震えのためそれは悲壮な叫びのように響いた。
「必要なのだ。どうしても」
「わかっていない……魔道の力を行使することは己の身を滅ぼすことになるのだ」
「かまわない、この身などどうなろうとも」
悲壮な言葉は、よりいっそう強く響くと、白い壁の中に吸い込まれるように消えていった。
「……かまわぬ、と」
魔道士はゆっくりと云った。
「云ったのか……。かまわぬと、この身が滅びようともかまわぬと、そう云ったのか」
「そうだ。もはやこの身など何の意味がある。復讐をすら成し遂げられぬならば」
「……愚か者め……愚か者め……」
幾度かそう繰り返した後、決然とした声で魔道士は告げた。
「よかろう、云ってみるがよい、お前は何を望む。その身をすら魔道に捧げ、お前は何を魔道に望む」
「復讐を。咎人に正当なる復讐の刃を」
彼は魔道士の黒衣の裾から手を離した。途端に音もたてずに魔道士は離れ、先程のように奇妙な白い突起に腰掛けた。
彼はいまだ震えていたが、それはいつしか恐れではなく蘇る怒りによるものとなっていた。
「いまよりおよそ一月ほど前、アルパーダの日、一人の女が殺された。名をフェミナ・ハイアッド」
その名を唇にのぼせるのは、幾日ぶりのことであったろうか。
心の中では幾度となく呼び続けたその名を、音声として聞くのはずいぶんと久しぶりだった。彼に気を使ってのことだろう、誰も彼の前でその名を出すことはなかったし、彼自身にとって、その名は思うだけで苦しすぎ、言葉にすることはできなかった。
その愛しき名を、密やかに燃えたぎった怒りと憎しみとともに彼は口にした。
復讐をなしえるかも知れぬという期待のもとに。
「彼女を殺した者を知りたい」
「もう少し詳しく知る必要がある。場所は。それとできるならば時刻」
ひどく実際的に、まるで他愛のない事務作業について訊くように、魔道士は訊いた。
「その時の状況も、知っているならば詳しくだ」
「場所はイリークの大通り、第三区の交差路にほど近いところだ。時刻は午後の二点鐘が鳴る直前」
幾度も夢に見た情景は、いましがた見てきたようにはっきりと思い出せる。
「俺は彼女とともにイリークの大通りを歩いていた。俺はほんの少しの間、たった5レイルだけ彼女を離れた。だが振り向いたとき、彼女は……」
喉に何かが詰まったように、彼はどうしようもなく息を詰まらせた。
それを無理に吐き出すように、彼は言葉を吐いた。
「……フェミナは喉と胸から血を噴き出しながら倒れるところだった。俺は倒れた彼女を抱き上げた。まだ生きていたが、俺の腕の中でほどなく死んだ。ほとんど即死だった」
最大限にさりげなく告げてもなお、心は熱い火の棒でえぐられたように苦しかった。魔道士はあくまでも冷静に続ける。
「殺人者は見えなかったか」
「それらしき者が、一瞬だけ見えた。この国では見ないような意匠の、黒い鎧を着けていた。三人、いたようだった」
「その者達が犯人である、と」
「確証はない。だが確信はしている」
「ほかに特筆すべきことは」
「彼女の傷口は三つあった。心臓に一つ、ちょうど反対の胸に一つ、それと喉が切り裂かれていた。いずれも鋭利な刃物を使用したもので、手慣れた鮮やかな手口だと、医者は云っていた」
「その女が殺される心当たりは」
「あるものか、そんなもの」
吐き捨てるように彼は云った。
「彼女を憎む者など、あるものか」
「その女とお前との関係は」
「愛していた。愛していたんだ、誰よりもなによりも強く深く、俺のもてる全てをもって、愛していた。言葉なんかでは言い表せないほどに強くだ」
「わかった」
(何がわかったと云うのだ。俺のフェミナを愛し求めて止まぬ心の、それが永遠に叶わぬがゆえの絶望の、どれほどがわかったと云うのだ)
言葉を飲み込み、彼は黙ってうなづいた。瞳にはか昏い炎を宿したままに。
「犯人はまだ捕まっていないのだな」
「だからあなたに頼んでいる。魔道に頼っている。いまだ手がかり一つとしてない。なんでもいい。どんな些細な手がかりでも」
「成程。一月前か……。よかろう、お前の望み、引き受けた」
やはり事務的に、魔道士は返事をした。
「ありがたい。どんなことでもいいのだ、奴らの探す手がかりとなるならば」
「フェミナ・ハイアッドだな。数日……、そう、長くて三日かかるやも知れぬ。だが三日の内に結論を出そう。明日の夜、再びここを訪れるがいい」
彼は椅子から下り、深く叩頭した。
「ありがたい。なんと礼を云えばいいか……」
「そのようなものはいらぬ。ただし、お前自身の先程の言葉、決して忘れるな」
瞬間、魔道士の瞳がまるで血のように赤黒く光った気が、彼はした。
「俺の、言葉……」
「この身が滅びようとかまわぬと云ったその言葉、忘れるな」
「そのことか。もちろんだ、もちろんだとも」
彼は魔道士の真意がわからず、わからぬがゆえに恐れ気もなく答えた。
それが長く狂おしき契約の、初めの言葉であるとも知らずに。
「復讐が成せるのならば、この身が幾度滅びようともかまうものか。百度地獄の劫火に焼かれようとも、後悔はしない」
「よかろう。お前の命、いまより我がものとする。代償として、望みは必ず果たしてやろう。必ずだ。帰るがいいクライ・ローデンス。明日の夜半にまた会おう」
その時の魔道士の様子を、彼は覚えていない。
どうやって塔から出たのかすら。
復讐の炎で彼の視界は赤く染まったようになり、盲のように彼は何も見えぬまま、気がつくと神の庭を脱し、門の前に立っている自分を発見していた。
「誰だ」
人の気配を感じ、彼は云った。
しかしあたりには物音一つせず、とうにかがり火は消えて暗闇に包まれた遠くの様子はわからない。街に出ればうるさいほどに聞こえるだろう大祭の騒ぎもなく、ただ静寂と暗闇があるだけだった。
風が吹いていた。
神の庭は昨日の朝にも劣らぬほど、色とりどりの花々が鮮やかに咲き乱れ、薄闇の中にも美しかった。
門を閉めると、風は止んだ。
やがて空が白みはじめる。
二日目の夜は終わり、聖都エイルナードは大祭三日目の朝を迎えようとしていた。
彼は夢を見ていた。幾度となく見、いつも苦しみ叫びながら覚める、あの夢を。
(早く行こうよ、早く早く)
(クライ、もう、急がなくてもアルパーダ様は逃げないわよ)
(でも売り切れてしまうかもしれないじゃないか。そうしたら来年のアルパーダの日までどこにも売っていないんだ)
ローネス歴では、そのほとんどの日は天使の名で呼称される。
ローネスは四面八臂の神であり、手には六本の指が生えている。ローネスの指は天地を創造する聖なるものであるとされ、そのため一つの指を七の天使が守っているとされる。また顔一つにも七のこれは力の強い天使がつく。
ローネス歴では指一つを守る天使の数、つまり七日を一週とする。
腕一本、つまり指六本分の四十二日が一ヶ月。一ヶ月はそれぞれローネスの腕の名で呼ばれる。
それが八ヶ月あり、顔を守る天使の月だけ四週の二十八日。
それに加えて大神ローネス不在の日とされる一年最後の日のみローネスの子にして分身である英雄神リクリスの日とされる。
それら全てを合わせた三百六十五日が一年だ。
今日はローネス第三の腕、アネイサーの月、アルパーダの日。
アルパーダはアネイサーを守る天使の長であり、両性具有の天使達の中では、最も女性的で優しげな外見を持つと云う。
(早く。ああ、そろそろ二点鐘がなってしまう)
平原の国家、ことに信仰厚きことで知られるイルナー王国では、大神ローネスを守る天使の姿を描いた工芸品がもてはやされている。彫像や装飾品、ドレスなどの衣服にいたるまで、天使の姿を取り込んだものが長く親しまれているのだ。
彼がいま向かっているのは、そうした商品を扱う店の一つであり、あまり大きくもなく有名というわけでもないが、有識者の間では腕の良いことで知られている女性用装飾品の店だ。
店の特徴は、普段の商品のほかにその日の天使の姿を象ったものを用意していることだ。ただし数は少ないうえに、意匠を凝らしたものがほとんどであるため、多少値も張る。
今日はアルパーダの日であるので、用意されているのもアルパーダにちなんだものだ。
(あのアルパーダのイヤリングは、あの店にしかないんだから)
何もアルパーダを模した商品がほかの店にないわけではないが、アルパーダの女性性というものは、一般的には母性と解釈され、ふくよかな美しき母といった具合に描かれる。対して、その店のアルパーダは若く儚げな女性のように描かれているのだ。
彼は先日友人からその店のアルパーダのイヤリングを見せてもらい、一目で気に入った。
まるでフェミナのようだ、と。
くしくもアルパーダの日は彼女の誕生の日でもある。
彼はフェミナにそのイヤリングを贈るため、こうして彼女と二人で店を目指しイリークの大通りを歩いているところなのだ。
そろそろ午後の二点鐘、店の開く時間だ。
彼はフェミナをせかすが、しかし彼女のほうは困ったように微笑みながらいつも通りに悠然と歩を進めている。
(大丈夫よ、大丈夫。ほらクライ、そこ危ないわよ)
彼は段差に気づかず転びそうになったが、危ういところでなんとかバランスを保った。
始終彼女のほうを振り返り、ろくに前を見ていないから先程から何度もいろんなものにぶつかったり転びそうになったりしている。
彼女は「大丈夫?」と不安げに問うが、彼が笑顔で応えると「良かった」とつぶやき笑顔を返す。
天気の良い日であった。三の月アネイサーは気候も温暖な暮らしよい季節である。
中天よりやや傾いた太陽は暖かい光を地上に惜しげなくもたらし、その陽光によって彼女のブロンドの髪が美しく輝いていた。
彼はその彼女の姿を見るたびに眩しいような思いがして眼を細め、やはり天使だ、アルパーダのようだ、と顔をほころばせる。
人通りの多いイリークの大通りであるから、道行く人の幾人かが、彼らのほうを見、笑みを浮かべている。彼はフェミナが誇らしくて、ますます笑みが止まらなかった。
幸せだ、と彼は思った。
彼女と出会ってからの一年余りは夢のようだった。孤児であった彼にとって初めて知る幸福であった。
自分が不幸であったとは彼は思わない。自分を育ててくれた施設の人には感謝もしているし、彼らは十二分に彼ら子供達を愛し育ててくれていた。軍に入ってよりも厳しくはあったが部下思いの上官にも恵まれ、ディズラッドのような気の合う友人もできた。十分すぎるほどに自分は恵まれているし、不平をいっては罰があたると彼は思う。
しかしそれでも彼にとって彼女は、フェミナ・ハイアッドは特別な存在なのだ。
孤児であるゆえにか、どれほど親しく信頼している者の前ですら外すことのできなかった彼の無意識下の精神の鎧を、彼女はいともたやすく笑顔一つで外してみせた。
愛していると思った。そう思うことが彼を幸せにした。
愛している。誰よりも、もはや己と切り離して考えることのできぬほどに。
(あっ、あそこだよ)
求めている店の姿を確認し、彼はますます彼女を急がす。彼女は微笑むだけでやはりゆっくりと歩いている。彼はできるだけ我慢をしたが、それでも軒先に彼の求めるアルパーダの姿を象った耳飾りを見つけると、いてもたってもいられなくなり思わず駆けた。
(あれだよあれ。ほら、フェミナ)
彼女を喜ばせたかった。
彼女はそこにいるだけであまりにも多くのものを彼に与えてくれた。
愛と安らぎとを。
なのに自分には何一つ彼女に与えられるものがないのが彼は嫌だった。
だからせめて、彼女にふさわしい贈り物をしたかった。
彼女を思わせるアルパーダの耳飾りこそは彼女にふさわしく思われ、それを手に喜ぶ彼女の顔を、耳飾りを着けた彼女の姿を見たかった。
彼女の笑顔を少しでも多く長く見たかった。
彼にとってはそれが全てだった。
だから駆けた。
愛しているから。
彼女を愛しているから。
誰よりも強く深く、彼女を愛しているから。その喜ぶ顔が見たいから。
(ほら、これだよこれ。ほらフェミナ、ほら……)
笑顔で振り向くと、少し離れたところで、彼女はいつも彼を見るときにするように、少し困ったような、それでもうれしそうな微笑みを浮かべていた。
彼女のまわりで、真赤な大輪の花が一時に幾つも咲いては散った。
彼女は赤い花園の中で微笑みを彼に向けたまま、翼をもがれた天使のように、ゆっくりとくずおれていった。
(え……)
彼は意味がわからず、笑顔を浮かべたままその光景を見ていた。
どこかで誰かが叫んでいるのが聞こえた。
彼女の名を呼んだ。
(フェミナ)
応えはなく、彼は倒れた彼女に近づいたが、足取りはまるで夢に遊ぶようだった。
ほんのわずかな距離をやっとの思いで彼女のもとにたどりつき抱きかかえると、真赤な花園はとどまることなく広がり続け、彼を飲み込んだ。
(フェミナ)
再び彼女の名を呼んだ。やはり応えはない。
彼女は瞳を閉じ少し困ったように微笑んでいるだけで、澄んだ青い瞳で彼を見返しては来なかった。
(フェミナ。フェミナ)
幾度も幾度も、百度も彼女の名を呼んだ。
千度も冷たくなっていく唇にくちづけた。
彼女は何も応えてくれなかった。
口癖のように繰り返す「大丈夫」という言葉はなかった。
彼はわからなかった。
何もわからなかった。
何がどうなっているのか、何が起こっているのか、何もわからなかった。
ただ呆然としたまま鳴り出した午後の二点鐘に顔を上げた。
黒く鈍い金属の輝きが見えた。
黒い鎧を身に着けた者が遠くからこちらの様子を伺っている。
その瞬間、まったく何の根拠もなく彼は強烈な殺意に目覚めた。
(殺してやる。奴等を殺してやる)
その時にいたっても、彼は彼女の死を受け入れていなかった。それでも、殺意はどこまでも強く沸き上がった。
世界はいつしか暗転し、彼の前には黒鎧の三人の者だけがいた。彼は追いかけた。
(殺してやる殺してやる殺してやる)
彼の心を殺意だけが支配した。
黒鎧の者の一人の頭を掴むと、素手でその首をひねりちぎる。
大量の黒い血が噴き出し、彼女の血で朱に染まっていた彼を黒く染め直した。
もう一人の鎧を拳で粉々に打ち砕くと、その腹を裂き内臓をひきずり出した。
最後の一人を捕まえ、眼球をくりぬき、腕をもぎ、心臓をえぐり出す。
彼は笑った。
(殺してやる。殺してやるぞ)
叫びながら彼は甲高い哄笑をあげた。
彼のほかに何もない世界の中で、彼は憎しみと呪いの言葉を吐き続けた。
いつまでもいつまでも、永遠に彼はそうしているのだった。
*
自分の狂気じみた笑い声で目覚めると、彼はうっすらと目尻に溜まった涙を拭い、寝台から立ち上がった。
(今日の夢はいつもと少し違ったな)
いつもは黒い鎧の男達を呆然としたまま見失うところで目が覚めるのに、いまの夢にはその続きがあった。
鐘の音が聞こえる。外の明るさから察するに午後の一点鐘であるらしい。
着慣れた白い上衣を裸身にまとい、いつも通りボタンも止めぬだらしのない格好のまま寝台に座り直す。
着任時刻の三点鐘まではまだずいぶんとあるが、目覚めてしまえば再び眠る気になどなれず、彼はあの日より日頃そう過ごしているように、虚ろな気持ちで中空を見つめたままぼんやりと時が過ぎていくのを待った。
ふと思い立って立ち上がり、荒れ果て放題の部屋を横切って、部屋の隅に追いやられるようにしてある机の引き出しを開けて、緻密な彫刻のなされた宝石箱を取り出した。
宝石箱は鍵がかかっていた。彼は自身で鍵を掛け、その鍵を捨てたのだと思い出した。
宝石箱は彼に託されたフェミナの形見であった。箱の中には彼女の身に着けた指輪や耳飾りなどが入っている。それを見て彼女のことを考えるのが辛く、二度と開けまいと鍵を捨てたのだ。
それでも宝石箱自体を捨てることのできなかったのは、やはり未練であったろうか。いずれにしろ、彼は一ヶ月ぶりに宝石箱を手に取った。
壁にたてかけた白銀の鎧の懐を探り、短剣を取り出し刃を宝石箱の鍵穴にあてる。
もともと手先が器用な方で、こういったことは得意であったのだが、断食といっても過言ではない栄養不良と、悪夢による睡眠不足と、それでも休まぬ軍務のための疲労が重なり、思った以上に腕に力は入らずまた指先は震え、なかなか上手く宝石箱をこじ開けることはできなかった。
それでもいくらも経つとなんとか開けることができたのは、以前までのたゆまぬ訓練の賜物だろう。
宝石箱の中からは、あまり数多くではないが、いずれも決して安からぬ装飾品の数々が出てきた。幾つかは彼がフェミナに贈った物である。彼はその中の一つを取り上げる。
彼が贈ろうとしてついに叶わなかったアルパーダの耳飾りだ。
耳飾りはいま冷静に見るにつけ、やはり精緻な造りの逸品であるのは間違いなかったが、もはや彼女を思わせはしなかった。ただの、良くできた耳飾りに過ぎない。
(思えば、俺は彼女に母を求めていたのかもしれない。あらかじめ失われていた母を)
純銀の耳飾りはひんやりと冷たく、彼の熱を奪っていく。
(フェミナは優しかった。俺にとって真実の安らぎを得られる初めての場所だった。フェミナが微笑むだけで、俺は俺の全てを許してもらえたような気がした。……だが、相手に幻想をつきつけ一方的に寄りかかるようなものを、果たして愛などと呼べるものか。例え愛だとしても、それは歪み淀んだ、爛れた愛だろう)
「だから、いずれかの形で破滅するしかなかったんだ」
彼は、いつもそうするように、己の心をえぐるような言葉を自身に叩き付けた。そうすることによって痛んだ心だけが、自分がまだ生きているという証拠であるように思われた。
(だが、いくら歪み破滅を約束された愛だったとしても、それが俺の愛だったのだ。俺は仇を討たねばならない。葬られてしまった俺の愛の仇を。……そして俺はついにその術を得たのだ)
魔道。
凝り固まった復讐心を持ちながらそれを果たす術を持たず一ヶ月ものあいだ意味もなくさまよい続けた彼の前に差し出された光明は、幾百年の昔にこの世から姿を消したはずの魔道であった。
それはおぞましく恐ろしく、彼自身をも滅びへと誘う危うく怪しい禁忌である。
だがどのような代償を支払おうと、彼はそれを欲した。復讐のために。
(夜はまだか)
三日以内とあの魔道士は云った。だから今宵にも結果は出るかもしれない。
彼は夜が待ち遠しくてたまらなかった。夜の訪れが、彼の復讐劇の幕開けであるのだ。
だが太陽天に高きいま、彼を訪れたのは無論夜ではなく、良く知る者のけたたましい声だった。
「クライ、クライ、起きているか」
まるで生命の躍動そのものといったような弾んだ声が聞こえたと思うと、彼の部屋の扉はノックもなしに派手な音をたてて開いた。
「クライ……、おお、起きているか。珍しいな」
(起きていないと思ったなら、もう少し静かにして欲しいものだが)
思いながらも何も云わず、耳飾りと宝石箱を素早く寝台の影に隠すと、彼は今朝方眠る前に脱ぎ捨てそのままに放っておいた衣服を身に付けだした。
「まったく、相変わらずえらい散らかりようだな」
部屋のあちらこちらに散乱した衣服や書物、手付かずのままに黴の生えたパンの残骸やもとが何であったのかわからぬ色をしたグラスの中の液体などを、折り畳んだり一ヶ所に集めたりして整理しながら、ディズラッド・アーリーンが彼に近づいて来る。
「この前少し片づけたと思ったのに元通りにしやがって、まったく」
「何の用だディズ」
相手のほうも見ず彼は云う。
「まただらしのない格好を。きちんと上着の前くらい合わせたらどうだ」
云いながら伸ばしてくるディズラッドの手を払い、彼はひどくゆっくりとボタンをとめはじめる。ディズラッドは苛立たしそうに足踏みをする。
「早くしろよ。時間がないんだからさ」
「何の時間だ」
「知らないのか。二点鐘の時間に、聖王陛下が何か発表することがあるそうだ。それでみなリクリスの掌に集まっているんだぞ。さあ、わかったら早くしろ」
「そんなもの……」
云い終わるか終わらぬかのうちに、着替えが終わったと見るやディズラッドは彼をなかば無理矢理立ち上がらせた。空いた手にはいつのまにか彼の第一近衛正装が抱えられている。
よく見るとディズラッドもまたいつもの白銀の鎧と帯剣だけの第二正装ではなく、純白のマントに聖王家の紋の入った兜をかぶった第一正装をしている。
「いまリクリスの掌はすごい混雑だからな。第一正装をして軍務のふりしたほうが入りやすい。さあクライも」
彼はされるがままに着慣れた鎧を着け、兜をかぶり、こちらはあまり着慣れぬマントをも身に着けた。
「よし。……そういやお前の第一正装の姿を見るのは久しぶりだな」
ディズラッドは彼の姿を上から下まで子細に眺め回すと、一人で満足そうにうなづいた。
「悔しいがやっぱりこういったかしこまった格好はお前のほうが似合っているな」
「だからどうしたというんだ」
「似合うって云ってるだけさ。よし行くぞ」
ディズラッドは彼の腕を引っ張り、外へと連れていく。
彼は聖王の発表とやらにも別に興味はひかれなかったし、人で混雑しているというのならリクリスの掌になど行きたくもなかったが、そういったことを説明するのも面倒くさく、また云ったところでいままでの経験上ディズラッドが無理矢理にでも連れて行くであろうことは明らかにわかったため、別のことを口にした。
「腹が空いているんだ。少し待ってくれ」
彼はいたって普通にそう云ったのだが、足を止め振り向いたディズラッドの目は、不思議なものでも見るように大きく見開かれていた。
「腹……減ってるって、そう云ったのか」
「ああ、起きたばかりで何も口にしていないからな」
「そう、か……そうだよな。よし、いまは祭りだからな、あちこちに出店がいっぱいあるはずだ。行きながらどっかで買おう。何か食いたいものはあるか」
「いや、べつに」
「それじゃあ俺が何か上手いもん探してくるよ。俺そういうの探すの得意なんだぜ。さ、行こう」
彼の手を引いて駆けるディズラッドの顔には笑みがあった。
*
扉を開き足を一歩踏み入れると、そこには一昨晩に訪れた青い薄光の漏れる暗い部屋があった。
彼は驚き振り向いた。彼はまだ塔の入り口の扉を開き、一歩目を踏み出したばかりで、あの長い階段を昇ってはいないはずなのだ。
だが振り向くそこにあるのは暗闇と扉が触れもせずに閉まる気配ばかりで、彼がいましがた歩いてきた荒れ果てた庭園の姿はなかった。
「驚くことはない。くだらぬ手妻だ」
声のほうに向くと、一昨晩と同じように魔道士が離れた場所で見えない椅子に腰掛けていた。
「くだらない、か。俺には十分に得体の知れぬ魔道に思えるが」
「なに、本当にくだらぬことよ。座るがよい」
勧められるままにその場に腰を下ろすと、やはり一昨晩と同じように見えない椅子がそこにあり、彼の身体を柔らかく包み込んだ。
「いったいどのような魔道を用いたのだか。塔の入り口とこの部屋の入り口の空間をでも繋げたか」
「そのようなたいそれたこと、できぬでもないがする必要はない。いまのは私のほんの悪戯だ。塔に入ってからこの部屋に足を踏み入れるまでの間のお前の記憶を消去しただけだ」
「記憶を消去……」
「お前は実際は昨晩と同じように螺旋階段を昇ってこの部屋を訪れた。だがその間の記憶が失われたため塔の入り口の扉を開けてすぐにこの部屋を訪れたと思いこんだに過ぎない。くだらぬまやかし、手妻だよ」
老人とも若者ともとれる奇妙な響きの声音は昨晩同様、白い仮面の下から漏れている。
魔道士は炎の点ったろうそくを仮面の前に捧げるように持っており、その炎の赤いゆらめきが仮面が昨晩とは違うことを教えていた。
昨晩の仮面は白く滑らかで眼の場所にちょうどの大きさの穴の空いているほかに何もないものであった。いま魔道士の着けている仮面は昨晩のと同様白く滑らかではあったが、人の顔が彫られている。
彫られた顔は彼の、というよりこの国の者ならば誰もが知っている顔であった。
「陛下の仮面か」
彫られているのは聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世の、平原中に知られる美貌であった。
精巧にできた仮面であった。長く微妙にカールしたまつげの一本一本までもが緻密に彫りこまれ、薄い唇に一見ではわからぬほどにさりげなく紅の塗られている様子は、昼に彼が仰ぎ見た聖王の顔をどこまでも精密に模倣しているように思われた。
だか、と彼は思う。
(すさまじく精密ではあるが、しかしどこも聖王陛下には似通っていない)
違いは明瞭であり同時に不条理でもある。
そこにいるのがイル・サイナスではない、というだけの。
聖王イル・サイナスは《違う》のだ。
例え遠くから姿を仰ぎ見るだけでも、またかすれるほどのわずかな声を聞くだけでも、イル・サイナスがその場にいるというだけであまりにも世界は違ってしまう。
空に太陽があれば人は暖かさをどうしても知るであろうし、なければなおその不在は重く寒く人の上に影を落とすだろう。
仮面は正確にイル・サイナスのうわべの美貌を模倣しているだけに、聖王の非凡なるが容姿に由来するものでないことを明確に人に伝えていた。
イル・サイナスは美貌の青年であるがしかし、民衆をひきつけてやまぬのは彼の容姿ではなく為政の才覚ですらなく、そこに彼が立つときに発生する場を制する力、どうしてもイル・サイナスを見ずにいられなくさせる云わば雰囲気なのだ。
いたしかたのないことではあるが無論仮面からはそのようなものはいっさい感じられない。だから仮面は良くできたものではあったが、どこも聖王に似通ってはいなかった。
それらの感慨を、彼は一言で評す。
「悪趣味だな。外したほうがいいと思うが」
「手厳しいな。だが私とて好き好んでつけておるわけではない。このような仮面、つけておっても聖王と比べてあまりにも醜い己を知らされるだけだ。比べること自体が陛下に対する無礼であろうしな。この仮面は魔道の道具だよ。お前は、二点鐘の聖王の発表を聞いたか」
*
彼がたどり着いたとき、巨大な広場を埋めつくしなおあふれさせるほどの民衆が集っていた。どの顔も期待に満ちあふれている。
彼はすぐさま引き返したくなったが、彼の腕を掴む力がいっそう強くなり、それを許さなかった。
「どいたどいた。近衛隊だ。近衛隊だぞ。急いでいるんだ。通してくれ」
「なんだよ、横から入ってくるなよ」
「うるせえ、こっちは大事な仕事の真っ最中なんだよ」
ひょうひょうとした顔でそのようなことを怒鳴ったり怒鳴られたりしながらディズラッドは彼を引っ張って進んでいく。
いくら進んでも人混みは終わることなく続き、彼はこの都にはこれほどの人間が住んでいたのかとうんざりした。まるでこの国の全ての者がここに集まっているようだ、と。
不意に彼を引っ張っていく力が消え、彼の視界からディズラッドの姿が消えた。
と、思うと一瞬後には再び現れ、腕には拳よりも大きな肉饅頭が二つ抱えられていた。
「食えよ。うまいぞ」
云われるままに手渡された饅頭の一つを口に運ぶと、熱い肉汁が口中にあふれ出した。「……うまい」
肉饅頭を口にして初めて、自分が己から望んで食物を口にするのが実に久しぶりなことであるのに気づいた。ここのところずっと食欲などわかなかったから断食同然の食生活だったのだ。
その間もディズラッドがよく食事を持ってきていたが、自分からは決して手を出さず、業を煮やしたディズラッドになかば無理矢理に食べさせられる以外に食事を取らなかったし、そうして食べたものもじきに吐いてばかりいたのだった。
いまはそのようなことはなかった。一ヶ月ぶりに空腹を感じて、一ヶ月ぶりに己から食事をとっているし、吐き気も襲っては来ずただ純粋に肉饅頭をうまいと思った。
(復讐を成し遂げるまでは生きなければならない)
その思いが彼の身体に生きろと告げ、食欲を蘇らせたのかもしれない。
だとしたらなんと皮肉なことだろうか。
彼の内心を知るよしもなく、ディズラッドは彼を引っ張りながら振り向き、笑顔で、「うまいだろう」と云う。彼は黙ってうなずいた。
人混みの中に、見慣れた格好の者が一列に並んでいるのが見え始めた。全員が手に長槍を持っている。警備兵だ。幾十人もいるが、うちの一人が彼らのほうを見て大声で話しかけてきた。
「ようディズ。また仕事をほったらかしか」
「いまは非番だよ。それよりジグ、そこ空いてないか。混ぜてくれよ」
いいぜ、と男は二人を後ろに引っ張り込んだ。
急なことだったので彼は食べかけの肉饅頭を落としそうになり、あわてて口にくわえる。
「危ねえな」
「混雑しているんでな。連れの人も悪かったな。……そこ、こっちは民間人は立入禁止だぞ」
引っ張り込まれた警備兵の列の後ろはほかのところよりはずいぶんと空いているが、ディズラッドと同じように非番らしい兵士の姿も多く、やはり混雑しているといえばしていた。
彼は先程ディズラッドと話していた男が、以前同じ兵舎に寝泊まりしていたジグであることに気づいた。ディズラッドにとってもそうであるので、見知っているのは当然のことだ。しかしジグのほうは彼が誰なのか気づく様子もない。
無理もないだろう、いまの痩せこけて暗い眼をした彼が、あのクライ・ローデンスであるなどと誰がわかるであろうか。
大聖堂の鐘が二点鐘を鳴らした。
バルコニーの純白のカーテンが開き、その人は二日前と同じように眩しいほどに鮮やかな薄紫のマントをひるがえし悠然と人々の前に姿を現した。
たちまち大地も割れんばかりの大歓声が轟き、都中を揺らした。あまりのうるささに彼は思わず耳を塞いだが、じきにその人が優雅に両手を天に向けて差し伸ばすと、一瞬にして世界に静寂が落ちた。その手には金色の杖が握られている。
「我が親愛なる神聖イルナー王国の民人達よ」
圧倒的な存在感を持った玲瓏な声が響きわたる。その人の金色の髪は風もないのには波打っているようだった。
「余は汝らの統治者にして守護者、神聖イルナー王国第十七代聖王、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世である」
恍惚とした溜息が巨大な広場のあちらこちらから聞こえた。
「余の使命はこの神聖なるイルナーの大地を邪悪なる者の手より守り、我が祖イル・フェイズより伝わる守護者の血を次なる世代に残すことにある。余はそのためにはなにをも惜しまない。だが親愛なる人々よ。余は汝らに謝罪をせねばならない」
謝罪、というその人にはおよそそぐわぬ意外な言葉に、人々はどよめいた。
聖王は続けた。
「余はその神聖なる使命を果たせぬやもしれぬ。昨夜、余の夢に天の使いが訪れた。その御方は十の翼を持つ天使長の一人、ソフィナルード様であった。ソフィナルード様は余にこう告げられた。『お前は生涯子を為すことはないであろう』と」
今度こそ、驚愕と絶望の入り混じった声が広場を覆いつくした。彼の隣のディズラッドもまた人一倍大きい悲鳴じみた声を上げていた。
イル・サイナスの世継ぎ問題、それはひそやかにではあったが、即位より十年の間、常に取り沙汰されてきたことであった。イル・サイナスは直系王族の最後の一人であったからだ。
相次ぐ戦乱のため、イルナーの正統なる血を引くものは、イル・サイナスの父、先王イル・ジャオスや腹違いの二人の兄王子、ギルアス・ロード、カイラス・ツィーズをはじめ、みな死に絶えてしまっていた。
イル・サイナスを除いた王族で現在生きているのは相当な傍流だけとなってしまっている。だから、人々は正統なる血を引いた王国の跡継ぎ、すなわちイル・サイナスの子の誕生を待ち望んでいた。
だが、即位より十年、いまだ吉報は人々に告げられていない。
それでもいつか、今年こそは今年こそはと思いつつ、人々は次なる王の誕生を待ち望んでいた。
イル・サイナスがいる限りイルナーは安泰だと信じながら、しかし例えいくら高貴な身の者ですら、いつかは死ぬ、その時この国はどうなるのかと、不安に怯えながら。
世継ぎのいないこと、それだけが誰もが盤石と信じるイル・サイナスの治世のただ一点の陰であった。
そして人々がイル・サイナスに陰を拭い去る言葉を期待し続けたにもかかわらず、その人が口にしたのは陰を形ある絶望へと導くような言葉であったのだ。
それゆえのどよめきであり、それゆえの悲鳴であった。人々の絶望は聖都中を揺るがすかと思われた。
が、それを止めたのもやはりその人、聖王イル・サイナス自身であった。
凄まじい喧噪の中から何か固い金属を強く打ちつける音が鳴り、世界を制する声が今度は威圧的な響きをこめて轟いた。
「静まれ。静まるのだ」
イル・サイナスが手に持った杖を床に叩きつけた音であった。
次いでリクリスの掌を囲んだ警備兵が一斉に槍の柄を地面に叩きつけると、暴徒となりかけた民衆が瞬時にして静まった。
「ソフィナルード様はこのような混沌を望み余に預言をされたのではない。聞くが良い。ソフィナルード様はまたこうも云われた。『だが遠からぬ日、お前は祝すべき出会いをするであろう。その出会いは主ローネスの導きであると知れ。汝とその民人を神はお見捨てにはならない。信じよ、そして待て』と」
静まり返った広場をイル・サイナスは輝く金の瞳で睥睨すると、うっすらと唇を開き、太陽のように眩しく微笑んだ。
「余は愚かなる人間の身にして、大いなる主の御心の全てを理解はできぬ。だが主よりこの地を預かる守護者として汝らに約束しよう。余を信じよ。イルナーの永久なる安息のためには余は何をも厭わぬ。大神ローネスを信じよ。神聖なるローネスが見守る限り、イルナーは安泰である。案ずるな。ここに余が居、そして天上にローネスがおられるのだ。神は我らを救い給う。神聖イルナー王国に、神の加護と栄光はあれり」
「万歳」
「聖王陛下万歳」
「神聖イルナー王国万歳」
いつしか広場は一昨日と同様、聖王を讃える声に包まれていった。
聖王イル・サイナスのいるところ、常に拍手と歓声に包まれるのだ。
「大神ローネス万歳」
「聖王大祭万歳」
「イル・サイナス陛下万歳」
「万歳」
だが周囲が熱狂に包まれ、歓声が高まるにつれて、彼の心には奇妙な疑念のような気持ちがわきあがってきた。
(これはおかしいかもしれない)
いかに美貌の人であり、優れた為政者であるとはいえ、民衆の聖王に向ける信頼は異常であると、彼は冷めた頭で思った。
聖王は世継ぎ問題に対しただ信じよと云っただけで、現実的な意味での解決など何一つしていない。にもかかわらず、その言葉を誰もが受け入れてしまっている。
(たばかられている……)
思いもかけず、そのような言葉が頭に浮かんだ。
人々は彼の思いから遠く、すでにイル・サイナスの去ったバルコニーに歓声と拍手を投げかけるのみであった。
*
「魔道……あれはあるいは……」
彼の口から漏れたつぶやきを聞いたか聞かぬか、彼が物思いから冷めると、聖王と同じ、だがあの圧倒的な支配力は持たぬ面が、白い石の瞳で彼を見ていた。
「聖王の言葉、聞いたようだな」
彼がうなずくと、魔道士が手に持ったろうそくの炎が揺れ、消えそうなほどに炎が萎んだが、すぐに元通りに燃えはじめる。炎はこの暗闇の部屋において唯一の確かな命のように思われた。
「『祝すべき出会い』……私はそれを捜さなくてはならない」
「ふん……」
彼は眼を細めてその言葉の意味を探る。
「つまり、陛下に下されたのは神託などではなく、魔道の呪言であった、ということか」
魔道士はそれに答えず言葉を続けた。
「私は陛下の代行として『祝すべき出会い』を捜す。そのために陛下の仮面をつけているのだ」
意味はわからなったが、どうせ説明されても分かりはしない。魔道は異質であるのだ。
彼は黙ってうなずく。
「さて、お前は昨日私に依頼したことの成果を知りに来たのだな」
「無論だ」
「だが私はお前に謝罪せねばならない。お前の望み、私には叶えてやれそうもない」
彼はかっとして立ち上がろうとしたが、いつのまにか彼の身体は例の見えない力で自由を奪われていた。
仕方なく怒りを込めた視線だけを魔道士の白い仮面に向ける。
「ふん……。あれほど御大層な講釈を垂れていた禁忌だの魔道だのとやらの力も、その程度のものなのか。期待などした俺が愚かだった」
「そういうわけではない。魔道にはお前の望みを叶えることなど容易い」
「では何故だ」
「陛下だ。私は『祝すべき出会い』を捜さねばならない。陛下の下命は何よりも優先されるのだ」
「ならば陛下の命のあとでもいい」
彼は少し安堵しそう云ったが、白い仮面は左右に揺れた。
「それができぬと云っているのだ。陛下の命を果たすには、魔道の段階を幾らか引き上げねばならぬ。そのため私はおそらく今宵《カイラ・グゥンの闇》に堕ちる」
「カイラ・グゥン……」
初めて聞く言葉であった。
しかし初めて聞く言葉でありながら、その響きに背筋を凍らせるような凶兆めいたものを感じ、彼は総毛立った。
「なんだそれは」
「《カイラ・グゥンの闇》は《カイラ・グゥンの闇》だ。他の何でもない。だがそうだな、一般的に最もそれに近い概念は、死だ」
「死……」
「この世界より滅し、二度と戻っては来ぬという意味で同じというだけだがな」
彼はようやく何故魔道士が彼の望みが叶えられぬと云ったか理解した。
例えどれほど優れた者でも、死した後には何もできるはずがない。
「ならば陛下の命を果たす前に俺のをできないのか」
「無理だな」
「何故だ。容易いと云ったではないか」
「陛下の下命は何よりも優先されると云ったであろう。お前は陛下よりも優れた者なのか。それとも何か相応した見返りを私にくれるとでも」
「俺にできることならなんでも……」
「いらぬわ」
魔道士の言葉は激しかった。
「お前ごときに何ができる。私を《カイラ・グゥンの闇》より救い出してくれるとでも云うのか。私に望みがあるとすればそれぐらいのものだ。だがそれは何者にもどうあっても不可能なことなのだ。お前ごときにできることなど何もないわ」
彼は魔道士の激しい剣幕に押され頭を垂れた。
剣幕と云ってもその面は白い仮面でしかなかったのだが、その時だけ仮面はまるで生ある者のごとく叫びを上げたように彼には感じられた。
「……私とて、先にやれるのならばやっている。《カイラ・グゥンの闇》へ堕ちるのにやり残したことがあるのは心苦しい。だがお前の願いを叶えるのと陛下の命を果たすのとに使われる魔道は性質が同じなのだ。陛下のほうが遙かに膨大なエネルギーを必要とするがな。同質の魔道を短期間に使用することはできぬ」
「……わかった」
(所詮復讐に他者の力を借りようなどと、虫の良い話だったのだ)
彼は血の味がするほど唇を噛みしめた。
「わかった。いらぬ世話をかけてすまなかった」
「ぬか喜びをさせてしまったな。できれば叶えてやりたかったものだが。……クライ・ローデンス」
仮面の瞳がひたと彼を捉えた。
「なかなかに楽しかったぞ。お前は私にとって十年ぶりに会う人間であった。これも何かの縁と思い――神の下された縁ではないだろうが――力を貸してやりたかったのだが」
「かまわない。無理を云ったのは俺のほうだ」
いままであまりにも異質で遠く感じられた魔道士の言葉が、急激に近く感じられ、彼は内心戸惑った。
しかし、その戸惑いを整理しきるよりも前に、魔道士が別れを告げた。
「さらばだ、クライ・ローデンス。もし、万が一にもお前が《カイラ・グゥンの闇》に堕ちたのならば、また会おう」
彼が最後に覚えている魔道士の姿は、青光の中、いつものようなずたぼろの黒衣に身を包み、己の眼前に炎の灯ったろうそくを掲げているものだった。
その顔に着けられた白く美しいが決して表情と云うものを持たぬはずの仮面が、微笑んでいるように思われたのは彼の気のせいであったか。
いずれにしろ彼がそれを認識するかせぬかのうちに、ろうそくの炎はひときわ大きく燃え上がると唐突に消え失せ、青光も同時に途絶え周囲はまったくの暗闇に包まれた。
彼が次に目にしたものは青く赤く咲き乱れる美しき庭園の姿であった。
(いつのまに……。これもまたあの魔道士の悪戯か)
もう会うこともないであろう魔道士の姿を彼は思い浮かべようとしたが、思い浮かぶのは魔道士の背負っていた闇と、なぜか聖王イル・サイナスばかりで、一昨晩に見たはずの魔道士の顔は不思議なほどに綺麗さっぱりと彼の心の内より消え失せていた。
「記憶の消去、か」
呟いて彼が見上げた空は、いつの間にそれほどの時が経っていたというのか、やはり昇る日に赤く染まっていた。
*
かくして、彼はひとたび身を浸した魔道の世界より、正常なる人の世に戻る機会を得た。
聖王大祭の夜、たまたま三夜続けて奇妙な夢を見たのだ、そう思い叶わぬ復讐に囚われながらもありうべき本来の生のまっとうを選択することも、この時点の彼にはできた。
だが彼はそれを選び取らなかった。
ゆえに、運命は彼と神聖イルナー王国とを絡めとり、想像もせぬ地平へと彼を連れ去って行く。
その運命を、時に人は「愛」と呼ぶ。あるいは「妄執」と。
「本日三点鐘の刻より近衛隊所属クライ・ローデンスの聖王城北第十四地区夜間警備の任を解く。同時に特殊警備隊として夜間警備に任ずる。以上」
「了解。本日三点鐘の刻より特殊警備隊として夜間警備に就任いたします」
彼が復唱すると、近衛隊隊長ランドロゥ・バグスティルは深い溜息を吐きながら、後ろに撫でつけてまとめた頭髪を豪快に掻き回した。
「わからん。クライ。何をしでかした。何故こんな短期間に二度も警備部所の変更をさせられる」
彼の横に立つディズラッドが茶々を入れる。
「隊長。そんなに掻き回していると髪型が崩れますよ」
「放っておけ。俺は部屋から一歩でたらお偉いさん達のつきあいでお上品ぶらなければならんのだ。自分の部屋でくらいだらしなくさせろ」
「ですが、あまり力を入れると、髪が抜けますよ」
ランドロゥはぴたりと腕を止める。ディズラッドは笑った。
「ディズは黙っていろ。クライ、これはまったくどういうことなんだ。何故聖王陛下がお前の警備部所を気になさる。お前と聖王陛下には何の関係があるのだ。お前の警備部所を変えることにいったいどんな意味があるというのだ」
「さあ、尊き御方のお考えになることは私などにはわかりかねます。私が聖王陛下にお声を掛けていただいたのも、近衛隊の入隊式の時だけですし」
彼の言葉に、ランドロゥは一度は止めた腕を再び頭に持っていき、しきりに「わからん、わからん」と繰り返す。その様子をディズラッドはにやにやとしながら見ている。
「隊長、あまり悩みすぎると禿げますよ」
「ディズは黙っていろ。……まったく、そんな歳でもないってのに、本当に禿げそうだ。ただでさえ祭りの馬鹿騒ぎのせいで心労が絶えないと云うのに」
「今年はどれだけ出ていますか」
ランドロゥは手元の机上に置いてある紙を取り上げる。
「今朝の報告までで、民間人の死者が二十五人。負傷者が百六十八人。軍の死者は一人……ああいや、今朝見つかったので二人か。負傷者は三十八人。やれやれ、いやになるな。報告されているだけでこれだ。実際はどれだけ死者が出ていることやら。大祭はまだあと四日もあるってのに」
何のための祭りなのやら、とまた深い溜息を吐くランドロゥを遮り彼は云う。
「隊長、警備に着任せねばならないので、退室してもよろしいでしょうか」
彼は返事を待たず踵を返し、扉に手をかける。
その背中にランドロゥの太い声がかかる。
「待て、クライ。云っておくことがある」
「なんでしょうか」
「……クライ、お前は良くやっている。だが、あまり無理をするな。なんだったら休暇をやる。休め」
「……それは除隊勧告と受け取ってよろしいのでしょうか」
「馬鹿野郎。そんなことではない。……お前の恋人の不幸は聞いている。俺は心配なんだ。このままではお前は潰れちまうぞ」
ランドロゥの言葉は隊長という職務を超えた真摯な響きを持っていた。
武芸の腕はもとより、その非常に厚い人間味が隊内外の絶大な信頼となり、ランドロゥを近衛隊長とならしめているのだ。
だがそれすらもいまの彼にとっては鬱陶しいものにしか過ぎない。
「私は軍務に支障をきたしているでしょうか」
「違う。俺は隊長としてでなく、個人として心配しているのだ。ローデンスの名を持つ奴は俺の兄弟のようなものだからな」
孤児のクライは、近衛隊に入隊するとき、形式上ローデンス家の養子扱いとなっている。
ランドロゥもまた、隊長となりバグスティルの名を賜る前は、彼と同じローデンス家の養子扱いになっていたのだ。
「兄分として云わせてもらう。これ以上無理をするな。ゆっくりと休め」
「隊長命令ならば従いましょう。そうでないと云うのなら、軍務に支障をきたさない限り従ういわれはありません。そろそろ三点鐘の刻です。失礼いたします」
「クライ」
ランドロゥのまるで懇願するような声を背に、彼は隊長室を出た。ディズラッドもすぐに後を追いかけるようにして出てきて、彼の背を捕まえる。
「クライ」
「お前も着任だろう。急いだほうがいい」
いつも通りの彼の態度に、ディズラッドは予想通りと云わんばかりに肩をすくめる。
「つれないなクライ。一緒に行こうぜ」
「ディズはいつも通り街に出るのだろう。俺は王城区から出るつもりはない」
ディズラッドの手を振り払い、彼は足早に前を見て歩いていく。
「クライ、お前もたまには街のほうに」
「断る」
二言もない彼の云いように、ディズラッドは困ったように唇を尖らせたが、やがて急に何かを思い出したかのように神妙な顔をした。
「あの、さ、クライ。お前、昨日の夜とか、その前の夜とか、その、どうしていた」
言葉の意味を理解しかね、彼はディズラッドの顔を見た。
「昨晩と一昨晩は、神の庭の門の警備をしていた。お前も知っていたことだろうに。……あそこは、王城の奥にあるわりには、夜はなかなか冷えるのだな。風の通りが良いのか」
うしろめたさが彼をいつもより饒舌にしていた。
(だがどうせ俺があの塔を訪れることは二度とはないのだ)
「わかっていたことではあるが、相当に退屈でもあったな。やはり特殊警備隊に戻れて良かった」
ディズラッドは彼の顔をしばらくのぞき込んでいたが、また急にあの生命そのものとでも云ったような笑顔を浮かべ、駆け出した。
「そろそろ本当に時間だ。じゃあなクライ。またあとで」
ディズラッドを見送ると、赤く染まった夕の空に三点鐘が鳴り響いた。
彼は特殊警備隊の任に着いた。
と云っても、自己の裁量での判断が許され、各自で行動を取る特殊警備隊であるから、彼は見回りと称して勝手気ままに聖王城内を歩き回るだけだ。
数多くの警備兵がそこかしこに立ち、宝石をちりばめた衣装を盛大に着飾った貴族達が夜空の星々のようにあちらこちらで輝きながら行き交った。
中には彼と同じように近衛隊の者もいて彼に話しかけたり、そこまでいかずとも軽く頭を下げたりしたが、それら全てを適当にあしらいながら彼は人の少ないほうへと歩き続ける。
(俺はこの先どうすればいいのだ)
そんなことばかりを考えて歩く。
(奴等を許すことなど、やはりできはしない。復讐は為さねばならない。だが、どうすれば奴等を見つけることができる。魔道も扱えぬ、ただの人の身に過ぎない俺が)
懐に入れたものを取り出す。
四つの翼を持つ天使を象った耳飾りだ。
彼がフェミナに贈ろうとしてついに叶わなかった、アルパーダの耳飾り、それを握り締める。
(魔道)
魔道さえ己に扱えたなら、と彼は思う。そうならばことは容易いのだ。
(せめて陛下の下命があと幾日か遅ければ)
いくら考えてもせんないことであると知りながら、それを思わずにはいられない。
と、そう考えているうちに、彼はふと気づいた。
(あの魔道士は昨夜死んだ――正確には《カイラ・グゥンの闇》とやらに堕ちたそうだが、しかしそれではいまはあの塔はどうなっているのだ。主を失ったままなのか。この争乱の時に、聖王が魔道の力を手放すものか)
彼は三つの夜に魔道士が語った言葉を思い出す。
(そういえば、あの魔道士は聖王家によって存続させられた魔道士の家系の最後の一人である、といっていた。だがもし奴が真実は最後の一人でなかったとしたら……。そうだ、あのような強大な力を手放すはずがない。きっと他にも魔道の家系は残されていたのだ。そしていまは他の魔道士があの塔にいるのではないか)
彼は進む足を早めた。
物思いにふけるうちに夜は深くなり、窓から覗く月は怪しく輝き彼を照らし出していた。
赤くすらも見える月光を浴びながら、彼は神の庭へと急いだ。
じきにたどり着いたそこには、初めに彼が訪れたときと同じように、少年兵が一人で門を警備していた。だがあの時の少年兵とは違う。
「御苦労。何も異変はないか」
「はいっ。ありませんっ」
一目で近衛隊であるとわかる彼の白銀の鎧を見てだろう、少年兵は緊張した面持ちで答えた。
神の庭に入るには、この少年を追い払わなくてはならない。
どうすべきかと思案しながらさりげなく話を続ける。
「初めて見る顔だな。この前、大祭の一日目だったか、ここを訪れたときには、君と同じ年頃の別の少年が警備していたと思ったが」
その言葉は彼にとっては話の接ぎ穂でしかない、どうでもよいことであったのだが、聞いた少年兵は不意に青ざめ顔をうつむけた。
「ああ、ティートですね、きっと……ティートは死にました。殺されたそうです。今朝……もう昨日ですね、朝方死体が発見されたそうです」
夕刻に聞いたランドロゥの言葉を思い出す。
(軍の死者は一人……ああいや、今朝見つかったので二人か)
(なるほど。それではそのティートとやらが昨日の朝に見つかった軍の死者であると云うわけか)
「そうか……。そいつは気の毒なことだ。大祭ともなると、民間人にも軍にも少なからぬ死傷者が出るからな」
「違います。大祭とか、そういう問題じゃありません。……なんで、なんで大祭だからというだけで、ティートがあんな惨い死に方をしなければならないんですか。あんなにあんなにたくさん刺されて……」
少年兵の声は淡々としていたが、激しかった。
「喉と心臓と、反対の胸まで切り裂かれて……どんなに苦しかったろうかと……ティートが、ティートがいったい何をしたと云うのですか。あんな惨い殺され方をしなければならないような何を」
少年兵は途中から彼を見ていなかった。
彼に視線を向けながらも、どこか遠くを虚ろに見つめている。
だがそのようなことよりも、少年兵の言葉が彼の心を揺り動かした。
(喉と心臓と反対の胸を切り裂かれて……)
「その死体はどこで見つかった」
「そこですよ。すぐそこですよ。その窓のすぐ外、すぐそこですよ。そこでティートは一人で寂しく死んでいたんですよ。止めれば良かったんだ。僕がティートを止めていればこんなことには……」
己の想念に耽っていたため、言葉の意味を理解せず理解しようともせず、彼はただその事実を利用した。
「……わかった。ここの警備はお前一人なんだな。すぐに帰れ。ここは危ない。その少年が死んだのはこの場所と何か関係あるのかもしれない。ここは私が預かる。お前は兵舎に帰れ。報告の必要はない。私が報告しておく。それと他言はするな。犯人はおそらくまだ目的を達していない。またこの近辺に来るかも知れぬ。そこを捕える。これは近衛隊で内密に処理する。他の部隊の手出しは無用だ」
早口でまくしたてる彼に少年兵は自失した眼を向けると、泣いたまま頷き去っていった。
その心のうちを彼は知らぬし、知ろうともしない。少年兵がいなくなり周囲に誰も見当たらなくなると、かがり火が彼の歪んだ笑いを赤く染め上げた。
(奴等がいる。この都のどこかに、まだ奴等はいるやもしれぬ)
神の庭の門を開けると、そこに広がるのは荒涼とした大地と、闇に浮かぶ漆黒の塔。
彼は迷いもなくそこに向けて足を踏み出した。
(これは大神ローネスの導きだ。悪を正せと、復讐を為せと。塔には新たなる主がいるはずだ。神の導きであるならば。ローネスよ、もしそうであるならば、私があなたに捧げた二十数余の歳月の祈りは無駄ではなかったのですね。ローネスよ。大いなる神ローネスよ。いま私はあなたを信じましょう。私に導きを。私に復讐の牙を与え給え)
魔道、と己が口に出したのを彼は気づかなかった。
魔道。
それは彼を導くもの。
破滅と妄執と愛と、その全てを彼に与え、また奪うもの。
そのことをすら、彼はいまだ知らない。己の開いている扉が、真実の狂おしき世界への最後の扉であるということをすら、いまだ彼は知らぬのだ。
*
「あんた誰だい」
彼の目に飛び込んでくるのはまるで真昼のごとくにこうこうと焚かれたかがり火。
視線を下ろせば淡い緋毛繊のじゅうたんが広がり、その上には百人も座すことのできるテーブルがある。
それぞれの席の前には古今東西、あらゆる素材と技術を惜しみなく使い作られた食事が湯気をたてており、それら全てを見下ろすように広間の突き当たりには巨大な像、腕の無い英雄神リクリスの像がある。
「招待した憶えはないんだけど」
彼の耳に飛び込んでくるのは優雅な弦の調べ、人々の囁き交わすひそやかな笑い声。
鼻をくすぐるのは甘い香料の香り。
いずれも、彼にとってはよく見知った類のもの。
王城区のそこかしこで、また貴族達の邸宅で毎夜催される、華やかな宴。
全てがそれを示している。
だがここにいるのは、彼と、あとたったの一人であった。
「ああ、そうか。わかったぞ。あんた爺様の云っていた奴だね」
テーブルには座る者はなく、無論供された料理を食す者もない。
どこまでも続く無人の席のその先、上座にただ一人だけが座している。
「お前が、この塔の新たな主なのか」
「そうだよ」
その者は立ち上がり、テーブルの脇に出、その姿を彼の前に晒す。
淡い青の胴着の上に、袖のゆったりとした金糸の刺繍入りの白の上衣を着、腰には濃紺のサッシュを締めている。
四肢はすらりと伸び、非常に細い両の手首にはいくつもの腕輪がはまっている。指の先に目を転ずれば、深い赤や緑を煌めかせ無数の指輪がある。
顔の輪郭は繊細なラインを描き、金と銀が入り混じった頭髪の間から彼を見る瞳の色は晴れ渡る空のごとき紺碧。
少しだけ厚ぼったい唇と、肩のところで奇麗に切り揃えられた髪型が、どこか平原外の世界を思わせる。
「僕がこの塔の主。正真正銘最後の魔道士さ」
少年は、美しかった。
少年であった。
その、まるで異国の王族のごとき装束に身を固め彼を迎え入れたのは、彼よりも一回りは歳の違う、美貌の少年であった。
「あんたが僕の塔の、最初の客だ。こっち来なよ。そんなところに突っ立っていないでさ。いま宴の最中なんだ」
特定の年齢に達さぬ少年特有の、男でも女でもない美しい響きを持つ声に招かれるままに、彼は少年に近づく。
近くまで行くと、少年はやや長身の彼よりも、頭一つ分は小さかった。
「さあ、座りなよ」
細い腕が近くの椅子を指し示すために振られると、手首にはまった幾重もの腕輪が軽やかに鳴った。
彼は言葉に従い指し示された椅子に座る。目に見えぬものでも、不可思議な白い突起でもなく、鮮やかな彫刻のなされた、いかにも高級そうではあるが彼の見慣れた類の普通の椅子であった。
少年は彼の隣の席に同じように腰を下ろす。
「どうしたんだい、ぼうっとして」
少年は彼を見ながら唇だけつりあげ、内心のよく読み取れぬ笑みを浮かべた。
「……いや、昨晩までの部屋とはえらく様相が違うのでな」
ああ、と少年は笑い声を上げた。
声は無邪気なように聞こえたが、顔は唇をつりあげるばかりで、表情が分からない。
「爺様、趣味が悪いんだもんな。あんな薄気味の悪いもんばっかり揃えて何がしたかったんだか。あんまり悪趣味だったから、僕の好みに変えたんだよ」
「その爺様と云うのは、昨日までここにいた……」
「そうそう、先代のあの爺様。あんたのことも爺様から聞いてるよ。なんだかくだらないことに魔道の力を使いたいんだってね」
少年の言葉があまりにも冷淡でそっけなく吐かれたものであったためか、彼はただ軽く頷いた。もし己の復讐を下らぬことなどと他の者が云っていたならば、彼はおそらく怒り狂っていただろう。
「その爺様は、どこへ行ったのだ」
「あれ、聞いてなかったの。《カイラ・グゥンの闇》に堕ちてったよ。で、僕が次の主に選ばれて堕ちる直前の爺様に色々と教えてもらったわけ」
「ああ……。それでは祝すべき出会いとやらは」
「ん、見つかったみたいだね。僕が出てきた結果を伝えといたけど。たぶん明日かな、王様がなんか発表すると思うよ。でも、あの程度の魔道を使うのに《穴》を開けなきゃならないだなんて、爺様、魔道の才能無かったのかな」
少年はまた無邪気に笑う。
「ねえ、あんた、名前なんてんだっけ」
「……クライ・ローデンスだ」
「近衛隊だって、爺様云ってたっけ」
少年は身を乗り出して彼の白銀の鎧に触れ、「へえ」と、感心したような声を漏らす。
「思ったよりも立派なもんなんだな、近衛隊の鎧って」
「ああ」
生返事をしながら、彼のほうもまた(ずいぶんと小さい手だな、俺の半分ほどしかないのではないか)などと考える。
少年の小さな掌は、続いて彼の頬に伸びてきた。
「へえ、爺様の云っていた通りだ。ひどいもんだね、あんたの顔。ちゃんと飯食ってないでしょ」
少年の掌は石かなにかのようにひんやりと冷たく、背筋に震えが走ったが、それは決して悪寒ではなかった。そしてまた、これは彼自身も気づいていないことであるが人一倍他者に触れられることを嫌う彼が、己の顔を触れさせてそのままにさせておくのは珍しい事であった。
少年が頬をさすると、彼の眼前で手首にはめられた大きな金や銀、磨き上げた真鍮の色をした腕輪がぶつかり合って澄んだ金属の共鳴音をたてる。
音は不愉快ではなく、むしろ耳に心地よいものであったが、何となく彼は落ち着かず、かといって無理に振り払う気にもなれず、ただやんわりと少年の手首に触れ「冷たいな」とだけ云った。
(なんと頼りなげに細い腕だ)
「ああ、ごめん」と云って少年がその手を引くと、今度は何か惜しいような心持ちがした。少年の掌の冷たさは彼の頬が火照っていたことを教え、心地よかったのだ。
彼はその気持ちを紛らわすように言葉を捻り出す。
「……あの魔道士を爺様と呼ぶと云うことは、やはり同じ家系の人間なのか」
「ん、知らない」
少年は云う。
視線はすでに興味を失ったというように彼から外され、己の指にはめられた色とりどりの巨大な宝石に向けられていた。
「外のことは、もう全部忘れちゃったからね。家族なんて分からないよ」
「外のこと……」
彼が不思議に思い呟くと、少年は一瞬だけ彼に紺碧色の瞳を向け「ああ」と云った。
「この塔の主になるにはね、いろいろ儀式がいるんだよ。魔道の使い方とか、塔のどこに何があって何ができるかとか知らなくちゃいけないし。で、そのうちの儀式の一つにね、塔に入るまでの記憶を全部消すっていうのがあるんだ。だから僕は家族のこととか知らないし、以前に同じ儀式をしたはずの爺様も知らなかったみたい。だから家系がどうとか、わかんないよ。自分について調べないと云うのも、塔の主の掟だしね。って云うか、調べられないようになっているんだけど」
昨日までの己を捨ててきたことを、少年はこともなげに云う。
「ああ、でも自分に関すること以外の知識はなくなっていないから、あまり困らないよ。でも、僕のような子供を選ぶってことは、もう他には魔道士はいないんだろうね。それとも僕の才能が他の人よりもずいぶんと上だったのかな。なんだかずっと塔にこもっていた爺様よりも僕の魔道のほうが上みたいだし」
「……お前の名は……」
「だから、忘れてしまったってっば。自分のことは全部忘れたの。いいじゃないか名前なんて。名前なんてさ、ただの記号でしょう。似たようなものをわかりやすく区分するための」
「記号……、ああ、そうか」
思わず、彼は頷いた。
過去、彼はただの孤児のクライであった。それが近衛隊に所属することになるとローデンスという名を与えられ、彼自身は何一つ変わらぬと云うのに彼はただのクライから、クライ・ローデンスとなった。
彼には少年のいうことが理解できた。名前とは、他者にわかりよく理解される記号でしかない、と。
そして、他人は本質は何も変わらずともその記号だけで人を判断するのだ、と。
「僕にはさ、そんなのはいらないよ。だって僕に似た奴なんて、誰一人いないんだからさ。僕は世界で唯一の魔道士なんだから」
少年の瞳は炎に照らし出され誇らしげに輝いた。
「僕は世界でたった一人の僕なんだ」
「……なるほど。しかし、それでは俺はお前のことをなんと呼べばいいのだ」
「好きにしなよ。僕だってわかりさえすればなんでもいいよ。お前、でもなんでもさ。どうせ僕とあんた以外には、ここを訪れる人間なんていないんだし。さて、それじゃそろそろ行こうか」
少年が不意に立ち上がると、その全身にまとった華麗な装飾品の数々が、見目同様の麗しい音をたてる。
「行く……とは、どこへ」
「何云ってんのさ。あんた、恋人の仇討ちしたいんじゃなかったの。やってあげるよ。僕も魔道の練習をしたかったから丁度いいし」
少年は彼に背を向け、部屋の出口へと向かう。
彼はその後についていったが、それは少年の言葉に従ったと云うよりも、少年の薄い肩や細い首筋をほとんど無意識に眼で追ううちにそのような形になっただけ、と云えた。
二人が部屋を出ると、すぐに後ろで扉が閉まる気配がした。
振り返った彼はぎょっとして眼を見開いた。
ゆっくりと閉まっていく扉の向こう、ついさきほどまで彼らのいた、あのこうこうと明りのたかれた人のいないパーティー会場の大広間が、どこにもなかった。そこにあるのは陰欝とした何もない部屋であった。
たった一つのしゃれこうべを除いては。
それは少年の姿と言葉に、しばし己のいる場を忘れかけた彼に不意に叩きつけられた魔道の世界であった。
(いまの光景は現実であったのだろうか。さきほどの宴の部屋と、いまのしゃれこうべの部屋と、果たしてどちらが現実でありどちらが幻であるのか)
彼が瞬時思いに耽ると、その思いを読んだかのように軽やかな声が笑いをともない狭い通路に響いた。
「魔道にはね、大別して二つの種類がある。一つが、物理的に物事を動かす力。もう一つが、人の精神に作用する力。これは、どちらも世界を造り替える力と云える」
「世界を造り替える……物理的……精神……」
意味がわからず、ただ彼は馬鹿のように少年の言葉を繰り返す。
「わからないかな。じゃあ、これでどう」
少年が暗闇の中でひらりと手を振ると、突然に月明りのような淡い光が周囲に満たされた。彼らの下る螺旋階段には採光窓など一つとしてないというのに。
「これはね、さっき云ったのの、最初の方。物理的にってやつ。これ――そういって彼に開いてみせる少年の小さな掌には、エメラルドのような緑光を自らたたえる丸い石が握られていた――を使ってね、明りを点けただけだよ。で、これをこう使うとね」
緑光の石を少年が撫でるように触れると、それを凝視していた彼の視野は、一瞬真暗になった。
と思うと、次に視界が開けたとき、先程まで下に向かっていた階段が、いつのまにか上に向かっている。
「こうなるの。どう、上下が逆転したでしょう。これが人の精神に作用するってこと。 《さかしまの術》とでも呼べばいいのかな。これ、実際はさ、何も変わってなんかいないんだよ。ただ、あんたの世界を見る眼、感じる眼を、ほんの少しいじくっただけ。というよりも、おかしくなってたあんたの眼を、正常な状態に戻しただけなんだけどね。だって、さっきの部屋はこの塔の一番下にある地下室だったんだからね。いままでがおかしかったんだよ」
それから彼は少年の後を夢見るようなおぼつかない足取りで、ただただ追い続けた。
少年はというと、塔を昇り続けながら輝く紺碧の瞳――少年の瞳はどのような暗闇のもと、あるいは光のもとでも一際強く輝き続けていた――を通り過ぎる部屋に向けては、時に立ち止まり室内に入ると、そこにある怪しげな魔道装置を愛でるように撫でては、うっとりとした声で彼にそれらについて聞かせた。
「この水晶を見てご覧よ。これは魂吸いの水晶と云ってね、熱的なエネルギーを無限にだって閉じ込めることができる物なんだ。……この書がなんだかわかるかい。これはね、あのロズ・グリークァイの残した魔道理論書なんだってさ。これには人に永遠の命を与える魔道や、空を飛ぶ魔道、大地を枯らす魔道とか、いろんなことが記されているんだって。凄いだろう。……あれはいにしえの神の血に濡れた剣。初代聖王イル・フェイズが伝説の神殺しの時に使ってた剣だって。それ以来いくら拭っても洗っても刀身から血が消えないんだってさ。面白いなあ。……あれは」
少年は昨日まで闇と沈黙が制していた塔を、細い体を軽やかに跳ねさせながら行き来し、彼のほうは少年の言葉にただ頷きながら、その姿を追った。
やがて緑光が二人の前方に点ると、少年はそこへ飛び込んでいった。
「到着っと」
その部屋は狭く両手を伸ばした大人が二人もいれば両端に届くかという程度の大きさしかない、円形の部屋であった。部屋の中央には彼と同じほどの大きさの巨大な輝く緑石がある。
それは先程少年が手の内に握っていたものと同質の物と見え、他に明り一つないのに鮮やかに光っていた。
「さて、それじゃあ調べてみるよ。確かこの前のアルパーダの日、イリーク大通り、二点鐘の刻だったね」
彼は頷く。少年が若枝のように細く伸びやかな指をうねらすと、そこにたわわに実った大粒のルビー、サファイヤ、ダイヤモンド、ラピスラズリとアクアマリンが緑光を受け怪しく光り、少年を幻想的に彩った。
周囲の壁が淡く青く光った。
壁だと思われたのはあの硝子板であり、彼はそこに浮かび上がる映像を見た。
大通りだった。多くの人間が大通りを行き交っているその少し上空からの映像である。
音はないが、せわしなく動き回る人々が、街の活気を伝えている。
その人通りの中を、一際せわしなく、振り返り振り返り走っていく青年の姿がある。
逞しい肉体を躍動させ駆けるその青年が、自身、クライ・ローデンスであると知り、彼は映像の示すところを悟った。
映像は、あの時の、彼がフェミナを失ったあの時の映像であった。
「へえ、楽しそうだね。まるでいまと別人だ。ふーん、ああ、なるほど。あいつらがやったのか」
映像は彼が夜毎見る夢の映像そのままを、そっくり繰り返した。彼は走り、フェミナから少し離れ、その直後、彼女の横を通り過ぎた三人の黒い鎧の者の腕に、鈍い金属の閃き。
フェミナは血を吹き倒れ、黒鎧の者は去り、ただ号泣する彼だけが残される。幾度も見た光景だった。彼が幾度も夢に見、そして叫びうなされ、そのたびごとに呪いと誓いを強めていった、あの光景。
だがなぜであろうか、いまその光景は彼に何も与えなかった。
何も。つまらない退屈のほかには何も。
彼は動揺した。
その光景にではなく、その光景に何も心動かされぬ自分に対し、動揺した。
(この一月、復讐だけが俺の全てであったはずだのに)
「ふーん、つまり、あいつらが今どこにいるのか調べればいいんだね。なんだ、簡単じゃないか。二日もあればできる。他にはなんか手がかりはないの」
問われて反射的に彼は答える。
「昨日の朝、神の庭の門を警備していた兵が殺された。その手口が奴等に似ている」
答えはしたが、得たときにはあれほど彼を興奮させたこの手がかりが、いまは奇妙なほどに詰まらぬことに思えた。
「なんだ、そんな手がかりまであるんだ。じゃあ、一日でいけるな。明日。明日までには調べてあげるよ」
少年の言葉に、彼は「頼む」とだけ告げる。
少年は金と銀がまばらに彩る髪を掻き上げ、笑った。
「そうしたら、あんた、何でもしてくれるんだってね」
それはひどく無邪気な、なのにその瞬間時が止まったかと思わせるような、とても冷たい微笑みだった。
彼はその微笑みを見つめ、そしてそこから目を離せなくなった。
「……そうだ。何でもしよう。俺にできることなら何でも。この命すら捧げる」
黒衣の老魔道士に誓った言葉をいま一度繰り返しても、言葉にはあの時のような狂的な熱はこもらなかった。
その熱はいま、視線にこもっていたので。
「覚えておくよ、その言葉。……さあ、戻ろうか。今日は帰りな。明日までに、すべて調べ上げておくから。送ってあげるよ。行こう」
涼やかな音を立てすっと少年は彼に近づくと、氷のように冷たい掌で彼の腕をつかんだ。そして彼を引っ張りながら、歌い、踊りながら長い螺旋階段を下り始めた。
「踊ろうよ。僕はいま凄く機嫌がいいんだ。とっても、とってもね。こんないい気分は初めてだ」
少年の声は天にまで響きわたるかと思うほど高く、そのステップは羽根がついているかのように軽かった。
円舞曲、輪舞曲、夜想曲に狂詩曲、賛美歌から鎮魂歌まで、手当り次第に少年は歌い踊り、しかしそのいずれもが彼の心を震わす見事なものであった。
いつまでも尽きることのないような階段を下りながら、いつまでも尽きることのないように少年は心のままに歌い踊った。素晴らしき世界を謳歌した。
そして彼は少年の造り物のごとく美しく、壊れ物のように繊細なかんばせを睨み続け、一瞬たりとて目を離しはしなかった。
いや、離せなかったのだ。
少年は、歌い続ける。
せかいはぼくのもの
あの空はぼくのもの
あの星はぼくのもの
あの海はぼくのもの
あの山はぼくのもの
あの森はぼくのもの
あの風はぼくのもの
あの人はぼくのもの
せかいはぼくのもの
せかいはぼくのもの
美しく軽やかな声で歌い続ける。
*
いつ果てるとも知れぬほどに長き階段も、上り詰めたのと同じ長さでやはり終わる。
「じゃあね、また明日」
まるで馴染んだ友を送るように少年は彼を送り出した。子供のように再会を約して。
彼は塔の厚く重い扉が閉まり、闇の中にその姿が完全に消え去るその瞬間まで少年の瞳を見続けた。シィリズの海原よりも深く、神の座す空よりも澄んだ紺碧色の瞳を。
(なんてことだ)
彼はほとんど絶望したように思った。
(なんてことだ……。俺は……俺は……)
絶望と苦渋とが幾度も頭の中を徘徊し、掻き回し、彼の脳髄をぐちゃぐちゃとしたただの肉塊へと変えているようだった。
彼は混乱した。絶望と、そして妄執と、二つながらの想いに引き裂かれ、彼の口から野獣のような絶叫がいましも漏れそうになった。
その時。
「死ねっ」
まだ幼いとすら云ってよい声が、彼が呆然とたたずむ神の庭へと響き渡った。
「死ねっ死ねっ死んでしまえっ」
彼の心は己の想念に囚われそれを認識しなかったが、しかし長年そうあるように鍛えられた肉体は、無意識にその声の方を向き直ると、瞬時に腰に差した剣を抜き放ち、彼に向かいくる月光に光る刃を叩き落とした。
「くそっ、くそっ、なんでなんだよ」
得物を失ってもなお彼に体ごとぶつかってくる少年兵を、彼は無意識ゆえに流れるような動きで組み敷く。
「なんでなんだよ……なんで笑うんだよ……」
襲撃者は、神の庭の門を警備していた少年兵であった。
少年兵は彼のからだの下で身動きを封じらられたまま、全身を震わせ叫んだ。
「なんで笑うんだよ。あなたのせいで……あなたのせいでティートは死んだんだぞ。なのになんでティートが死んだのを聞いて貴方は笑うんだよ。……なんで笑うんだよ」
彼の麻痺していた心はようやく己が命を狙われたという事実を認識した。
だが、襲撃者の言葉の意味は理解できず、ただ無表情に少年兵の赤らんだ顔を見る。
それがより激昂を誘ったのか、少年兵はますます顔を赤くして叫んだ。
「わかんないってのか。あなたが、ここの警備に回されたのを自分のせいだってティートは思い込んで、それで少しでもあなたを手助けしたいってあの窓の外にいたんだ。そのせいで……そのせいであんなひどい殺され方をしたんだぞ。あなたのせいだ。あなたの。なのになんで笑うんだよ。ティートが死んだのに、なんで嬉しそうに笑うんだよ」
少年兵は泣いていた。怒りとも悲しみともつかぬものに全身を震わせながら泣き、叫んでいた。
「俺は、笑っていたか」
少年兵は答えない。憎しみのこもった眼で彼を睨むばかりだ。
「そうか……」
彼は少年兵のいましめを解き立ち上がった。
(笑っていた、か。それは復讐を為す喜びの為か、それともあの少年との出会いを感じ取っていたか)
からだが自由になると、少年兵はすぐに立ち上がり先程弾かれた剣を拾い上げる。
彼は予感を感じ取っていた。
破滅の予感を。
フェミナを失った絶望と復讐に囚われた現在よりも、なお深淵なところへと己が堕ちていくような予感を。そしてそれが導く最終的な破滅を逃れる、これが最後の機会であるという感覚。
少年兵が剣を構え、彼に向けて突進してくる。彼は己の剣を手離し、全身の力を抜いた。
「あなたのせいで……あなたのせいで……」
運命からの逃走。
導かれる破滅を厭い、彼は少年兵の刃を受け入れた、その筈であった。
だが彼は知る。逃れ得ぬから、運命なのだと。
「馬鹿野郎。なにしていやがる」
彼に達する直前で、少年兵のからだは吹き飛んだ。
倒れた少年兵の上へ、逞しい青年の影ときらめく銀の剣が覆い被さり、ためらいもなく振り下ろされた。
断末魔はなかった。
影の主は立ち上がり、血に塗れた少年兵の死体を抱えると彼をどやしつけた。
「何をしている。早く出ろ。こんなところを見つかったら終わりだぞ。早く」
彼は黙ってディズラッド・アーリーンの浅黒く精悍な、しかしいまは青ざめた顔を見た。
そこにはこれ以上ないほどの悲哀の表情があった。
「早く。何をぼうっとしている」
ディズラッドは神の庭を出たすぐのところに少年兵の死体を捨て置くと、彼のところへとって返し腕をつかみ、彼を力づくで引っ張った。
「これは俺がなんとかうまく処理する。お前は部屋に戻っていろ。いいか、お前は今日はここに来ていない。ここに来たのは俺だけだ。お前は何も云うな。黙っていろ、いいな」
再び麻痺した頭の片隅で、彼はぼんやりと思ったことを口に出した。
「なんで、あそこにいたんだ」
「……」
「ディズ……あの警備の少年を殺したのか」
「……あっけないんだよな。結構、あっけないもんなんだよな……人が一人が死ぬってのは……」
それだけ云い、後はお互い黙り込む。
二人は朝日が上り始め、赤く染まり出した回廊を歩き続けた。
(なんということだ)
彼は絶望を感じていた。
己の命が狙われたこと。
己のためにディズラッドが人を殺めたこと。
そしてほんの幾刻か前には彼の全てであったフェミナの仇討ち。
それら全てが、いまや彼にはどうでもよいことのように感じられていた。
(なんということだ……なんという)
これほどの目にあって、なお彼の脳裏に焼き付いて消えぬもの、先程から彼の頭にこびりつき打ち払えぬもの。
それは若枝のごとき細くしなやかな長い指。そこに実る大粒の宝石の果実。
それは美しき金と銀のまだらの髪。その隙間から覗く紺碧の瞳。
それは壊れ物のように薄い肩。そのうえにまとう鮮やかな白の上衣の間に白い肌。
冷たい指先。澄んだ声音。軽やかなステップ。不思議な微笑み。
(なんということだ……)
何もかもが色褪せた。彼にとっての全てであったフェミナ・ハイアッドの顔をすら彼はもはや思い出せない。
それは絶望だった。
彼は自分か壊れたのを理解した。
彼がクライ・ローデンスでいるための最後の一欠片。フェミナを愛した心をすら、彼は失ってしまったのだ。
あの人はぼくのもの
少年が美しく高き声で唄っているのが聞こえたような気がした。
せかいはぼくのもの
彼の絶望を孕みながら、聖王大祭は五日目を迎えようとしていた。
「それでは紹介しよう。余とイルナーにとっての祝すべき出会い、余とイルナーの希望、我が兄王子ギルアス・ロードの子にして我が甥、神聖なるイルナー王家の血を継ぐ者、ダグナス・ロード、ここへ」
その人がどこまでも造作の整った顔を振り、太陽のごとき笑みをもたらしながら『祝すべき出会い』を民衆に示すのを、彼は冷めた思いで見ていた。
「見よ、まだ幼いというにこの勇ましき顔立ちを。まるで我が兄が帰ってきたようではないか」
「本当だ」
「ギルアス様だ。ギルアス様の御子だ。間違いない」
「この剣を見よ。これこそかつて兄ギルアスがその武勇を讃えられ父王イル・ジャオスより与えられた宝剣〈フェイズ・エイルラーン〉である。兄がリンクラウドの卑劣なる罠により戦場で無念の死を遂げてより行方の知れなかったこの剣を携え、ダグナスは余の下へと参ったのだ。この顔、この剣、そして余の身内に流れる聖王家の血が、ダグナスこそ正当なるイルナーの後継者であると告げている。聞け、人々よ。余はここに宣言する。余はダグナスを王太子とし、我が後継者とする。これこそソフィナルード様の言葉の真意である。讃えよ。崇めよ。これは大いなる主、ローネスの意志である。余をもってするのと同様に、ダグナスを讃えよ。ダグナスこそローネスに選ばれし次代の聖王である。余と同様、神聖なるイルナーに永久の平穏をもたらす者であると知れ。讃えよ。崇めよ。さすれば余とローネスと、そしてダグナスとが汝等を守り導くであろう」
聖王イル・サイナスの長口上が終わると、いつものように聖都中が歓声で沸き上がった。
歓声の中、聖王の隣に立つ、まだ十になるやならずやといったところの少年が前に進み出、民衆に礼をし「ダグナス・ロード」だと告げると、またもや民衆は沸き上がった。
彼は覚めた思いでそのさまのすべてを見ていた。
(確かに聖王陛下は美しい。この世に現出した奇跡と云えるだろう。だが、つまらないな)
主君に対する畏敬の念は、彼自身が驚くほどに消え去っていた。
(つまらない。ありきたりな、わかりやすすぎる美だ。真実の美とはもっと独善的なものではないのか。人の心に安らぎではなく、胸を掻きむしるような苦しみをこそ生む)
――あの少年のように。
「イルナーに栄光あり。大いなるローネスの加護あり」
「万歳。聖王陛下万歳」
「ダグナス・ロード様万歳。聖王家万歳」
(つまらない)
彼は人混みの間を抜け、来た道を戻り始めた。
たいして興味のあることではなかったが、あの少年が見ておけと云うから見に来たのだ。彼の行動にいちいち口を挟むうるさい者もいまはいないから、身軽である。
人の波に逆らい兵舎に戻る頃には日は落ちかけていた。
じきに三点鐘が鳴る。警備の時間が迫っている。そしてあの少年に会える時も。
彼は軽い足取りで自室へと入った。
「……遅かったな。クライ。どこへ行っていた」
すでにかなり暗くなっている室内では、明り一つつけずにディズラッドが待っていた。
「リクリスの掌だ。おまえは行かなかったのか」
「ああ、陛下が何か重大な発表があるとか。云っていたっけ。忘れてたよ」
まるで興味のなさそうにディズラッドは云う。
「何だったんだ。陛下の発表とは」
「ああ、ギルアス様の遺児が見つかったそうだ。ダグナス・ロードとか云った。聖王陛下はその子を王太子に据えるらしい」
「へぇ」
たいして面白くもなさそうにそう云うディズラッドのありさまは酷いものだった。
本来ディズラッド・アーリーンという青年は常に生気に満ちあふれ、いつも笑いながら前を向いて歩いているような男であった。
それがいまのディズラッドは寝台に腰を下ろし、差す夕日にもかまいつけず俯いているばかりで、その姿からは生気がすっぽりと抜け落ちているように見えた。
「アルードって、云うんだってさ」
ぼそりとディズラッドは呟く。いつもは彼が嫌になるほど快活なディズラッドが。
「あの、少年兵さ……アルードって云うんだってさ。三月前に軍に入ったばかりだって。……神の庭への侵入はローネスの冒涜、よって死罪。目撃者であり処刑者である俺は職務を果たしたものとして無罪」
彼は何も云わず白銀の鎧を着、銀の剣を腰に差した。
ディズラッドが笑った。
耳障りな笑いだった。
「なあクライ、無罪だってさ。俺は、俺はさ、殺したんだぜ。年端もいかぬガキをこの手でさ。それが無罪だってさ。面白いよな」
「そろそろ三点鐘だ。俺は行くぞ」
「行くだと。どこへ行くつもりだ」
不意に笑い止んだディズラッドは、彼の肩をつかみ険しい口調で云った。
「どこだ。どこへ行くつもりだ」
「警備だ。おまえは行かないのか」
云いながらディズラッドの手を振り払おうとした彼の腕は、逆に激しく掴まれた。
「どこだ。どこへ行く。……神の庭か。そうだな、あそこへ行くんだな」
答えず去ろうとしたが、ディズラッドの腕は思いのほか強く、まるで彼の腕を握り潰そうとでもしているかのようで、身動きはできなかった。
「答えろクライ。神の庭へ行くんだな」
「……」
「なぜだ……なぜあそこへ行く……。俺は、俺は殺しちまったんだぞ、おまえのために、人を殺しちまったんだぞ。なのになぜあそこへ行く。なんでなんだよ。なんでだ」
「……」
「その眼だ」
ディズラッドの腕がいっそう深く食い込んでき、骨の軋む音をたてた。
「なんだその眼は。どうしちまったんだよ、クライ。どうしちまったんだ。お前……お前は近頃おかしいぞ。おかしいんだ」
だがそう云い募るディズラッドもまた常軌を逸していた。
「あそこになにがある。お前はどこに行ってるんだ。お前は……どこに消えちまっているんだ。俺は知っているんだぞ。昨晩だけじゃない。お前は神の庭へ入っているな、それも何度も。知っているんだぞ。三日前、大祭の二日目の晩、お前があの場所の警備を命じられたとき、俺は様子を見に行ったんだぞ。なのにお前はいない、待っていたらお前は神の庭から出てきた。違うか」
ディズラッドの言葉に、彼はあの日の朝、誰かの気配を感じたことを思い出したが、それはまるで百年も昔の遠くの、どうでもいいことのように思われた。
「それからその次の日も、そして昨日も……。俺は見ていたんだ。知っているんだぞ。お前は神の庭へ入ったな。冒涜だ。死罪だぞ。わかっているのか。だが……だがわからない、お前はどこへ消えた。昨日も、その前も、お前は俺が影から見ている前で、消え、そして明け方突然戻ってきた。お前はどこに行ってた。そしていまどこへ行こうとしている。云え――云え」
「……」
「その眼をするな。その眼だ、その眼をするな」
ヒステリックにディズラッドは叫び、彼のからだを力一杯揺さぶった。
しかしそれでも彼は
(太い腕だな。あの少年の腕はもっと細く、しかしもっとしなやかで美しかった)
遠くそう思うばかりだ。
それがよりディズラッドを激昂させているようだった。
「お前は……ちくしょう、どうしちまったんだクライ。どうしちまったんだよ……あの時だって……フェミナが死んじまったときだってお前はもっとちゃんとしてたじゃねえか。悲しさで落ち込んではいたが、もっとまっとうだったじゃないか」
フェミナ、という名に、彼のからだは一瞬だけ反応した。
が、一瞬だけだった。すでに事切れたからだが衝撃に反応するように。
「いまは、違う。近頃のお前はまるで何かに取り憑かれちまっているようだぞ。そうだ、お前は何かに取り憑かれちまっているんだ。それは、なんだ。なんだ」
(あの少年に)
彼は絶望的に緩慢な動作でディズラッドの青い瞳を覗き込みながら、あの少年の瞳は青だがもっと深くもっと澄んだ紺碧であったと思った。
まさに彼は取り憑かれていた。
なにもかもがあの少年の影のうちにあった。
耳のうちに入る人の声にあの少年の声はもっと美しく響いたと思い、鼻に届く香にあの少年はもっと爽やかに草原を渡る風のような匂いがしたと思い、目に入る全ての人にあの少年の腰はもっと細く、あの少年の脚はもっとしなやかで、あの少年の指はもっと妖しく蠢いたと思った。
彼は常に少年を思った。熱病に浮かされた幻影のように。
そして少年を思うとき、それは黄昏時をともなった。
妖しく淫らな、しかし無邪気な黄昏の魔物、それがあの少年だった。
いまようやく黄昏が訪れた。彼が一睡もせず待ち望んだトワイライトが。
なのにそれを遮る者がいる。
疎ましいと、彼は思った。
妨害ならば、排除するまでだ、と。
「どけ」
「クライ……」
ディズラッドの目が見開かれ、ついで泣きそうなほど悲しげな目で彼の瞳を捉え、しかし食いしばった歯の間からは怒りの言葉を漏らした。
「貴様……貴様、俺は、俺は……俺は貴様のために人を殺したんだぞ。貴様のために。それを、それを……」
「どけ」
「貴様……貴様」
何かが打ち付けられる激しい音と視野の変化で、彼は自分が壁に叩き付けられたのを知った。
ディズラッドの腕はなおも彼の上着の襟首を締め上げてくる。
「貴様は……俺は……。くそっ、くそっくそっくそっ」
何度も彼の体は固い壁に叩き付けられ、そのたびに激しい音が辺りに響いた。
それを聞きつけてだろう、誰かが「どうした」と叫んでいるのへ、ディズラッドか激しく叫び返す。
「黙ってろ。こっちの問題だっ。……クライっ、いいか、死罪だ、死罪だぞ。わかっているのか」
口を開こうとすると息が苦しく、ようやく彼は自分が酷く打ち据えられているらしい、ということに気づきながら、絶え絶えの口調で、それでも云った。
「……手を……放せ……」
「貴様っ、目を覚ませ。目を覚ますんだよっ。フェミナが死んでおかしくなって、それでやっと少し元気が出てきたと思ったら、今度はもっとおかしくなりやがった。くそっくそっ、くそっ」
「手を……放せ……」
「ああっ、放してやるよっ」
一際強く叩き付けられたと思うと、彼のからだは自由になったが、今度は眼前に銀の輝くきらめきがあった。
「死罪だっ。わかっているんだよな」
突きつけられた近衛隊の証、入隊時に聖王より直々に拝される近衛隊の者にとっては云わば栄光であり忠誠の証である銀の剣を前に、彼は己のからだの具合を確かめながら、ゆっくりと立ち上がった。
「どけ」
ディズラッドの返事は剣のゆらめきであった。
「行けるもんなら行ってみろよ」
いっそ悲壮にディズラッドの言葉が響いた。
「俺を刺していけよ。でなければ俺が貴様を殺す」
ためらいもなく彼は己の腰に差した剣を抜いた。
ディズラッドの顔が歪んだ。
「ああ、そうかよっ、そうだよな。貴様っ、殺してやるよ」
ろくに足場もない狭い室内で、主君の命を守るために捧げられた二つの剣は交じり合った。
お互いによく知り馴染み、また多く似通った剣技であったが、しかしお互いの精神はかけ離れており、それが明暗を分けた。
鋭く突き放たれたディズラッドの剣は、最後の瞬間で一瞬だけ緩み、それを弾き相手を蹴り上げる彼の動作には淀みがなかった。
剣を落とし、床に這うディズラッドを、彼は何の感慨もなく見つめた。
ディズラッドの腕が、落とした己の得物の方へと動く。
彼はほとんど無意識に反応し剣を弾こうとしたが、一月余りも放りおかれ、いままた痛めつけられた肉体は彼の思惑を忠実に果たしはしなかった。
標的を誤った彼の剣は、ディズラッドの右の手の甲を貫いていた。
「ッ……」
ディズラッドは声を上げなかった。
ただ怒りとも悲しみとも、あるいは笑いともつかぬ顔を彼へと向け、云った。
「……これでおあいこだな。……俺の剣はアルードの血で汚れ、お前の剣は俺の血に塗れた……」
彼は剣を抜いた。ディズラッドは傷口を残った手で押さえ、床には剣から滴る血が見る間に黒い染みをつくっていく。
「……行けよ……行っちまえくそっ」
彼は部屋を出た。
多くの顔が室内の様子を伺っていた。それらにかまいもつけず、彼は足早に歩いた。
好奇と不審に満ちた顔は黄昏の中に溶けていった。
「どこへでも行け。呪われろ」
ディズラッド・アーリーンの声と姿もまた黄昏に溶けていき――そして永遠に失われた。
*
「だあれ、あなた」
一つ一つが丹念に織られたレースが幾重にも重なるドレスは純白、陰影がその白を彩り複雑な模様を造り上げる。
刻一刻と変化する模様は時に神の横顔であり時に一本の巨木、時に天使の翼のようでもあり、時に女の顔が浮かび上がった。
歳は十五か六か、幼さが抜け切る直前の少女と女の狭間にある年頃。
ドレスに浮かぶ顔ではない。
ドレスを身に付ける女の顔である。
いつものようにのぼりつめた塔の最上階で彼を待っていたのは少年ではなく、目の前に立つ少女であった。
ドレスの裾は脚をすっぽりと覆い隠し、反面袖は薄い肩までも露にしている。
肘から下を覆うのは白に錯覚かと思うほどほんの少しだけ青みがかった長手袋。
髪は月光を映し銀、それは何一つ飾り立てられることなくとも輝いている。
昨晩の少年を黄昏とするなら、その少女は夜明けと云えた。
訪れる闇ではなく明けゆく闇。
どこか似ていながらどこまでも異なるもの。
「あなただあれ」
それでも彼には一目でわかった。間違いようが無かった。
「ふざけないでくれ。昨日会ったろう」
海よりも空よりも、その紺碧は違って深く澄んでいる。
「昨晩とはずいぶんと違う格好をしているな。見違えたぞ」
「誰よ、あなた」
彼が一歩近づくと、怯えたように少女は一歩後退った。
「……そういった遊びにつきあう気はない。わかっている。お前は昨晩会ったあの少年だろう。昨晩の格好も良かったが、その姿もなかなか似合っているぞ」
少女はしばらく押し黙り、怯えた瞳を彼に向けるのみだった。
怯えは正真正銘のものにも思われたが、彼は己の感覚を疑わなかった。
ややもすると、少女は昨晩の少年よりは明らかに一段高い、少女の声で笑った。
「つまらないわ、ちっとも引っ掛かってくれないなんて。少しは騙されてくれてもいいじゃない」
ころころと、まるで何も知らぬ無垢の者のような笑いだった。
「よく来たわね。そんなに恋人の仇が知りたいの。それとも魔道に取り憑かれでもしたのかしら」
答えず彼は少女に近づいた。
触れられるほど近くに寄ると、やはり少女は彼より頭一つ分ほど小さかったが、それでも昨晩より少しだけ顔が近くにあるように感じられる。
足元に目を映すと、それも道理で少女は高いヒールを履いていた。彼の視線に気づいたのか、少女は云った。
「私、こういうのってあまり履いたことがなかったんだけど、なんだか変な感じね、コレ。歩きづらいわ」
そう云うと少女はヒールを脱ぎ、裸足になった。
脱ぐ瞬間、その肌の白さに思わず彼は見惚れたが、それはすぐに幾重のレースのスカートの下に隠された。
「……裸足では冷たくないか」
「冷たいわよ」
少女は優雅に可愛らしい仕草でスカートを少しだけ持ち上げた。するとレースはしかめっ面の天使を浮かび上がらせ、その下に子供のように小さな足があった。
空はふるような満天の星空、磨き上げられたように滑らかな外見の、大理石であろう床は磨き上げられたその分だけ冷たそうで、彼は少女の小さな白い足が震えているのを見た。
彼は少女に近付き、顔を見た。
細いおとがい。
肌が白いためか異様に目立つ唇の紅。
瞳の色は彼を魅了して止まぬ、あの紺碧。
視線は夢見るようにどこか定まらない。
ヒールを脱ぐとそれらは昨晩よりもいくぶん低い場所にあった。
彼は何も云わず少女の腰に手を回し、胸の前で抱きかかえた。少女が冷たいと云ったから。
「優しいのね」
少女は云ったが、その視線はやはり彼を見ているようでその向こうを見ているようでもあり、彼は少し戸惑った。
「行きましょう。その扉を出て」
少女に云われるままにいましがた入ってきた扉を開けると、そこには彼がのぼってきた暗闇の螺旋階段はなく、窓一つないのに月光に――いや、それは月明りにしては明るすぎたかもしれない――照らされた長い回廊があった。
突き当たりに小さな扉が見える。
「行きましょう」
立ち止まった彼に、少女が再度促した。彼は少女を抱きかかえたまま歩き出した。
回廊は長かった。長いこと二人は何も云わず、少しづつ向こうの扉は近づいてきたが、まだずいぶんと小さい。
窓一つなく、かといってほんの少し視線を落とせばすぐそこにある少女の顔が見れず、彼は前を向いたまま歩を進めた。
「……何もないな」
これほど明るいのに、あかりとりになるものすら何も。
腕の中で少女が笑った時のように少し体を震えさせる。
「退屈なの? じゃあ景色でも見ましょうか」
少女が云ったとたん、彼は空中に立っていた。
そこは上空の高み、聖都エイルナードを遙か見下ろす天に近き場所であった。
左右に続いていた壁はおろか、天井や床まで完全に消失し、彼は天使のように泰然と宙に浮かんでいた。背に翼は生えていなかったが。
あまりに高いため――星が近いと彼は思った――彼からはそこにいるはずの人間の姿は見えない。
大きな炎がそこかしこで焚かれており、周りで大きなゆったりとしたうねりのようなものがあった。それは大勢の人々の祝い騒ぐさまであるらしい。
見渡す限り聖都のどこもがそのようなさまだった。喧噪や細々とした人々の営為とそのものは彼まで届かなかったが、人々の熱気は遙か上空にまでたちこめるようで、彼は息苦しさを覚えた。
それを振り払うように、彼は云う。
「……どちらが、本当のお前なんだ」
昨晩の少年と、いま彼の腕の中にいる少女と。
「どっちだと思う」
少女はまた楽しげに笑っている。彼は視線は落とさず、ほんの少しだけ少女を抱く腕の力を強めた。
少女は軽かった。少女の背にこそ翼でも生えているかのように。
だが軽くとも彼の腕の中にある温もりや触れた指がそのままどこまでも沈み込んでいくような肌の柔らかさは紛れもない現実で、昨晩触れた少年の触れるもの全てを弾き返すような――それでいて少年はあらゆるものを誘うように蠱惑的であったのだが――あの肌の張りとはまるで別物であった。
しかし、いましがた思い起こしても、少年の肌はまざまざと蘇り、現実であったとしか思われない。
彼は首を振った。
「わからない。いまのお前も昨晩のお前も紛れもなく現実で、なのにどこか不確かだ。いまこの腕に抱いているときでさえ確かでない。しかしどちらも美しい」
少女は彼の首に腕を回し、そしてまた笑った。
「確かなものなんて、どこにあると云うの」
やがて扉の前に着いた。
彼の背丈の倍ほどもある、真新しい鋼鉄の扉。
それは、やはり軽く触れるだけで自然と開いていった。
部屋は丸かった。
円ではない、球だ。そして四方は真白い。
少女は彼の腕の中から軽やかに下りると、その球の中に歩を進めた。目には見えぬが確かに床があるようで、少女は球のちょうど中心辺りまで進むと振り返り手招きした。彼はそれに従った。
「ねえ」
少女の声が甘えるような色を交えた。
「どうしても知りたいんでしょ、あなたの恋人の仇」
彼は答えなかった。自身でも答えが分からなくなっていたので。
「私、ちゃんと調べておいたわよ。……でも教えてあげない」
少女はすねたようにふいと彼に横顔を見せた。ひょうしに少女の小さい耳朶が銀の髪の隙間から覗く。
「なぜ」
少女は答えない。彼は沈黙から逃れるためだけに言葉を続ける。
「教えてもらえば、それ以上は何も望まぬのに。復讐を手伝えなどとも。それに魔道とは知る力であって、外界に直接干渉する力ではないのだから、これ以上の助けは求めようもない」
「あら。それはずいぶんとした思い違いね」
少女は心底心外そうな顔をした。
「魔道の力はただ知るだけではないわ。その気になれば、ここにいながらにして世界を変えることだって可能よ」
「……しかしあの老魔道士は」
「あのお爺様、嘘ばっかり云うのだもの。いいわ、見せてあげる」
少女は肩のところまで右手を上げ、軽く振った。
「エフ。セイランを」
すると、ただ真白いばかりであった周囲の壁全面に、緑のない草原が映し出された。
平原の中心に広がる《白の草原》だ。
遠くに、高く巨大な門がある。あまりに巨大すぎてその足元に蠢く羽虫のごときものが幾百の騎馬であることにしばらく気がつかぬほどの巨大さの門だ。
直接見たことはなかったが、彼はそれを知っていた。
軍事国家セイランの防衛の要〈ガダーズの門〉六つの翼を持つ天使の名の、セイランの象徴とも云える建造物だ。
いま初めてその偉容を目の当りにし、彼はしばし息を呑んだ。
「〈ガダーズの門〉がある限りセイランは不滅である」と時の王が云うのも無理からぬ、そう思える光景だった。
「エフ。虚像を十年前に」
少女の声に、音もたてず景色が一変した。
無数の羽虫が門から吐き出されていた。巨大な偉容を埋め尽くすほどの幾千幾万、あるいは幾十万の羽虫。
それらはすべて騎馬部隊であった。
「これが十年前、イルナーへの侵攻を目論んでいた頃のセイランよ」
「……なるほど。平原最強の軍事国家と云われていたのもうなずける」
「この当時のセイランに軍事力で勝つことなんて不可能だったでしょうね。でも、セイランはイルナーを侵そうとしていた。戦わなくてはならない。でも戦えば絶対に負ける。だから、お爺様、先代の塔の主である魔道士は考えたのよ。戦わずして勝つ方法を」
少女の言葉に従い、まるで絵物語のように周囲の映像は次々と変わっていく。
毅然と立ちそれらを受けながら少女は語り始めた。
その姿はまさしく天使のようであった。闘争の天使長ラーゼグィードのよう。
少女の云うところはつまり以下のようであった。
いかに統制された組織と云えどどこかに綻びというものはある。魔道の力を使ってまず徹底的に敵を調べ上げ、その綻びを知り、それを利用する。
セイランには二つの派閥があった。王と、大将軍である王弟との二つだ。
あるとき王は夢を見た。
王弟が己の王位を纂奪する夢だ。
それが真実となるのを恐れ、王は弟を疎んだ。
疎まれたゆえに王弟は身の危険を感じ、己の軍を一つ所に集めた。〈ガダーズの門〉に。
王はそれを叛意ととった。
そしてセイランに肉親同士による内乱が起こったのだ。
「後はあなたの知っての通りよ」
築いた王の言葉通り、〈ガダーズの門〉は陥ちなかった。
王位は纂奪されたのだ。王の見た夢の通りに。
「その夢を見せたのが、魔道の力。くだらない、ただの夢をね。もともと王は有能だけど弟であると云うだけで王位に就けなかった弟を恐れていた。だからくだらない夢がそれだけの効力を発揮した」
内乱でセイランの国力は三分の一以下にまで低下し、以後〈ガダーズの門〉が開かれたことはない。
「でも、そうすると今度はフォトキアが厄介だった。狂える指導者ガルズァークがおとなしくしていたのはセイランが怖かったから。セイランが衰えれば怖れるものなんてない」
セイランの内乱以後、フォトキアは猛然と侵攻を開始する。
まずは南、シェムス連合に。だが陸戦を想定されたフォトキアの狂気の軍、鬼兵隊はシェムス連合の大船団に海戦で大敗を喫する。だが、シェムス連合は大勝にも関わらず、不運にもこの戦いで大総督ドゥリズを失うことになる。
フォトキアはシェムス連合をくみしがたしと見ると、その狂気の矛先をリンクラウドへと向けた。これによりリンクラウドは長年の確執を捨てイルナーと休戦せざるを得なくなる。
開戦時のフォトキアの兵力は実にリンクラウドの三倍、だがリンクラウド王ダルケスはそれをよく防ぎ、時にはフォトキアに攻め入りすらした。
こうして十年にも及びいまだ膠着状態の続くフォトキアとリンクラウドの百年戦争は始まったのだ。
「これでリンクラウド、フォトキアの両方を封じて、それで一安心、て云うわけにはいかない。陸が塞がっていても、海路があるから」
平原最大の海軍、シェムス連合の大船団。フォトキアの鬼兵隊すら打ち破ったそれが、海よりイルナーに迫ってきた。
「でもシェムスって、せっかくの共和制連合国家なのに、重要な職は結局世襲制。馬鹿みたい」
英雄の子が英雄であるとは限らない。大総督ドゥリズは確かに一大の傑物であった。
だがその子トゥーラードはおよそ父に及ばぬ凡庸な人物に過ぎず、しかもまだ年若かった。
しかしドゥリズの幻影を求める人々はトゥーラードを大総督とし従った。それが間違いであった。
「もっとも、そうするように仕向けたのはお爺様だったみたいね。ドゥリズは戦乱のどさくさに紛れて暗殺されたのよ。お爺様の仕向けた魔道でね」
トゥーラードはあらゆる指揮を誤った。
己の後ろに父ドゥリズを見る人々が誤らせたのかも知れない。
巧妙に配されたイルナーの海軍との接触を避けるうち、大船団はある海域へと導かれていった。
イルナーに住まうものならば誰でも知っている、一年に幾日かだけ大嵐の吹き荒れる、魔の海域へと。
怖れず戦えば良かったのだ。シェムス連合の大船団にかなう海軍など存在しないのだから。でなければ、最初から戦う気など起こさなければよかったのだ。
いずれにせよ、大船団はドゥリズの幻影とともに、自然の猛威の前に壊滅し、哀れな凡夫トゥーラードもまた若くしてその命を散らすこととなったのだ。
「これがイル・サイナスの名声を高めた奇跡の一年の内実というものね。聖王陛下は、神ならぬ魔道に守られていたって、そういうこと」
それが、話の締め括りであるらしく、闘争の天使長ラーゼグィードのごとき厳しく世界を見通したような視線は、不意に和らぎ無邪気な美しい笑みを彼に向けた。
「どう。魔道の力がわかった」
「そう……。そうだな。確かにいくばくかの干渉力というのはあるようだ」
慎重に答えながらも、むしろ少女の笑みに彼の心は高ぶった。
「だがいまの話では実際に魔道の力が行使されたのはごくわずかであったようだが。セイランの王に夢を見せ、シェムス連合の大総督ドゥリズを暗殺しただけの」
「それ以上する必要がないと判断したから 魔道による必要以上の干渉は、摂理を歪めてしまうから。それに、わかっているの? 暗殺ってつまり、人を殺せるのよ魔道は」
「……どのように」
彼の問いに、少女は美しい声で笑った。
「教えられないわよ。魔道の秘中の秘だもの。まったく、何でこんな話になったのかしら。――そう、あなたに恋人の仇を教えられないって話だったのよね」
「なぜ、教えてもらえない」
「教えても意味がないから。あなた、仇討ちはできないわ」
そう云われても、いまとなっては(やはりそうか)と思うばかりで、彼の心にはさざ波一つたちはしなかった。
(あれほど深く愛したと思い、しがみついていたフェミナ・ハイアッドがいまはなんと遠いのだろう。わずか二日ばかり前にはあれほど燃えたぎった血がいまはなんと冷め切ったことか。まるで月の光のように)
「わかった」
淡泊に彼は云った。
「フェミナの仇討ちは諦めよう」
「そう……それではさようならね。もうあなたがここにいる理由はないから」
「いやだ」
彼は強い意志を込めて首を振った。
「それはいやだ。断る。俺はまだここにいる。ここにいたい」
「何故。仇討ちは諦めたのでしょう」
「お前が無理だと云うのなら諦めよう」
「では何故」
少女の瞳が偽りでなく怯えているように見えたのは、彼の錯覚であったろうか。
彼は告げた。さきほどよりも、更に強い意志を込めて、しかし静かに。
「お前のそばにいたいのだ」
それはあまりに陳腐で、フェミナに愛を告げたときよりも穏やかな言葉であったが、彼にはそれ以上に云う言葉を見つけられなかった。
あまりに強い感情は、時に言葉を殺してしまうのだ。
率直に飾りもなくそのままを云うほかに、何もできなくなる。
「お前が好きなんだ。――愛している」
なんとつまらぬ言葉であったろう。
幾百年の禁忌に封じられた魔道の塔。
遙か遠くや過去を映し出す怪しげな魔道装置。
それを操る少年であり少女であるあやかしの者。
それらの異常性の中で、なんと彼の言葉は普通でありふれているのだろう。
だがそれしかないのだ。彼の云いたいこと、彼の告げたいことは。
(所詮俺は凡人なのだ。この世の神秘より、真実の歴史より、俺はただ己の感情がもっとも大切で、それにかまけて全てを無駄にしてきたし、いままたするのだろう。フェミナのために一月余りも己を捨て、いまこの少女――あるいは少年の前にその妄執すらいともたやすく投げ出すのだ。フェミナ・ハイアッドをすら)
「お前が欲しい。そして永遠に手離したくない」
彼の言葉はいたって静かであったが、このうえもなく強かった。
彼は少女に近づいた。少女は長いまつげを伏せ瞳を閉じていた。
「あなたが愛しているのは私? それとも……」
瞳を閉じたまま少女は彼の左脇を通り過ぎていく。
純白のドレスの裾が床にする微かな衣擦れは、彼の周りを円を描くように動く途中、彼の真後ろで貴金属の触れあう澄んだ音に変わった。
「僕?」
右脇を通り抜けて彼の前に姿を現したのは、あの少年であった。
限りなく細い、しかし痩せこけていると云う印象は決して与えずただ無駄な肉が極限まで落とされている、と云うか初めから無駄な肉などつきようのない、とでも云いたくなるような細身の体に、ほかでは見ることの叶わぬ巨大な宝石をちりばめた指輪や腕輪、首飾りに足輪を全身いたるところに身につけたきらぎらしき姿は、紛れもなく昨夜彼が見、そして魅了されたあの少年の姿態である。
「どちらも。どのような姿をとろうと関わりなく」
少年は左の手首を振り、三重にはめられたプラチナの腕輪をしゃらんしゃらんと二度鳴らした。
すると辺りは星空になり、二人は星空の中にいた。
少年の身に付けた宝石、ルビーやサファイヤ、エメラルドやパールはそれ一つ一つが星のようであった。そして少年は輝く星を集めた銀河であるのだ。
(星が足りない)
ふと彼は気づいた。
思いつく限りのいたる場所に宝石の飾り付けられた少年のからだに一部分だけ何もつけておらぬ場所がある。
「耳飾りはないのか」
少年は笑った。
少女の無垢な笑いでなく、黄昏時を思わせる妖しく誘いながらその底にひとすくいの悲しみを含んだ笑い。
「ないんだ。この塔のどこにも、耳飾りだけは」
かれの懐から白銀の耳飾りが取り出された。
四つの翼を持つはかなげな表情を浮かべる天使、アルパーダの耳飾り。
フェミナ・ハイアッドのために用意され、しかし誰の物にもいまだなったことのない耳飾り。
彼はそれを差し出した。
少年は笑ったまま「つけて」と云った。
少年の頬は月の光を塗り込めたように冷たかったが、少年の耳朶は温かかった。
彼はいささかてこずりながら少年の両の耳に天使をつけ、頬を一撫で、金と銀の交じった髪を一撫でしてから一歩後ろへと下がった。
「似合わないな」
彼は苦笑した。
「そう? 僕は気に入ったけど」
少年は彼の目の前でくるりと回った。
「似合わないかな」
くるりと回ると、そこに立っているのは少女だった。
「いや、似合っているよ。そっちの姿なら」
少女は今度は無垢に笑った。ドレスに浮かび上がった模様は少年の笑みだった。
少女は夢見る瞳でうっとりと告げた。
「ねえ、今日の昼間の聖王の話は聞いたかしら」
「ああ、ギルアス様の遺児が見つかったとか。これで聖王家は安泰であると」
ふふふ、と夢見る口調で少女は笑い、云う。
「そんなはず、ないでしょう。ギルアス・ロードの遺児だなんて、いるはずないじゃない」
「……あの老魔道士が命を賭して捜したのではなかったのか」
「だから、捜したのは適応者。ギルアス・ロードの子だと云ってもあまり疑惑を呼ばず、また王族に足る資質を持つ人間、お爺様が捜したのは、それよ」
「では、あの子はギルアス様の血を引くものでは……」
「当たり前じゃない。そんなもの、いるはずがないし、それにもしいたとしても」
不意に、姿は少女のまま、声だけが少年のものとなった。
「あんな奴の血を引く者が、王族に相応しいわけがあるものか。あんな汚らわしい、獣の血を引くものが」
限りなく強く、確かな憎しみの込められた言葉であった。
「知っているかい。いや、知らないはずだよね、もう僕のほかには誰も知らないことなのだから……。あいつはね、ギルアス・ロードは獣なんだよ。いつも血に飢えて、戦場を遊戯場か何かのように楽しんで、国を守るためなんてとんでもない、あいつは自分が楽しむためだけに戦争をする、していた。そのうえあいつは……あいつは」
少年の声をした少女は云い淀んだ。
だがそれは云い難いからではなく、あまりにも大きい憎しみを一時に吐き出そうとしたために言葉が喉に詰まっただけ、とでも云うように、続く言葉は鋭く速かった。
「ギルアス・ロードは実の弟をすらその毒牙に掛けた。殺したのならまだいい、奴は実の、それは確かに別腹ではあったけど、それでも同じ父の血を引く実の弟を、犯した。……犯したんだよ、あの獣は。――呪われている、奴は、ギルアス・ロードは聖王家にあるまじき呪われた者だ。だから、だから私は……」
少女の姿をした少年は何かを告げた。
それはとても恐ろしい言葉であったのかもしれない、憎々しげに歪んだ唇は整っているだけに凄惨に見えた。
しかし、彼はその唇が何かの言葉を形作るのを見たばかりで、耳には何も届かなかった。
少女の目が不安げに見開かれる。
「エフ……もう少しだけ、もう少しだけ……」
少女の言葉は何を意味していたのか、それは彼に向けて発せられたものでなかった。
辺りから突如星空は奪われ、白い壁すらなくなりまったくの暗闇に彼は立ち尽くした。
「そう……やっぱり、そうなんだ……」
声の主の姿は暗闇に紛れ見えず、呟きは少女のもののような少年のもののようなどちらともとりがたい響きを持っていた。
「ねえ……明日……。明日またね」
「帰れと云うことか」
うん、ともううんともつかぬ曖昧な返事だけが帰ってくる。彼はうなづいた。
「わかった。明日、必ず」
「うん、さようなら……ねえ、知ってる? 神の庭に入ったものには、天罰が下るんだ。神様の罰が。死んじゃうんだよ」
何故突然少年――あるいは少女がそのようなことを云い出したのかわからず、彼は困惑した。だがそれについて考える間もなく――
次の瞬間彼は墜落していた。
とても長い墜落だった。
天上より人の世に降り立った英雄神リクリスの味わった大いなる墜落とはかくのごときものであろうか、という。
始まったときと同様に、突然墜落は終わった。彼は兵舎の、自室の前に立っていた。
しばらくは、呆然とそこに立っていた。だが夢から覚めたように、彼は現世の厄介事を思い出した。振り払ってきたディズラッド・アーリーンのこと、最後に背中に投げられた言葉。
(どこへでも行け、呪われろ)
(いるだろうな、ディズ)
思いながら彼は自室の扉を開けた。
はたしてそこにディズラッド・アーリーンはいた。
心臓とその反対の胸と、喉を切り裂かれ、いまだあふれ続ける血の海で待ちくたびれたように膝を折って、ディスラッド・アーリーンはそこにいた。。
(ねえ、知ってる? 神の庭に入ったものには、天罰が下るんだ。神様の罰が。死んじゃうんだよ)
(そうか、昨日の朝、ディズは神の庭に足を踏み入れていたのだったな)
ディズラッド・アーリーンの瞳は虚ろに開かれたまま薄闇を見つめて止まっている。
何を見ているのだろうか。開かれた口は何を云おうとしていたのだろう。
得られるはずのない答えを思いながら彼はディズラッドの見つめる闇を見た。
闇は次第に薄れていく。
夜が明けるのだ。
聖王大祭は六日目を迎える。祭典はいよいよ最高潮を迎えようとし、その向こうにあるありふれた日常を人々はかすかに思いながら、それを打ち払うため熱狂はいよいよ高まっていくのだ。
第六夜
体中が痛んだ。
吐く息が血の色をしているのではないかと思った。
無論息に色などないのだが、しかし深く息を吸い吐くと、血の色をした息ではなく、大量の血そのものが胃の奥から込み上げてきた。
目眩を感じ、よろめいた。
足がうまく上がらない。
近頃の不摂生がいまになって祟ったかと、彼は歯を食いしばりながら込み上げる己の血液を飲み干す。
これ以上血を無駄にするわけにはいかない。もうずいぶんと外に流れ出てしまったのだ。
かすんだ目でのぼってきた螺旋階段を振り返る。
暗闇の中で微かにぬらぬらと光る大量の液体が、全て己の流した血液であると思うと、気が遠くなるのも仕方がないと彼は思った。
それでもいま気を失うわけには行かない。死ぬわけにはいかない。
(もう一度……会わなければ……。約束したのだ、明日、必ず……と)
膝にまるで力が入らず、彼は銀の剣を杖のようにして己がからだをひきずるように一段一段ゆっくりと、確実にのぼっていく。
銀の剣もまたおびただしい血に塗れ幾ヶ所も酷く刃こぼれしており、銀というより錆びた鉄のようであった。
幾度か彼の意識は薄らぎ、ほとんど現世を抜け出しかけたが、ぎりぎりのところで彼を引き戻したのは一つの執念だった。
(会いたい……会わなければ……せめて一目なりとも……)
幻影が幾度か彼の前に現れ消えた。
初めにフェミナ・ハイアッドの、次には黒衣の老魔道士が現れ、それがあの愛しき少年の姿に変わると続いて少女になり、ディズラッド・アーリーンの虚空に向けた瞳になった。それからディズラッドの殺めた少年兵アルードの泣きじゃくる顔となり、少年兵ティートの見たことのない筈の死体となった。
幻影の最後は彼のよく知り、またあまり知らぬ者であった。
地上の太陽、この世に下りた現人神、その完璧なかんばせ。
(なるほど陛下は美しい。だが違う)
それは遠い。
それはこの手に触れない。
それは眩しすぎる。
それは皆のものでありすぎる。
それは違う。
求めているものと違う。
求めているのはもっと……
幻影は口を開いた。暖かく、逆らいがたき威厳のある声。
「よくぞここまで来た。余は汝を歓迎するぞクライ・ローデンス」
幻影ではない――
それは幻影ではなかった。
(ああそうか……。そういうことか……)
その瞬間、何かが彼の中で氷解した。
わかりかけていたこと、溶けかけていた氷、それらがすべて白日の下へさらけだされたような、そんな――
彼のからだはそれらの謎とともに溶け落ちていった。
*
(クライ……お前がやったのだな……)
(聞いたぞ。俺は確かに聞いた。死体が発見されるすぐ直前、ディズラッドの声が)
(『そうかクライ。そうなんだな……』ディズラッドの声は確かにそうい云った)
(クライ、何でこんなことを……いや……被疑者クライ・ローデンスの身柄を確保しろ)
(隊長。昨夜ディズラッド・アーリーンとクライ・ローデンスの両名が争っている場面を多数の者が目撃しております)
(クライ・ローデンスの様子は最近おかしかった。精神に異常をきたしているのだ)
(なんということだ。栄光ある聖王近衛隊から、こんな……)
(クライ、何か申し開きはないのか)
(……)
(クライ)
(隊規の五、いかなる理由があろうと聖王の許しなく隊員同士での諍いを禁ずる)
(背けば死罪)
(クライ。申し開きは)
(クライ・ローデンスの剣に血が付着しています。おそらくディズラッド・アーリーンのものかと……)
(隊規の六、剣を捧げたからには聖王家のためよりほかにその剣を汚すべからず)
(背けば死罪)
(クライ。何も云うことはないのか)
(……)
(クライ!)
(クライ・ローデンス、その罪は重し。よって死罪)
(いまは聖王大祭の最中である。処刑の執行は大祭の明ける明後日とする)
(クライ!)
(……)
(逃げた。クライ・ローデンスが脱走したぞ)
(追え、逃がすな)
(気をつけろ。奴は手練れだ)
(なんて奴だ。こちらの被害は三十人を越したぞ)
(しかし奴も相当な手傷を負っているぞ)
(どけ、俺がやる)
(隊長、クライは神の庭へと……)
(隊長! クライが……消えました)
(バカな……バカな!)
*
もうどこにもない。
クライ・ローデンスの行く場所はどこにもない。
父も母も、誰一人彼の血縁はいない。
だからただ剣の腕を磨き、その腕をもって軍で名を上げ近衛隊に入った。
彼には家族はなかった。とはいえそれはさしたる不幸ではなかったろう。
この時代、彼のごとき境遇の者はいくらもいた。だから家族の不在をもってそれを自分一人の不幸とする気にはならなかった。慣れてもいたし、そもそも家族がいると云うのがどういったものであるのか彼は知らぬから、うらやましくもなかった。
それに、彼はたくさんのものを持っていた。
気の合う友。
尊敬のできる上官。
忠誠を捧げる主君。
信ずる神。
そして愛する恋人。
彼は幸福だった。
日々剣を振り腕を磨き、王を守り、友と騒ぎ、疲れたら恋人のもとで眠る。
これ以上の何を望めると云うのか。
彼は全てを持っていた。
クライ・ローデンスは己の欲するところの全てを確かに持っていた。
それはささやかな幸福ではなかったろうか。
友と主君と恋人と。
それとも、それすらもまた彼の身に余るものであったと云うのだろうか。
彼は神に感謝した。
神聖イルナー王国に生まれたことを。
ディズラッド・アーリーンと友になれたことを。
仕える王がイル・サイナスであることを。
故国が平和であることを。
フェミナ・ハイアッドと出会えたことを。
彼は祈った。
この幸福が続きますようにと。
そのためには何をも神に捧げようと。
彼のもてる全ての想いと信仰をかけて、彼は願ったのだ。
昼に夜に、友と語らうひとときの沈黙に、目覚めた夜半に恋人の寝顔を見ながら、幾度も幾度も彼は心から願ったのだ。
だが神は奪った。
運命はクライ・ローデンスの愛するものを次々と奪っていった。
最初にフェミナが失われた。
彼は神を恨み、そのために信仰を失った。
次いで呪われた故国の闇の歴史は薄れていた愛国心を完全に損なわせ、ついにはディズラッドの命までも失われた。
彼には行く場所がどこにもない。彼のために許された場所がない。
神のためにも故国のためにも殉ずる信仰は残ってなく、仲間であった近衛隊は彼を追っている。他に友もなく、家族も血縁も何もない。
そしてただひとつ、彼に残されていたはずのもの、復讐心。
愛するフェミナを殺したものに対する怨嗟の念。必ずや奴らを見つけだしこの手で殺してくれようと、ただひたすらに思いつめたその心。
その執念すらもが、彼の手から漏れていった。
どうすればよいのだろうか。クライ・ローデンスはどうすればよいのであろうか。
何を思って生きていけばいいのであろうか。何を糧に。
彼には何もない。
信ずるものも帰れる場所も彼を許す何者をも、彼は持っていないのだ。
……いや、ただ一つ、彼にはあった。
だがそれは安らぎではない。
友と語り合うときの安らぎとは違う。
愛する者のかたわらで眠るときのような安らぎでは決してない。
それは妄執だ。
苦しく狂おしく、生きながら炎の地獄へと立たされるようなその想いは、それは妄執だ。
もはや執念とすら呼べぬ。彼の肉体と精神をどこまでもせきたててやまぬ欲望だ。
おとなしく刑に服していればよかったのだ。もはや彼には何もなく、彼の死を悲しみものもない。
近衛隊長のランドロゥは悲しみはするだろう。ランドロゥは彼に目を掛けていた。簡易裁判の場で黙して何も語らぬ彼からわずかでも弁解の言葉を聞き出そうと必死であった。
それでも、彼が死んでもランドロゥは生きていくだろう。聖王家を守る盾として一生涯を送り、そしていつか彼を忘れるだろう。
ランドロゥにとっては彼は多少目を掛けていた部下の一人にしか過ぎない。次第に記憶の中からクライ・ローデンスは消え、たまに思い出しはするかも知れぬが、いつか完全に忘れ去るだろう。
そして彼のことなど思いもせずに、死んでいくのだ。忠誠あついランドロゥのことであるから、最期まで聖王のことでも思いながら。
それでいいのだ、そうやって生きていける者は。
ランドロゥ・バグスティルには聖王家がある。己の全てを託し、疑いもせぬものがある。それは幸せなことだ。彼はそう知っている。
彼だけだ。
彼だけなのだ、行くあてもなく、己を託すものを失い、ただ妄執のみにせきたてられているのは。
死すべきだったのだ。
この醜い感情に操られて生きていくよりは、そのほうがよほど正しい選択であったのだ。
だのに、それをわかっているのに彼は牢を脱してしまった。
生き延びるために駆け、腕を振るい、主君を守るために捧げられたその剣でかつての仲間の命をいくつも奪ってしまった。
どうしても、たとえどのような罪を犯しても、あの者にいま一度逢いたい。
あの少年と話したい。
あの少女を抱きしめたい。
たとえどのような罪を犯そうともだ。
これは妄執だ。
なぜこんな妄執にとりつかれねばならないのだ。
ほとんど話したこともなく、何者であるかしら知れぬあの者に、どうしてこれほどまでに執着せねばならぬのだ。
幾年もともに過ごした友の死よりも、なぜたった一日あの者に逢えないことが辛く感じてしまうのだ。その者の名前すら知らないというのに。
幾十の剣檄をくぐりぬけ、もはや満足に立ち上がることも叶わぬからだをひきずり、塔をのぼりながら、彼はひたすら自問した。
だが答えなど出るはずもない。
なぜあの者でなくてはならないのか。
逢って自分はどうしようというのか。
自分は何がしたいのだ。
何を望んでこの塔をのぼっているのだ。
あの少年であり少女である者は、いったい何者なのであろうか。
どちらがあの者の本当の姿であるのか。
なぜ、なぜ、なぜ――
幾度も胸のうちに繰り返される疑問。
答えは得られず、そうして、彼の前に現れたのは――
*
「目覚めたか」
眼を開けると、意識がはっきりするよりも早く声をかけられた。
「ああ……」
うめきながら起き上がろうとする彼を、声が制した。
「まだ休んでいたほうがよい。そうは感じられぬかも知れぬが、お前の体はひどく傷つき疲れている」
穏やかな声だった。まるで陽光のように暖かな。
「痛みを感じないのは痛覚を完全に神経から遮断しているからだ。勘違いするのではないぞ。お前のからだは当分の静養が必要だ。まだしばらく眠っているといい」
彼がいるのは寝台の上であった。
目の前に豪奢な天蓋が見える。天蓋には金糸で彼のよく見知った紋様が描かれている。
幾何学的な直線の数々は平原の諸国家をあらわし、それを囲むようにしてある円は聖都エイルナードを意味している。
紋様はそれら全てを支配する者の紋、すなわち神聖イルナー王国聖王家の紋である。
上体を起こし、視線を前方へと転じる。
まず目につくのは、左右の壁の天井近い高さの所に、規則正しく並べられた左右それぞれ八枚ずつ、計十六枚にも及ぶ巨大な肖像画である。
きわめて人目をひく絵であった。
人の身以上のその巨大さがまず目をひき、ついで非常に水準の高い技術を持って描かれていることに気づく。写実的な手法で描かれたそれは、まるで現実とみまがうほどだ。
次には、そこに描かれた人物達に気づく。
あるものは壮年、またあるものは青年、年齢はさまざまで、そこに浮かぶ表情もあるものは柔和な笑顔を向けているが、別のあるものは厳しい視線を虚空に向けている。
彼らはみなどこか似通っており、絵画越しにも伝わる逆らいがたい威厳とも威圧ともとれる風格があった。そしてみな一様に頂に巨大な金剛石のはまった冠をつけている。
彼らこそ神聖イルナー王国歴代の主君達である。
それらの絵画の先、寝台から上体を起こした彼のちょうど真向かい、いくらか離れたところに、玉座がある。
壮麗に金銀と宝石で飾り立てられた、王の座所。そこに、その人は座している。
肖像画の人々と同じ面影を持ち、彼らと同じ金剛石の王冠をそのこうべに戴くその人。
「どうだ具合は。あまり無理をせぬがよいぞ。……どうした。何を黙っている。やはり容態がすぐれぬか」
「いえ……。これほどの身にあまる御厚情を賜いましては、なんと礼を申せばよいのか、と思案いたしておりました――尊き陛下」
彼の言葉ににこやかに微笑みで返すその人こそ、まぎれもなく神聖イルナー王国第十七代聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世であった。
「礼などよい。余は汝ら臣民の守護者であるゆえ、当然のことをしたまでだ」
かがり火一つないのに室内は日の光のもとにあるのと同様に明るく、それはあたかも聖王が太陽の代わりとなっているかのようだ。
彼と王とは視線を絡ませ、そのままながい沈黙がおちた。
彼はただ見つめていた。聖なる王の、平原に広く知られた瞳の色を。神々と同じ、その金色の瞳を。
王の手があがった。細くながい指で、己の顔を撫ぜていく。
人差指の先が、開いたままの瞳に触れ、通り過ぎていく。
その瞬間、金色は深い紺碧へと変じた。
「ああ、やはり……」
彼は起き上がった。
身体中の感覚がまるでなく、まるで宙にでも浮いているように思われたが、そのまま前へ前へ、聖王の元へ向かって進む。
王は何を考えているのか、その相貌に微笑を浮かべたまま、彼が近づくのを待っているとも無関心ともつかぬ様子で眺めている。
道程のなかばで、彼は倒れた。
痛みはなく、自分が倒れたことにもしばらく気づかずただ真暗になった視界に驚く。床に顔を突っ伏しているのだ。
ようやく顔を上げたが、今度はうまく立ち上がることができなかった。
彼は這った。赤子のように。
赤子が母親のもとまで這うのは、赤子には母のほかに何もないからだろう。
生まれいでいかなるしがらみも縁ももたぬ赤子には、ただ母親しかない。だから這ってでも母のもとへ行く。
いまの彼は、赤子と同じだ。その者のほかに、彼にはもはや何もない。
だから、彼は這った。懸命に、ひたすらに。
這いながらも、幾度か腕が滑り何度も床に顔を突っ伏した。そのたびにもがきながら、彼はついに聖王の玉座へとたどり着いた。
「あなたは……いや、おまえは」
彼は一度は神にも等しく思った主君へと腕を伸ばした。
王は身動き一つせず、張り付いたような微笑を浮かべたままひたと彼の眼を見据えている。
彼の指が震えていた。だが何に震えているのかは彼自身にも分からない。
(喜び……、これはお前にふたたびあえた喜びか。それともあるいは……恐怖)
恐怖。
なぜそのような言葉が思い浮かんだのであろうか。なにが恐ろしいというのだろうか。
失うものはあと命のほかになにもなく、その命すらももはや惜しいものではないと感じる彼にとって、なにが恐ろしいというのか。
(そうだ。恐れるものなどなにもない)
彼の手はゆっくりと伸びていき、ついに聖王の顔に触れた。
暖かな微笑みと異なり、その肌は冷たく硬かった。まるで……
(まるで仮面のよう。……いやこれは、真実の……)
両腕を伸ばし、聖なる王の完璧と詠われた美貌の頬を撫でながら、視線だけをずっと絡ませる。
深海の底のような深い紺碧の瞳と、嵐の前の空のごとき灰褐色の彼の瞳とが、お互いだけを瞳に映しあう。
彼の灰褐色の瞳に、雲間から差す日の光のような輝きがともる。
「……見せてくれ……お前の本当の顔を……」
かすれた声で呟くと、冷たい声が返ってきた。氷のように冷たく硬く鋭い声。
「私には本当の顔などない」
だがその声に氷のもろさもまた彼は感じた。わずかな傷をつければたやすく砕けてしまう氷のもろさを。
それを砕きたいと思いながら、彼は静かに聖王の相貌を己の胸へと抱き寄せ、そして溜め息を吐いた。
「……ああ」
安堵というより人が絶望したときのそれを思わせる溜め息だった。
「ああ……」
「久しぶり、かな。でも、まだ前に別れてから一日とも経っていないから、久しぶりは変かな。でも、じゃあこんなときはなんと云えばいいんだろうね」
答えず彼はもう一度両腕を伸ばした。
力をなくした指の隙間から、なにかがこぼれて床に落ちる。
それは偽りの顔だ。美しき聖王の顔をした仮面。真実を覆い隠す偽りの仮面。
偽りの下からあらわれたのは、紛れもなくあの少年の顔だった。
見るたびに彼の心に黄昏時を思い起こさせる、あの少年。彼の愛しき妄執。
いまとなっては彼の、すべて。
「ああ……。お前だったのだな、すべて。この塔で出会ったものすべて」
仮面。
聖王の顔を象った偽りの面。
それを見たのは初めてではない。
あの三日目の晩、それをつけていたのは誰であったか。
「初めからお前だったのだ。あの老いた魔道士も、お前の偽りの姿の一つでしかなかったのだ。いまようやく全てがわかったぞ」
「なにが偽りでなにが真実かなんて、いったい誰にわかると思う? ましてや全てのことが愚かな人の身に理解されるなんて、有り得るのだろうかね」
彼の前に座している者は、すでにどこも聖王に見えはしなかった。白と金の聖王衣は細いからだにだぶつき、こうべは王冠の重さに耐え切れぬといったようにかしいでいる。
はめられた宝石の重さに憂鬱そうにうなだれた指先が、彼に向かって伸び、そっと首筋をなぞった。
背筋がぞっとするほどの冷たさが全身をかけ巡り、すぐにそれが火のような熱さに変わる。
次の瞬間、彼はひどい激痛に叫んでいた。
「麻痺させていた痛覚を全部戻してあげたんだ。ひどい痛みだろ。よくそんな身体で生きていられるものだって、感心するよ。ああ、でもこれで君の思った通りに身体が動くはずだよ。もっとも、そんな気になれればだけど」
まるでいままさに近衛隊の、仲間の銀の剣が千本もからだを切り刻んでいるような痛みだった。
意識は薄れ、視界は真赤に染まる。それでも歯を食いしばり叫び声は止めたが、いまにも歯が砕けそう気がするほどだ。
「苦しいかい」
少年の声が楽しそうに弾んでいる。
苦痛にうめきながら彼は答えた。
「苦しい……な。だが……」
歪む視界の中へ、力強く腕を伸ばし、少年の身体を捕える。
「これでお前を抱くことができる」
「……死ぬよ、あんた」
「……自分でもわからない。何故なのか……、何故お前なのか……。お前は何も……苦しみのほかに何も俺に与えてくれやしない……」
「……」
「俺は復讐する意味を失った。……あれほど確かに信じた愛を失った……。フェミナ……愛していたんだ、確かに」
うわ言のように、彼は繰り返す。
「愛していた……なのに……なのに……」
「……」
「……俺はおかしい。おかしくなっちまったんだ。ディズの云う通りだ。……俺はなにかにとりつかれちまった、おかしくなっちまったんだ……」
腕の中で少年が「苦しい」と呟いた。
彼はますます腕に力を込めた。この腕で砕けよとばかりに。
「……俺はどうすればいいんだ……どうすれば。教えてくれ……教えて……」
「見て」
高い声色。視線を腕の中に落とすと、少年はいつのまにか少女となっていた。
「夜空。いい星空よ。きれいな満月」
云われるままに上を見上げると、いつのまにか辺りの様相は一変し、彼らは星空のただなかにいた。
かすかな驚きにわずかだが腕の力が緩む。その一瞬に少女はたくみに彼の腕をすり抜けた。
「明日はきっと完全な月になるわ。大祭の最後の夜にふさわしく」
数年に一度だけ、月が七色に輝く夜がある。それが完全な月の夜だ
「ああ、そうだろうな……」
少女を追いかけようとし、苦痛に膝をつく。少女が笑いながら彼を覗き込んだ。
「こんな月の夜は、どうやって過ごせばよいと思う?」
いま一度絡み合う紺碧と灰褐色の四つの瞳。
それらは次第に近づき、やがて影が重なった。
薄紫の聖王のマントが彼に覆い被さり、彼はただひたすらに腕の中の己の妄執を抱きしめた。
それが契約の夜。
*
彼は交わった。
だがなにと交わったのかは彼にもわからなかった。
彼の身は時に焼かれた鉄のように熱く溶け、時に北の永久凍土のように冷たく固まった。
闇の触手が彼の身体中を這い回っているような感触に全身が総毛立ったが、同時にそれはひどい快感でもあった。
鋭い爪が彼の身体を幾度も裂き、その傷口を鈍い刃が何度もえぐったように感じられた。
激痛に何度も身をのけぞり、流れる血の熱さを感じながら、しかし彼は自ら繰り返しそこに身を投じた。
なにを腕に抱き、なにに抱かれたのか。
遙か天の高みから地の底までを一瞬に落とされるような衝撃。
白く冷たい小さな陶器に己が身の全てを詰め込まれ、そのまま陶器と一緒に叩き壊されるような衝撃。
全ての解放と、一切の破壊と消滅。
それらがいちどきに行なわれているような目まぐるしさを全身で感じ、大いなる矛盾に身を横たえる。
それは人の世の交わりではない。
それは闇との契約。
永遠にその身を闇に捧げるという誓約を交わした者のみに許される苦痛という名の快楽。
闇の中をどこまでも、その最果てまでも深く深く、彼は堕ちていった。
そうして、クライ・ローデンスはこの世界から消え去ったのだ。
「なんで……」
暗闇の中で一言、彼は少年、あるいは少女の声を聞いた。
声は心底不思議そうに、当惑しきった声で、深い悲しみをたたえていた。
その意味を、彼はまだ知らない。いまはまだ。
だが、それが全てを破滅へ誘う、最後の旋律であった。
終わりの準備は、全てととのった。あとは、その瞬間を待つだけ。
*
聖都は沈黙している。
いよいよ、大祭最後の日が訪れようとしている。
いまはそのクライマックスをより盛大に迎えるため、都はひとときの静寂の中にあるのだ。
満月は、同じほどにまるい聖都を見下ろしながら、ゆっくりと天に弧を描いて進み、やがて山の端にその身を隠す。反対の地平線の彼方から今度は太陽が姿を現す。
月が沈み、日が昇る。当然のことだ。夜が明けるのだ。
クライ・ローデンスがこの世から消え、それでも夜は明ける。なにも変わりはしない。
聖都は大祭の最後を迎えるべく押し鎮められていた熱気が、いままさに爆発しようとしている。
イルナー歴三六二年、シアーの月、アゾスルッドの日。
神聖イルナー王国第十七代聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世の即位よりちょうど十年。
聖王大祭最後の日が、いよいよ明けようとしているのだ。
〈データコード61の照射完了〉
〈被術者の魔道適応チェック〉
〈魔道適応オールクリアー。適合者と認める〉
〈メモリーナンバー234照会〉
〈アデルストリードによる高速プログラム始動〉
〈メモリーナンバー234、照射開始〉
私が知る世界は、偽りの、幻の世界だ。
私が生まれたとき、父王ジャオスは云った。
戦乱の世に、王女はいらない。
だから、私は王子として育てられた。
私は父が嫌いだった。
父は心の弱い男だった。平穏な時代だったなら、あるいは良い王だったのかも知れない。
だが、戦乱の時を生きるには、父はあまりに小心すぎた。
いつも怯えて、なにかを喚いていた。そのくせ、必要な決断は何一つ下すことをしなかった。王の優柔不断さがより国の地盤を揺るがしているのだということにすら気づかなかった。
イル・ジャオスは愚王だった。
まさしく、愚かなる王。
父は、己の智と誠意をもって国を救おうとせず、ただ忌むべき禁忌に救いを求めた。
フェイズ・デルスト、呪われた魔道の塔に。
だがフェイズ・デルストを制御する中枢回路エフはイル・ジャオスを拒んだ。
「魔道力が足りぬ」と。そしてエフは告げた。
生け贄を捧げよ。魔道と共に生き、魔道の呪いを全て受け継ぐ幼子を捧げよ。
そうすれば、フェイズ・デルストの魔道の力は蘇り、聖なる王国を全ての災厄より守るだろう。
父はエフの言葉に従った。
捧げられたのは私。
当時まだ十にも満たなかった私だった。
私はその時より、この塔の中でのみ生きた。
塔の中で、私は幸せだった。外の世界は恐ろしいことでばかりだった。
いつも怯えている父と、父を蔑んだような目で睨み付ける兄ギルアス。その二人の間をおろおろと行き交う家臣達。
王宮のそこかしこでささやき交わされる噂。
イルナーはもう駄目なのではないか、王があれではながくはない、だが第一王子ギルアスの蛮勇もまたイルナーを正しく導きはすまい。
なんのことはない、己らの不安を主君のせいとして、ただなにもしようとしていないだけだ。
イルナーはもはや熟し切り、腐り落ちる寸前の果実だった。
嫌いだった。なにもかも。
小心な父も恐い目をしたギルアス兄も無責任な人民どもも、みんな嫌いだった。
母は私が生まれ落ちてすぐに死に、私を育てた乳母は口うるさいだけだった。
私が好きなのは優しい兄カイラスだけだった。
カイラスは優しかった。
いつも美しい声で歌を歌い、私を見ると微笑んでくれた。
だが私がカイラス兄と話していると、いつも決まったようにギルアス兄が現れた。
そうすると、カイラス兄は言葉数少なくなり、ギルアス兄は恐い目をしたまま自分の戦の手柄を語った。
ギルアス兄の話が終わるとカイラス兄は「恐ろしいことを」と悲しそうにつぶやく。
するとギルアス兄は「戦うことによって国を守ることが王子の役目だ、お前のこの細腕は何だ」とカイラス兄の腕をとる。からだの弱いカイラス兄は黙って顔を俯ける。
その光景が私は嫌いだった。
カイラス兄のか弱い心をわざと傷つけようとしているとしか思えぬギルアス兄の傍若無人さが嫌だった。
私はギルアス兄が格別嫌いだった。
塔に入るということは、そうしたうつし世のさまざまな事柄と別れることでもあった。
私は嬉しかった。
私は塔の中でそれまで禁じられていた王女の服を着た。
ドレスを着、宝石を身に付け、王子でなければならなかった過去に復讐するように、塔の中で私は王女として振舞った。
私を縛り付ける者は誰もいなかった。あるのはただ中枢制御回路エフだけ。
エフの云うのは魔道の手管だけで、ほかにはなにも私を縛らなかった。
生まれて初めて私は自由だった。
エフは私に魔道を教えた。
まず最初に、外の世界に幻影を送る術を覚えた。
送る幻影は、私の姿だ。偽物の私。
話しかければ言葉を返し、触れることもできる。
また、私が望めば視覚や聴覚なども共有することもできるそれは、私自身となにも変わるところがなかった。
外の世界の人々は、幻影の私に、私にするのと同じように話しかけ、本物の私と話すのと同様に満足しているようだった。
いや、私と話すとき以上に、だろう。実際の私を見る人々の目は、いつも不満げだったから。
きっと、幻影の方が、他者にとっては良かったのだろう。幻影の言葉を操るのは中枢制御体エフであったし、エフの言葉は巧みであった。
ただカイラス兄だけは、幻影を見ると、それまでの私には向けたことのないような悲しそうな顔をした。
初めて幻影の私を見たとき、カイラス兄は「そうか」と云った。「そうか。君もついに囚われてしまったのか」と。
そのときのカイラス兄の瞳を忘れることはできない。
あれは、カイラス兄がギルアス兄を見るときの瞳の色に近かった。
以来、カイラス兄は私を、正確には私の幻影を見るとき、いつも瞳を伏せていた。
時折、塔に父が訪れた。
父は私に魔道を使えと命じた。
国を救う魔道。イルナーを外敵より護り、イル・ジャオスの統治を絶対にする魔道。
答えるのは私ではなく、エフだった。
「いまだ時いたらず」
エフの言葉を聞くと、父は私を殴り「役立たずが」と罵った。
父の罵声は、いまだ一字一句違わず思い起こせる。
「何のためにお前が存在していると思っているのだ。女になど生まれおって。せめて魔道を使って父を助けることもできぬのか。この役立たずが」
私は魔道を覚えていった。
それが私に与えられた役割だったからだ。そのために、私はこの塔に捧げられたのだ。
そのためだけにだ。
天の星々を己の目と化し、望みのままに外界を見る術。
見えないものを見せ、見えるものを見えなくする術。
偽りの記憶を植え付け、また本来の記憶を消去する術。
人に憎しみを植える術。恋情を植える術。
次々と解放される塔の魔道を、私は貪欲に取り込んでいった。
私はイルナーを救いたかったのだ。
星の目で見る平原は、おびただしい血がとめどもなく広がっていく地獄だった。
ここにはもはや神の加護など微塵もないと云うことが、幼き身の私にもわかりすぎるほどにわかった。
大神ローネスの加護など、この世界のどこにもありはしない。
魔道を得て、私はそれを知った。
平原に安住の地があるとしたら、それははじまりの大樹の下だけだ。
はじまりの大樹。枯れ果てた〈白の草原〉の中心に気高く聳える巨木。
私ははじまりの大樹が好きだった。おそらく平原が滅びようともかの巨木だけは枯れるまい。そう信じることが出来た。そう信じることが出来るほど、はじまりの大樹は強く確かで揺るぎがなかった。
なんと人間とは、違うことだろう。
はじまりの大樹は私にとって救いであり、許しであり、永遠だった。
いつか――
いつかあの大樹のもとへ行こう。あの木陰で眠るのだ。
父も兄も国のことも、すべてを忘れて。
きっと、それはおおいなる安らぎを与えてくれるにちがいない。
私はそう思った。
いつか――
しかしそれは決して来ることのない――
*
幾年かが過ぎ去った。
九つで塔に入れられた私の年齢は、およそ倍近くになったが、魔力は倍ではきかなかった。長き歳月を、私は父のほかには誰も訪れぬこのフェイズ・デルストの塔で過ごした。
中枢制御体エフは、私にこう告げた。
「時いたれり。すべての魔道制約を解除する」
それは、私に平原を征する魔力が備わったことを意味していた。
だが、次に父が訪れたとき、私は云った。
「恐れながら、いまだ魔道は底知れず、拙き我が身には制御しがたきままです」
……父が憎かった。
私の存在を否定し、私を魔道に捧げながら、その私に救いを求める父があまりにも愚かで憎かった。
ついに隣国リンクラウドとの戦端が開かれたためだろう、心労のため幾日も眠らず憔悴しきった父王イル・ジャオスの顔は、聖なる王国を統べるものに似つかわしからぬ醜悪なものだった。
苛立つ父は無意味な処刑と断罪を繰り返し、本格的な激突を待たずして国は内よりの崩壊を始めていた。
イルナーを救いたいと、平原にわずかなりとも秩序をもたらしたいと私は思った。しかし、この愚王の下ではそれも叶うまい。
いっそ、父が死に新王がたてば……しかしその思いもまた、第一王位継承者、兄王子ギルアス・ロードの顔を思い出すにつけ、諦めざるを得なかった。
ギルアスは駄目だ。例え戦に勝とうとも、あの男の蛮勇はやはり破滅をしかもたらさない。
では、第二王子カイラスはどうだ。優しいカイラス兄なら。
確かに家臣どもが噂するように、カイラス兄は身体も心も優しすぎる。弱すぎるかもしれない。
だが、だったらその弱さを私の魔道で護ればよい。
カイラス兄が立ち向かえぬ苦しみには、私と魔道が対すればよいのだ。
そうだ。カイラス兄こそこの聖なる王国を統べるにふさわしい唯一の人間だ。
彼の統治の下でなら、イルナーは真に神の加護を得ることができるやもしれない。カイラス兄のどこか悲しげで慈愛に満ちた瞳こそ、民衆を憂う王の瞳だ。
そうだ、カイラス兄を聖王とするべきなのだ。私はそう思いいたった。
第二王子であるカイラスが王になるために必要なこと、それは現王イル・ジャオス・ゼム・トリータと、第一王子ギルアス・ロードの排除。
つまり二人の、死。
……
……確かに、父は憎かった。ギルアス兄も、嫌いだった。
だが、これは私の私怨のためではない。国の、そして民衆のため。そして盟主イルナーが健在であると云うことは、ひいては平原全体の平和のため。
カイラス兄を王に就けることを心に決めてより、私は幾度となく己の心の中でそう繰り返した。
国のため――世界のため――
あのときの私自身は認めたくなかったが、それは罪悪感だ。
そして恐怖だ。
魔道の多くは他者の精神を惑わし操る術だ。
しかし私は決して魔道を父王や兄王子達に使おうとは思わなかった。
必然がなかった、とは思わない。魔道を持ってすれば、よほど簡単に物事は進んでいたはずなのだ。
魔道の力を持ってすれば、父に王座を捨てさせることも、ギルアス兄に王位継承を諦めさせることも容易だったはずなのだ。
しかし私はそれをしなかった。そして二人を……
ある夜、私は幻影をカイラス兄の部屋へと向けた。私の魔道は完成されていたため、幻影の制御をエフから離し、私自身がすることができるようになっていた。
カイラス兄はやはり幻影の私には瞳を伏せたまま、しかし訪問を拒むことなく、私の言葉を待っていた。
私は問うた。
「王になる気はないでしょうか」
瞳を伏せたまま、カイラス兄は笑った。
――笑ったのだと思う。私はその顔を見られなかったのだが。
「私の望みはただ一つです。そしてそれは叶わぬ願い。叶えば私の世界が壊れてしまうほどの、強い願いです。そんな想いを抱える者に、人々を導き護ることはできません。だから、私は王にはなれないのですよ」
宮廷楽士をして『夢見るアクアマリン』といわしめたカイラス兄の瞳は、天井を通して星を仰ぎ、私に向けられることはなかった。
わかっていた。私はカイラス兄に自己投影をしていたのだ。
魔道に囚われ、もはや二度と外界に出ることのない私の、そうであれたかもしれない姿を、私は同類であるカイラス兄に映してみていたのだ。
私は迷っていた。
計画を実行に移すべきか否か。
父は、ギルアス兄は、それほどの罪を負っていたろうか。死に値するほどの罪を。
いや、負ってはいないのだ。
父は愚かであったかもしれないが、ただそれだけだ。ましてや私が兄を嫌っているのは、ただの私怨だ。
迷っていた。それに計画を実行に移してしまえば、私はより深く魔道に囚われることになる。
ことここにいたってなお、私は魔道を恐れていた。
知ればこその恐れだ。そして結論として、恐れは正しかった。
なにもきっかけがなければ、あのままだったろう。
隣国に破れ、国が滅びようと、あのままであれば私はそれすらも運命と受け入れたであろう。その方が、きっと正しかった。
結局、魔道は歪み。
どこまでいこうとも、あってはならないものなのだから。
……せんのない繰り言はやめよう。
いくら云おうとも、無意味だ。
すべては起こってしまった過去のことだ。いかなる魔道を用いようとも、過去だけは変えられない。
そして、あの夜が訪れたのだ。
……
私は、なぜこんな事を語っているのだろうか。
こんな事を記録に残し、誰になにを伝えようと云うのだ。
もはや訪れる者とて誰もいない、私の死した後には滅ぶのみの、塔の記録だ。
なにを後世に残そうとしたところで無駄なはずだ。まして、これは何の意味もない、ただの汚れた、私と王家の恥部だ。
なのに、なぜ私は語るのをやめることができぬのだろう。
……己の命の定める果てを知ってしまったためだろうか。
もしかして、私は知って欲しいのかもしれない。
私という人間がここにいたということを。
聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世ではなく、外界より閉ざされた魔道の塔に生き、そして死にいく一人の女のことを。
女……私は女なのだろうか。
確かに、少なくとも女としての生を受けて生まれはした。
だが男として育てられ、性の兆候を受けるよりも前に塔に閉じこめられ、誰にも見返られず生きた私は真実女であろうか。
ましてや、いまのこの身体はどうだ。もはや男でも女でもない。
きっと人間ですら。
……いや。そんなことはどうでもいい。
いま語るべきは、あの夜のことだ。
私が魔道に身のみならず心の芯まで投じることとなった、あの夜のことだ。
……
月のない夜だった。
不思議なほど、そのことははっきりと覚えている。おそらく、月の助けを借りずに魔道をするのが、その頃の私には少しつらかったからだろう。
第一聖騎士団の凱旋した日の夜だった。
第一聖騎士団。
代々王太子を長とする聖イルナー最大規模の騎士団。
率いるのは当然、第一王子ギルアス・ロード。
倍する兵力を相手に互角以上に戦い、リンクラウドの軍を退けての、堂々たる凱旋だった。
しかし、彼らを迎える民衆の顔は明るくはなかった。私はそのさまを魔道の眼をもって見た。
整然と並び、シアー大通りを行進していく第一聖騎士団。
王家の紋を描いた大戦旗を押し立てて先頭を行くのは、騎士団の長、王太子ギルアス・ロード。
『燃える金剛石』と呼ばれたその相貌は、呼び名の通りきつく固く引き締められ、思い詰めたような瞳は敵を睨むように目指す聖王城に向けられたままだった。
左の腕で手綱を取り、馬上を微塵も揺れず、馬を進める。
出迎える民衆の視線を捉えたであろうのは、あます右の腕だった。
右腕の付け根には幾重にも厳重に包帯が巻かれ、そして、そこから先にはなにもなかった。
右腕が、無かった。
ありうべからざる空白の空間を、隠すでもなく見せびらかすでもなく、ギルアス兄はただ歩を進めた。
謁見の間では、取り乱す父王の問いにもただ
「不覚をとりました。大事はありません」
と答えるのみで、それ以上ギルアスはなにも語らなかった。
複雑な思いの渦巻く中で、凱旋の宴が行われた。私の幻影も宴の席に立った。
もとより口より先に身体が動く性分であるギルアス兄は、常よりさらに言葉数少なく、ただ険しい表情を崩さずにかけられる言葉に頷くばかりだった。
人々の視線は、ギルアス兄の失われた右腕のあるべき場所と、杯をあおっては周囲を怒鳴り散らす父王との間を、行きつ戻りつした。
カイラス兄はいなかった。
気分が優れぬとの伝達があったが、戦を好まぬカイラス兄が、こうした場を好まないのは誰もが知っていたので、気にとめる者はなかった。
宴が始まり、一刻ほども経ったろうか。
私が幻影にかけられる人々の言葉に辟易し、そろそろエフに制御を任せようかと思っていた頃、主賓であるギルアス兄が席を抜けた。
「傷が痛むので休む」
という言葉に、答えられる者はいなかった。
父王の取り落とした純銀の杯の音だけが、むやみに室内に鳴り響いた。
私は幻影をエフに任せ、魔道の眼でギルアス兄を追った。
兄の目が気になった。
睨み付けるように中空を見ながら、しかし威圧するわけではなく、他人に見えない何かを一心に見つめるような目。
城で見せたことのない目だった。
私は知っていた。
あれは戦うときの目だ。
幾度か私は魔道の眼をギルアス兄の戦場へと飛ばし、様子を見た。ギルアス・ロードは戦場に身を乗り出す直前、必ずと云っていいほどこのような眼をした。
それは覚悟を定めた目だ。
獲物を定め、小細工を弄する時も過ぎ、いよいよいずれかが倒れるまで立ち会うときの、その瞬間の目だ。
ギルアス兄は、かまいつける者どもを手振りと視線だけですべて追い払い、大股に歩いていった。足取りにはいっさいの迷いがない。私にはうらやましく思えるほどに。
やがてギルアスは一つの扉の前にたどり着いた。
扉の前には幾人かの小間使いの男女が控えていたが、ギルアスはそれらもやはり追い払う。そして周囲に誰もいなくなると、扉を睨みつけていた顔を上げた。
そのとき私と目があった。
高い天井の一角、私が魔道の眼を飛ばしていたちょうどその空間を、ギルアス・ロードはあの燃える瞳で睨みつけた。
見えるはずがないのに、ギルアス兄の視線は確かに私を射抜いていた。そして、苦い笑いを口の端に浮かべた。
それも一瞬のことで、ギルアス兄の瞳は、また扉へ移された。そして口を開く。
「ギルアスだ。起きているな・・・カイラス」
応えを待たず、ギルアスは隻腕で扉を押し開けた。
柔らかな寝台に上体を起こし、カイラス兄はギルアスを見ていた。
「兄さん」
とだけ云った顔の、その蒼白さがいつになく美しかった。
……二言三言、二人は言葉を交わした。
ギルアスは寝台に歩み寄り、カイラスは弱々しく微笑みながら、ギルアスの顔を見ていた。
カイラス・ツィーズは美しかった。
まるでいまにも消えそうなほどか弱くはかなげで、だからこそ炎が燃え尽きる最後の瞬間にひときわ強く燃え上がるように、カイラス兄はいつになく美しかった。私ですら摘み取ってしまいたくなるほどに。
ましてや、蛮勇の英傑、ギルアス・ロードにはどう映るものか……。
……ギルアス兄は、カイラス兄を摘み取った。
かすかに開かれたカイラス兄の唇に己が唇を重ね、薄い肩を隻腕で引き掴むと、力任せに寝台に押さえつけた。引き裂かれた絹が宙を舞い、カイラスの白い裸身に柔らかな双丘が現れた。
そう、魔道の眼を得たときからわかっていた。
カイラス・ツィーズもそうだった。私と同じだったのだ。
女として生を受けながら、父王の愚かな心弱さのために己の性を封じられた、私の同類だったのだ。
カイラスもまた、とうに私が同類であると知っていたのだろう。だからこそ彼、いや彼女は私に際限なく優しかったのだ。そしてだからこそ私は彼女に自己を投影し、王につけたいと思ったのだろう。我々は相哀れむ同類であったのだ。
ギルアス・ロード。
私が彼を恐れたのは、彼が男だったからだ。
どこからどこまでも、男だったからだ。
彼こそは、いくら父王に望まれようともなれぬ男の象徴だった。
強く大きく粗野で強引でしかし魅力的な、男であった。
私はギルアス・ロードになりたかった。
ギルアス・ロードとなって、堂々と父の前に立ちたかったのだ。しかし私はギルアス・ロードにはどうあがいてもなれなかった。サイナス・トリータでしかあれなかった。だからこそ、彼を憎み厭ったのだ。
カイラスのように美しくありたかった。ギルアスのように強くありたかった。しかしどちらを選び取ることもできぬまま、私は魔道に捧げられた。
そしてそうして得た魔道の力は、私がありたかった姿を具現させた二人の、褥でもつれ絡み合う情景を与えたのだ。
野獣のような、ギルアスの呼吸音。
その合間に、弱々しいカイラスの漏れ息。
狩る性、それは男。狩られる性、それは女。
私はそのどちらでもあれなかった。
ひどい吐き気と、息苦しさを感じたのを覚えている。
なにも見たくも聞きたくもないのに、魔道の眼も耳も閉じることはできず、私はその夜の一部始終を見届けた。
長い夜だった。
かつて、大神ローネスがただ一日の死を迎えたとき、世界は永遠よりも長い一夜を過ごしたという。
私にとっては、それに匹するほどに、長い夜だった。
……もう、いい。
彼らについてこれ以上多くは語る気になれない。語る必要もないだろう。
私はギルアス・ロードを殺した。
彼の心にこう命じた。
戦え。今すぐに剣をとり、敵をすべて滅ぼせ。例え汝の命尽き果てようとも、戦い続けろ、と。
その夜を限りに、聖都からギルアス兄の姿は消えた。
三日後、リンクラウドの前線の砦に隻腕の騎士が単身現れる。
死者三六四名。重軽傷者千余名。
それがリンクラウドにいまも伝わる悪鬼王子襲来の、結果だ。
……
リンクラウドとの全面戦争が起こった。
後日、送られてきた第一王子の塩漬けの首を前に、聖王イル・ジャオスは全軍をあげてのリンクラウド制圧を宣したのだ。
愛息の死に悲嘆にくれたゆえではない。唯一の希望が砕かれ、父王は自棄になっていたのだ。
すべての防衛線を放棄し集められた聖イルナー軍、全十万。
英雄王子の仇を討つために集った軍勢の意気は高かったが、しかし軍勢のほとんどは、剣をとることすらなかった。
緒戦、まだ手の探りあいに等しい両軍の最初の相対の時、その下らぬ小競り合いで、聖イルナー軍総司令、神聖イルナー王国第十六代聖王イル・ジャオス・ゼム・トリータは戦死した。
私が殺したのだ。
父に無理に与えられた魔道の力で、私は父王を殺したのだ。
すべては計画通りだった。ギルアス兄が死に父ジャオスが戦場に立つことも、戦場の騒乱に紛れ父を殺すことも、すべて計画したとおりだった。
もはや邪魔な二人は消えた。聖なる玉座は、真に正しき者の下へ。
聖イルナーは第二王子カイラス・ツィーズの下に治められ、、私の操る魔道に護られる。そして長きにわたる祝福を得る。
その、筈だったのだ。
カイラスさえ、生きていれば。
あの朝。
私が魔道をこうじ、ギルアス・ロードが姿を消した夜の、次の朝。
広場を見下ろすバルコニーに、カイラス・ツィーズは立っていた。
彼女の細い身体を包んでいたのは、極限にまで磨き上げられ、あたかもルビーのような輝きを浮かべる赤銅の鎧だった。ギルアス・ロードの鎧だ。
予告もなく現れた、このたおやかな第二王子が初めて見せる軍装に、誰もが驚きを隠せなかった。誰もが息を詰め、ただカイラスの行動を見守った。
私もまた、魔道の眼をもってそれを見た。最後の瞬間まで。
カイラスは云った。
「世に戦乱が広がっています」
どんな吟遊詩人も叶わぬと評されたカイラスの声は美しかった。
言葉は、見守る人々ではなく空を渡る風にでも告げられているように響いた。
「私の愛しき人が、戦っています。だから、私も彼の下へ行こうと思います」
言葉はそれだけだった。
カイラスは手すりの上に立ち上がると、鳥が飛び立つときのように、そのまま無造作に空に身を任せた。
だが、人間は鳥じゃない。翼がない。
最前までの美しさを微塵もとどめぬ、カイラス・ツィーズであった肉塊をながめながら、私は何かに身体を引き掴まれているような感覚を味わった。
魔道。
あの瞬間に、私は真の意味で魔道にとらわれてしまったのだ。初代聖王イル・フェイズの残した悪夢の遺産に、ついに捕まえられてしまったのだ。二度と逃れられることもないほどに、深く。
王は死んだ。
イルナーは新たな王を迎えねばならない。
だが第一王子も第二王子もすでにない。では誰が王となるか。王位継承権を持つ者は、あとただ一人しかいない。
第三王子、サイナス・トリータ。
それは私ではないか。
なんという、なんというばかげたことだ。
魔道の塔に囚われ、外界に出ることもならず、己が姿の幻影で人をたばかるばかりの、この私が王だと。そんなことがありえるものか。
そんな、ばかげたことが。
だが、私の戸惑いを置き去りに、戴冠の偽はとどこおりなく進んだ。私がいくら心を宙に飛ばそうとも、エフが幻影を操ってくれた。
私は王になった。
王になってしまった。
現世に姿を現すことすらできぬ私が、王になってしまった。
……
これは罰だ。
幾度となく、私は思った。
これは罰だ、多くのものを奪った、その罰だ、と。
奪った者は、償わなければならない。
私は国から王を奪った。だから、国に王を与えなければならない。
私は国から英雄を奪った。だから、国に英雄を与えなければならない。
私は国から美しき詩人を奪った。だから、国に美しき詩人を与えなければならない。
父の代わりを、ギルアス兄の代わりを、カイラス兄の代わりを、私は一人で為さなければならない。
生身の人間ならば、それは不可能だろう。
だが、私には魔道がある。
私は玉座に座す私の幻影に、美を与えた。
性別を越え、どのような者でも感嘆の溜息をもらさずにはいられぬほどの美。一点の曇りも欠点もない、完全なる美。それを与えた。幻影なのだから、いかようにも作り替えることはできる。
また美だけでは足りない。王なのだ。国を治める者にふさわしい、絶対的な威圧感や威厳を、幻影を見る者に感じさせ、逆らう気力を起こさせぬようにする。
すべて真実の感じようではなく、魔道による偽りの感情だが、かまいはしない。それで、国が治まるのならば。
私は王を造り上げた。だが私が奪ったのは王だけではない。外敵より国を護る、英雄をも造らねばならない。
私は魔道の眼を平原中に飛ばした。
イルナー国内はもとより、隣国リンクラウド、セイラン、シェムス連合等の大国。
アジィリズやロトス、ワナ等の小国。
フォトキア、ジラフら新興国家に、廃国サズロニアまで。
平原にあるありとあらゆる国家、都市に魔道の眼を飛ばした。
そして不穏分子があれば、迷わずそれを刈り取った。
反逆者の卵も、侵略者の芽も、可能な限りすべて刈り取った。魔道をもってなにもかもを知ることのできる私には、それができた。
すべてのことを為すには膨大な魔力を要した。常に平原中に魔力を張り巡らさなければならないのだ。月の魔力を借り、中枢制御体エフを最大限活用し、自分の肉体と精神の限界を駆使して、私は成し遂げた。
十年が経った。
私は名君と呼ばれた。国に祝福をもたらす者と呼ばれた。
国中の誰もが私の幻影に賛辞を惜しまず、誰もが私の幻影を崇拝した。
私ではなく、私の幻影を。
幻影は美しかった。
完全なる美、幻影はそれを持っていた。時に作り出した私すらも見惚れるほどの美しさ。
幻影は、かくありたいと願う私の姿だった。
もし私がこの塔に囚われず、生身の身体で王として立っていたならば、かくあったかもしれないという。
私は幻影に嫉妬した。
奴の受けている称賛や崇拝は、本来私に向けられていたはずのものなのだ。それを奴が横取りしている。そんな気がした。幻影のいる場所に代わりに私が立ったとき、同じほどの崇拝を受けることが果たしてできるだろうか。
いや、無理だろう。
奴は、美しく、私は、醜い。
そうだ。私が最も嫉妬していたのは、奴の美しさだった。
私を原型に作り上げられながら、十年経った今、幻影は私より遙か遠いところにあった。
奴の輝く金の髪と、陶器のように滑らかな肌。
それに対して、私はどうだ。
抜け落ちる髪は細く白く、肌は水気なくしわがれているではないか。
限界を超えた魔道の酷使が、私の肉体に変調をきたしていた。この世に生を受けてよりまだ二八年あまりしか経ってはいないというのに、私の身体はまったく老人のものとなっていた。
誰も訪れぬ塔で、魔道の塔で、誰にも見返られず、日に日に肉がそげ落ち、髪が抜け、肉体が弱り、醜くなっていく私。
それに反し、人々の称賛を受けながら、日毎輝きを増していく幻影。まるで私の生気を吸い取っているように。
憎い。
私を踏み台にし、私に本来与えられるべきものをすべて奪うあの幻が、偽者が。
何故誰も気づかない?
イル・サイナスは私だ。
お前達の王は私だ。
私がいるのはここだ。
私はここにいるのだ。
……
愚かな。私は何を云っている。
誰も知るはずがないではないか、完璧な、あまりにも周到な魔道によって隠蔽されたこの塔は、誰の目にも見出すことはできない。父が死んだ今となっては、誰も私がこのフェイズ・デルストの塔にいることなど知らない。
それに、もうすぐこの塔からも私はいなくなるのだ。
昨晩、中枢制御体エフが告げた。
今宵より一月の後、私は《カイラ・グゥンの闇》に落ちる。
生ではなく、しかし死よりも深く長く苦しみの永遠に続くという、現世と幽世の狭間にあるという闇。
そこへ私は落ちる。
肉体と精神が限界を迎えたとき、《カイラ・グゥンの闇》へと赴くことが、塔の主となるときの契約なのだ。
もはや、私は終わりなのだ。
この世のどこにも、私は存在しなくなる。休まることのない永劫の闇へと落ちるのだ。
一月後。
なんの皮肉か、それは私が王座についてよりちょうど十年目の日、聖王大祭の最後の日ではないか。私を讃える民衆の声を聞きながら私は闇に落ちるのだ。
助かる方法が一つだけある。
新たなる塔の主を迎えればよいのだ。別の人間が塔と契約すれば、私の契約は解ける。
もっとも、魔道より解放されたとしても私の肉体はもはや限界だ。生き延びることはできない。それでも、《カイラ・グゥンの闇》に落ちることだけは免れる。
恐ろしい。
私は《カイラ・グゥンの闇》が恐ろしい。永劫の苦しみの、闇。
私は、十分やったのではないか。何も求めず、苦しみの年月の他には何も得ず、頼るものとてなにもなく、それでもこの国を護るために十分頑張ってきたではないか。
それなのになお、力尽きてなお、私は永遠に続く苦しみを味わわなければならないのか。
わかっていた。それが私の背負った呪いだと。それが魔道だと。わかってはいた。
それでも、それでも。
助けてくれ、誰か。
私をこの塔から、魔道から解き放ってくれ。
誰か……
……
わかっている。そんなものはいやしない。誰も私のことなど知らぬのだから。
第一、魔道から解き放たれるには、私は魔道を使いすぎた。人の命を奪いすぎた。
国を護るため、大義のためといい、真実は父と兄を殺した己の罪をごまかすためだけに、私は幾百幾千の命を奪ってきた。
今日、何の罪もない者を殺した。
何も意味などない。
ただ、私が何の義も理由もなく人を殺す人間だと確かめるために。《カイラ・グゥンの闇》へと落ちるのも当然の人間だと、己に理解させるために。
それに、恋人達が、あまりにも無邪気で、あまりにも平穏を満喫し、あまりにも幸福そうに見えたからだ。
私は彼らに嫉妬したのだ。どれほどの私の苦しみの果てに自分たち幸福があるのかも知らず、ただ平穏を甘受する、甘受することのできる恋人達に嫉妬したのだ。
だから、私は魔道の言葉で男に囁いた。「その女を、殺せ」
軍の者だったのだろう。男は鮮やかな手つきで女を三度刺した。すかさず、私は男と周囲の者の瞬間の記憶を消し去った。
あとに残った男は死体にとりすがり、その場で泣いていた。
己が殺したと云うことも知らぬ、恋人の手を握りながら泣いていた。
恋人の死の真実を何一つ知ることのできない、哀れな男……
そうだ、機会をやろう。
あの男がこの塔に入ることができるようにするのだ。そうすれば、あの男はもしかしたらこの塔を見つけるかもしれない。
もっとも、生まれついての魔道適正が一定を超えていなければ、見つけたところでここまでたどり着くことは出来ないが、それでももしかしたら資質はあるかもしれない。ここまでたどり着けるかもしれない。
そうしたら何故恋人が死んだのか、誰が殺したのかを教えてやろう。
お前の仇は私だと、あの男に教えてやろう。
私を殺せと、あの男に云ってやろう。
あと一月。私が《カイラ・グゥンの闇》に落ちるまでにたどり着けるだろうか。
私を、見つけられるだろうか。
二十年もの間、誰にも見つけられなかった、私を。誰も捜そうとしなかった私を、あの男は見つけらるだろうか。
……
見つけられるはずがないではないか。
あの男が残りただ一月の間に、聖王城の奥深くに存在し一切の立ち入りを禁じられたこの場所を見つけ、偶然にも魔道の資質まで併せ持っているという可能性だと? そんなものはあり得ない。私はなにを馬鹿なことを云っているのだ。なんと愚かなことを……
……もうやめよう。
結局、私は何が云いたくてこのような記録を録ろうと思ったのだろうか。決して誰も見ることのない記録など。
私は、魔道を封じる。
このフェイズ・デルストの力と存在を、私の代で永遠に封じようと思う。
魔道は、やはりこの世を歪めてしまう、あってはならないものなのだ。
私は、私と同じような生を、誰にも送って欲しくはない。だから、誰にも魔道の力と叡知を伝えず、黙って《カイラ・グゥンの闇》へと落ちよう。そうだ、誰にも見られることのないであろうこの記録の最後に、魔道のすべてを封じよう。それで、終わりだ。
もう下らぬ己の想念に囚われている時間はない。あと一月しかないのだ。それまでに、いくつかの懸念をなくして置かねばならない。
フォトキア。狂える指導者ガルズァークを放置したまま行くわけにいかない。
奴は危険だ。奴の狙いはゾルドの森のマモノを解放することに相違ない。そのようなことになれば、魔道を封じるどころではない。暗黒魔道戦争が再び起こってしまう。
イルナーを守らなければならない。
せめてイルナーを守れなければ、私の生が何であったのかわからない。
残り少なき私のあとの生は、ガルズァークを止めることに費やそう。
それで、すべてだ。あとのことなど何もない。
フォトキアの狂気を止め、そして私は誰にも知られぬままに《カイラ・グゥンの闇》に落ちる。
それがすべて。
この塔を訪れる者など、いはしない。
あの男が、この場所にたどり着けることなど、あり得ないのだ。
私を見る者など、誰もいないのだ。
この記録を見た者よ。私の言葉を聞いてくれた者よ。
そのような者などいる筈のないことを知りながら、私は最後にこれだけ云う。
私はサイナス・トリータ。
いや、母がくれた真実の名は、サフィリア・トリータ。
魔道に囚われ、外の、真実の世界を見ることもなく、偽りかもしれぬ魔道を通した世界だけを見た。誰にも会わず醜き現実の己に美しき幻影を重ね偽りを生き、誰にも真実の姿も声も見せず聞かさず、誰にも存在を望まれもせず、しかしそれでも存在した者。
そしてそんな私にも望みがある。カイラス兄がかつて望んだように、己の世界を壊してしまうかもしれぬほどの、たった一つの強い想い。
誰か、真実の私の前に現れてくれ。
私を見てくれ。
私の話を聞いてくれ。
私に話しかけてくれ。
……私を愛してくれ。
幻影ではなく、真実の私を愛してくれ。醜い私を。
この地獄から、私を救ってくれ。
それがあまりにも一方的で、そして叶わぬ願いと知りながら、せめてそれだけを想いながら闇に落ちる自由くらい、魔道に囚われた私にも残っていよう。
せめて、この渇望だけは……
〈メモリーナンバー234の照射完了〉
〈スフィアレス級の精神衝撃感知〉
〈アッザ領域に衝撃分散〉
〈被術者のブレインリミッター、オフ〉
〈魔道知識照射開始。データαよりγまでを照射〉
〈照射完了。続いてδよりζまでを照射〉
〈照射完了。続いて……〉
最後の夜
「なのに、君は来てしまった」
空を見上げた。
美しい空だった。満天の星空だ。
夜。
聖王大祭七日目の、すなわち最後の夜が、訪れていた。
聖都を照らす七色に輝く完全な月を彼が見るのは、これで生まれて二度目になる。
鮮やかな光は、超自然の輝きをもって世界を染めている。
美しいと、綺麗だと、いまは素直に彼は思った。
「まるで天が大祭を祝福しているようだ」
「でも、真実のあれは祝福なんかじゃない。あれもまた、魔道の呪いだよ。月は魔力が枯渇しようとしているんだ。僕が魔力を借りすぎたから。あの光は、月の悲鳴さ」
少年は彼の腕からするりと抜けると、立ち上がり月に向けて細い腕を伸ばした。七色の光が少年の腕輪に反射して、彼の目に飛び込んでくると、まばゆさに思わず目を細めた。
「助けてくれ、もうこれ以上魔力を奪わないでくれ、月はそう云っているんだよ。これ以上月から魔力を借りることはできない」
「もし借り続けたら、どうなるんだ」
「月が壊れるの」
光が去り、再びしっかりと目を開けると、七色の光の中にたち尽くすのは、少女だった。
「そして、壊れた月はこの世界に降り注ぐ。世界の終わりよ。何も残らず、降り注ぐ月の欠片によってすべてが壊れてしまう。だから、もう月から魔力を借りることは当分できないの」
「ずいぶんと危険な思いをして、魔力を借りていたんだな」
「それしかなかったから。月から魔力を借りなくては、これほど多くの魔道を使うことはできなかったの。王として、この国を守るために必要だったのよ」
王、という言葉に反応し、彼は眼下を覗き見た。
彼らは今、遙か天の高み、何もない空に二人漂っていた。
彼らの足下の遙か下、聖王城のバルコニーに、それは立っている。
聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世。そう呼ばれている者。
輝く金の髪と、神像のように完全な美貌の、しかし幻影の王者は、全てを知ってしまった今の彼にはもはや虚ろな魔道の容れ物としか見えない。
そう、彼はもはや全てを知っていた。少年(あるいは少女)との闇の中の絡み合いの最中、サイナス・トリータの残した記録が、頭の中を通り過ぎていった。
そして、全ての言葉が通り過ぎたと同時に、記録に封じられていた魔道の知識が、いちどきに彼の脳髄に刻みつけられたのだ。
「あなたは試練に耐えた。魔道の知識の重みに耐え抜いた。この六日間で少しづつ魔道の知識をあなたに教え、その身をもって魔道を体験してもらい、あなたが魔道の重圧に耐えられるように私が仕向けたからよ。最初から、そのつもりだった。あなたはもう、魔道の後継者の資格を持っている」
少女が再び彼の元へと近づいてくる。彼女をじっと見つめ、ひとときも離さぬ彼の視線と、近づいた少女の紺碧の瞳が絡み合った。
少女は少年の声で云った。
「君が選べる道は、二つのうちのどちらかしかない。何もかもを忘れたふりをして、今まで通りに暮らすか」
彼は首を振る
「目を背けるには、知りすぎた」
「だったら、あと一つしかないよ。……死ぬんだ」
なんでもないことのように、少女は云った。
「いますぐに、死ぬんだ。でないと、あんたは死ぬよりももっと苦しむことになる」
彼は少女をそっと抱き寄せた。
「死ぬのはいい。もとより一度捨てて魔道と引き換えに捧げたこの命だ。死ぬのは恐ろしくはない。だがお前は? お前はどこに行く。《カイラ・グゥンの闇》へと一人落ちていくつもりか」
少年は――再び少年となっていた――また彼の腕をするりと抜けた。
捕まえても捕まえても、愛しき者は腕の中からすり抜けていく。
だが逃げる者は追えばいい。百度彼の腕を逃れる者は、百一度捕まえればいい。
「あんたはフェミナ・ハイアッドの仇を討ちたいと云った。そのためには命すら惜しくない、と。良かったじゃないか。願いが叶うよ」
(フェミナは……なんと懐かしい名前だろう。愛しかったフェミナ。少なくともひとたびは、俺の全てであったフェミナ・ハイアッド。いつも俺を待っていてくれたフェミナ。俺に帰る場所をくれたフェミナ)
「わかっているんでしょう。彼女を殺したのは僕だよ。僕が、あんたたちがあんまりにも幸福そうだったから、嫉妬して、彼女を殺したんだ。彼女の仇は僕だよ」
「だが、彼女に刃を突き立てたのはこの俺だ」
「僕があんたを操ったからだ。彼女だけじゃない。あの少年兵、ティートとか云ったあの少年兵も、僕があんたに殺させたんだ。それと、あんたの親友、ディズラッド・アーリーンもね。もうわかっていたろう? さっきあんたにあのときの記憶を返したからね。憎いだろう、僕が。あんたをいいように操って、あんたの周りの者をどんどん殺していったのは、この僕なんだよ」
彼の脳裏に次々と浮かぶ、死者達の末期の顔。
驚きに眼を見開きながら、しかし最期にはまるで犯した罪の罰を受ける者のように、静かに瞳をつぶり、聖典の一節を唱えた少年。
(全ての罪が死によって償われ、あらゆる者の死が、未来の救済のための礎となる。人の子よ、死に怯えることなかれ。あまねく死はけして無駄ではなく、明日の人のためにある。ローネスは汝を導きそして――)
最後まで聞かず、少年の胸に二度刃を押し付けた。
何故自分に殺された人々は、誰一人自分を罵り抵抗しようとしなかったのだろうと彼は思う。
ディズラッドもそうだった。銀の刃が胸に突きつけられたようとも、ディズラッドは呆然と彼を見るばかりで微動だにせず、心臓を貫かれた瞬間に、頬を撫でるような手つきで虚空に手を伸ばしたが、中途で力尽き床へと落ちた。一言も発さずに。
それが親友の最期だった。そして彼の恋人――
「僕はもうじきこの世界からいなくなる。死よりも暗く深い闇の中へ落ちていき、死ぬこともなく永遠に続く苦しみの中で生き続けるんだ。これほどあんたの仇にふさわしい末路はないだろう」
「違う……」
(いつでも俺を受け入れてくれたフェミナ……。最後の瞬間……、俺の剣をその身に受ける瞬間にまで、微笑んでいてくれたフェミナ……)
彼女の姿が、言葉が浮かび上がってくる。
いつも少し儚げに微笑んでいたフェミナ。まるで病魔に冒された我が子を慈しむような彼女の瞳。
(いいのよクライ。あなたは多分とても可哀相な人。自分が可哀相だということにも気がつかないほどの、可哀相な人)
(あなた、泣いた事があるかしら。怒らないでねクライ。私、あなたを見ていると、なんだか泣くのを我慢している子供を見ているみたいな気持ちになるのよ)
いつも優しかったフェミナ。
自分があれほどの優しさに包まれることがあるなどと、彼は夢にも思ったことはなかった。
フェミナ・ハイアッド。彼女のためなら全てをなげうっても惜しくはない。
そう思ったのは確かに偽りではなかった。なのに、たった一つの彼女の願いをすら叶えることはできなかった。
(泣いてもいいのよクライ。泣きたいときには泣いてもいいのよ。私はあなたに泣いてほしい)
ともに過ごした一年余りの年月で、たった一つだけ彼女の云った願いが、それだった。
そして、いまわの時、彼の腕の中でフェミナが残した言葉が、いまようやく思い出された。
(これで、あなたは泣いてくれるかしら……)
彼は泣かなかった。
叫び、悲しみ、苦しんで、それでもなお彼は一滴の涙も流さなかった。
憎しみと怒りと絶望に蝕まれた肉体は、涙を流すことができなかった。眠りの中でだけ、うっすらと涙を浮かべるほかには、彼は泣くことはできなかった。
(ああ、フェミナ、愛していた。俺の全てをもって。お前の為ならこの身を捨ててもかまわない。お前のために百度死のうとも後悔はしないだろう。それでも、それでもフェミナ)
「違う。違うんだ」
追いすがり、愛しい者の背中を抱きすくめる。少女の細く柔らかい肩は、まるで精緻なガラス細工のようで、背に翼の生えていないのが不思議に思えるほどに滑らかで美しかった。
ああ、それともこれは天使ではなく神の化身リクリスの背であろうか。
ローネス不在のただ一日、大神に永劫の別れを告げ人々を護るために地上へと降りて来たという英雄神リクリス。その姿は人間の少年と何一つ変わらなかったと云う。少年の小さな肩で、地上の全てを背負い、悪鬼を討ち滅ぼしたという。
なんと、小さな身体に重く大きいものを一人で背負い込んだのであろうか。リクリスは。
そして目の前のこの少年は。
たった一人で王国を護るため、己を必要悪とし、全ての罪を犯し、罪を己の目で見届け、今また全ての罰をその身に受けて、氷の中よりも冷たく炎の中よりも熱く夜よりも暗くとこしえよりも長く続く闇の中へと、一人落ちていこうというのだ。
(愛していたフェミナ。君のためになら死ぬこともできた。だけど、すまないフェミナ)
どこかでフェミナが微笑んでいる気がした。
「いいのよ」と、いつも通りに儚い微笑を浮かべて、彼を見ていてくれるような気が。
ディズラッドが、「どうしょうもない奴だ」と笑っている気がした。
それは、彼の身勝手な妄想だったろうか。
彼は覚悟を決めた。全てがたったいま、理解できたような気がした。
何故なのか、
何故自分は生きているのか。
恋人を失い、信仰を失い、守るものもなく欲するものもなく、親友すらもこの手で殺めて、それで何故自分が生きているのか。
全てが理解できた気がした。
「俺は、フェミナ・ハイアッドのためなら死ぬことだって厭わない。しかし、愛しい者よ、少年にして少女、王にして気高き罪人よ。俺はあなたのためなら、苦しみの中で永遠に生き続ける道を選ぼう。あなたの呪いをこの身に引き受けよう」
そのためだけに、自分は生きていたのだ。
愛する者の呪いを受け継ぐために。
愛する者に代わり、この国を護るために。
沈黙が落ちた。
天より降り注ぐ七色の光が弱まった。
突然の出来事に聖都のいたるところからどよめきがあがる。
完全な月は、聖王を祝福するものと誰もが思っていたために、光が見る間に弱まっていき、やがて完全に光がただの月光へと変わると、聖都中を闇と絶叫が包んだ。
「お前はわかっていない」
彼の腕の中で、王が云った。少年でも少女でもなく、完璧な美貌と威厳を持つかんばせが、玲瓏な声で告げた。
「私を愛していると、お前は云う。だがその恋情すらも、私がお前に与えたものだ。私は確かにお前のその言葉を待ち望んでいた。この煉獄を身代わりに引き受けてくれる者を渇望していた。だから、お前に恋情を植え、そう云わせたのだ。お前の感情は偽物だ。それは愛ではない」
国中の誰もが耳にする美しい声が、誰もが聞いたことないほど、消え入りそうに、力なくつぶやく。
「魔道だ」
力強く、彼は答えた。
「だとしても、かまわない。この想いが魔道により与えられたものだったとしても、いまこの瞬間は俺にとって唯一の真実の想いだ」
「私はお前を利用しているのだぞ」
「かまわない。あなたならば」
「後悔するぞ。私が死ねば、私の魔道は解ける。その想いもまた、瞬きする間に消え失せ、お前に残るものといえばただ呪いと私への恨みだけとなるだろう」
「かまわない。これよりほかに、あなたにしてあげられることはなにもないのだから。私は知らなかった。あなたという存在を、その愛しさを。やっとあなたに会えた。やっとこの想いを知った。なのにあなたは今宵を限りにこの世から消え果て、私にはそれを止めることができない。ならば、ならば……」
残されたわずかな時間に全ての思いのたけをこめて。
なのに言葉は口の中で凍りついたようにそれ以上出てこなかった。
だから、彼は王にくちづけた。
そうすれば、王の熱が彼の言葉を溶かしてくれるような気がした。
百度抱いても千度抱いても足りぬ愛しき身は、ただひとたびの抱擁ではどうにもならないかもしれない。
しかし、いま全身の力をこめて抱くほかに、彼にはできることがない。
なにもない。この想いのほかには何もない。
全て、捨ててきた。
フェミナもディズラッドもなにもかも。
魔道に操られたからではない。いま、この時、こうして愛しい者の呪いを引き受けるそのために、彼が自らの手で捨ててきたのだ。
(この想いが、言葉が、どうすれば伝わる)
愛する者のために何もできないことほど苦しいことはない。
それだけなのだ。
ただそれだけなのだ。
愛する者を前にしてまったくの無力である苦しみに比べたら、永遠に続く闇に落ちるのもまた、些細なことでしかない。
ただそれだけなのだ。
(どうすれば伝わる)
答えなどないのかもしれない。
あるいは、彼の行動こそがただ一つの答えなのかも知れぬ。時があれば、その真実もわかるやも知れぬ。
だが、彼ら二人に残された時間はあまりにも少ない。
わななく腕で、彼がそっと引き離したのは、もう王ではなく、少年だった。
触れると不安になるほどに細い肢体が、魔道により生み出された幻であることなど、なんの関係もない。肉体が偽りであろうとも、魂は彼の愛する者なのだ。
若枝のようにほっそりとしなやかに伸びた少年の指の先から、指輪が一つ、こぼれ落ちて、闇の中の聖都へと落ちていった。
肩でそろえられた艶のある髪が、汗のために額に張り付いている。彼がそっと額に掌を添え、慈しむように髪をかきあげると、少女の紺碧の瞳が、彼を見上げていた。
「愛している」
何故、このような単純な言葉しか出てこないのだろう。
いまこの胸の中を渦巻くさまざまな想いが、何故、たった一つのこの言葉になってしまうのだろう。
どんなに悲しんでも苦しんでも、やはりこれしか出てくる言葉はない。
きっと自分は馬鹿なのだと、彼は思った。
こんなときに、こんな当たり前のことしか云えないなんて。
だが、それは紛れもない真実なのだから。
「愛している」
いくら云おうとも、足りることなどない言葉。
残されたわずかな時間に彼の云えることは、それしかなかった。
もう、全てが終わったのだ。
愛しき者の胸から突き出た短剣の柄を見ながら、彼はもう一度云った。
「愛している」
震える声で、少女は云った。
「自分の世界が壊れてしまうほどの、強い想い……」
二人は見つめあっていた。
暗闇の空でお互いを抱きあいながら、見つめあっていた。
「カイラス姉さんは、そう云っていた。姉さんは、知っていたのね、この苦しみを、この痛みを。心がどうしようもなく、一人の人間に魅せられ絡めとられ、何一つできなくなってしまうことの辛さと、幸せさを。姉さんは知っていたのね。……きっと、ギルアス兄さんも」
「苦しくないか」
なにもない。
いまだけはただ、二人のほかになにもない。
聖都も魔道も聖王家も、虚空で抱きあう恋人たちのほかには、世界には何もない。
「苦しいわ。でも嬉しいの。あなたが与えてくれたものだから。こんな私でも、それでは愛する人から何かを受け取ることができたのね。例えそれが苦痛でも、何も受け取れないよりは、ずっと嬉しい」
彼はもう言葉など出てこなかった。
真っ白な頭の中に、真っ赤に染まっていくドレスだけが鮮明に映り、ぼんやりと「美しい」と思うばかりだった。どんな姿でも、愛しき人は、美しかった。
「愛しているわ」
少女の声が、かすれはじめ、呼吸の合間合間に、切なげに漏れるひゅうひゅうという音が、彼の心を締め付けた。言葉は呼吸同様切れ切れになり、しかし言葉にはつよいちからがあった。
「愛して、いるの……初めて、魔道の眼で、あなたを、見たときから、多分、ずっと、あなたを、求めていた。自分の、気持ちも、あなたを、見るときに、わきおこる、苦しみの、意味も、幸福の、意味も、まったく、わからない、ままに、私は、あなたに、焦がれていた……いつか、あなたが、私の、ところへ、やってきたらと、ここから、私を、出してくれる、ならと、けっして、ありえないと、思いながら、ゆめに、うつつに、あなたを、想って、でもきっと、あなたは、私に、気づくこと、すらないと、そう思うと、憎くて、辛くて、あなたの、隣に立つ人が、誰も、彼も、うらやましくて、疎ましくて、みんな、いなくなってしまえばと……」
闇の中なのに、少女の血がまるでルビーのように真っ赤なのが、不思議だった。
美しくて美しくて、彼は夢中でその血を吸った。
血は、少女の味がした。
「私は、なんて……お願いが、あるの」
「……な、なんでも」
うまく動かない舌を、無理やり動かす。
「なんでも、どんな願いでも、きっと叶える」
「ありがとう……フォトキアを、ガルズァークを、必ず、止めて。あいつは、マモノを、解放しようと、しているのよ。そんなことに、なれば、平原が、この国が、なにもかもが、こわれて、しまう」
「わかった。お前が守ったこの国を、誰にも壊させやしない。神に」
いや、もはや神など、なんの役にも立たない。
思い直して、云い直す。
「魔道と、君の美しさと、俺のこの想いに誓って」
「ありがとう……それと……わがまま……私の名前を、はじまりの大樹に、彫って、ほしいの……ああ、なんてわがまま……でも、たったひとつで、いいから、名前だけで、いいから、私がいたって、この世界の、どこかに、私の本当の名前を、一度も、呼ばれたことのない、本当の名前を、証拠に、私がいたって、ここにいたって……」
「……愛している」
やはり、それしか彼は云えなかった。
「ありがとう……なんて、私はひどい……あなたに、なにもかもを、おしつけて……」
「いいんだ、愛しているんだ、いいんだ」
「ありがとう……きっと、いまだけの言葉……死ねば、私は、途端に、本当の姿に、あの醜い、老人の、姿になって、あなたは、私を永遠に、恨むので、しょうね……サフィリア・トリータ……母がつけてくれる、はずだった、私の、本当の、名前……私は、サフィリア……誰にも、一度も、呼んでもらえなかったけど、私はサフィリアなのよ……」
「サフィリア……サフィリア、サフィリアサフィリア……いくらでも、何度でも、俺が呼ぶから、だからサフィリア、だから……」
だから……なんなのだろう?
いまこの瞬間にも息絶えようとしている恋人に、何が云える?
彼に云える言葉はただ一つ――たった一つの、言葉しかない。
「……愛している――」
「私もよ、私も……クライ……愛している。ああ、クライ……クライクライ――」
ふれあう唇が、言葉を消しても、なお心のうちで彼は囁き続ける。
(……愛している)、
そして――
世界は沈黙した――
*
「嘘をついたね、サフィリア」
もう、あの美はない。
青年王の太陽のごとき美貌も、しなやかな少年の黄昏のような魅惑も、夜の静謐を身に塗りこめた少女の姿も、そこにはなかった。
あるのは、幽鬼のように痩せ細った老人の、骨と皮ばかりの、まるでミイラのような死体ばかりである。
(確かに、お前の美しさはどこにもなくなってしまった。いまのお前は醜い老人かもしれない。けれど)
(やはりこんなにもお前は愛しいではないか)
十年。
十年もの間、サフィリアこの国をたった一人で守り続けてきたのだ。
全ての罪と苦しみを背負って、そのためにこのよう姿へとなってしまったのだ。
なぜそれを厭えよう。
愛することしか、彼にはできない。
(愛している、愛している)
「愛しているんだ……」
彼がいるのは、もはや天空ではなく、暗い塔の一室だった。魔道は解けたのだ。
ひたすらに愛していると繰り返す彼の頭脳の中に、突如異なる思考が割り込んできた。
《新塔主、クライ・ローデンスに告ぐ。民衆は完全な月が光を失ったこと、それに対し王
が何も云わぬことに対し、強い戸惑いを抱いている。早急に幻影を動かし、これを治めよ》
「黙れ……黙れ黙れ黙れ!」
彼は腰に下げていた剣を投げ捨てた。
近衛隊の銀の剣。もはや彼には必要がない。彼はもう近衛隊ではない。
最後のくちづけのとき、彼の口蓋から脳を貫くような衝撃が走った。それは魔道の最後の引き金、愛しき者から与えられた、魔道の力であった。
だから、いまの彼は魔道士。世界を裏から操るもの、そして
「確かに今日からは俺がお前の手先となって、世界に魔道という毒を振りまいてやる。中枢制御隊エフ。それで満足なんだろう、お前と、お前の作った王国をまもってやれば、それで満足なんだろうエフ。いや、初代聖王イル・フェイズ」
中枢制御隊エフ――
それは自らの王国を永遠に守るために、禁じられたはずの魔道とともに、己の精神をシステムと化しめ塔に残した初代聖王、建国の英雄王イル・フェイズであった。
エフの至上目的は一つ。あらゆる手段を用いてでも、神聖イルナー王国を守り抜くこと、ただそれだけである。目的のための最良の手段を、淀みなくエフは選ぶとる。
塔主とは、フェイズの手先となり、エフの出した結論を魔道によって実行する者なのだ。
(こんなくだらないものの為に)
「いいか、エフ、俺はお前の云うことを聞こう。俺にもちうる全ての力を持って、イルナーを守り、フォトキアを滅ぼし、力尽きるその瞬間まで、魔道に身を捧げてやる。だがそれで終わりだ。お前も、魔道も、俺が死ぬときに、全てこの世から葬ってやる。そして俺は《カイラ・グゥンの闇》へと落ちよう。それで全てが終わりだ。わかったな」
《繰り返す。新塔主、クライ・ローデンスに告ぐ。民衆は完全な月が光を失ったこと、それに対し王が何も云わぬことに対し、強い戸惑いを抱いている。早急に幻影を動かし、これを治めよ》
《繰り返す。新塔主、クライ・ローデンスに……》
「黙れ。いますぐにでも貴様の思い通りにしてやる」
幻影を動かす。彼には、その術がわかる。
魔道の呪文を唱え、目の前の魔道石に手を置き、静かに神経を張り詰める。
己の指を動かすように、己の影に向かって神経を伸ばし、影を歩かせる。
彼の眼前に、豪奢な城の情景と、眼下の広場に集い、混乱しどよめく民人たちの姿があった。
彼は影の口を開いた。
「静まれ」
彼がかつて聞いたのと同じ、美しく冴え渡る、玲瓏なあの声。
いまそれを話しているのは、愛しき者ではなく、彼である。
「静まれ。我が民人よ」
「……」
「余は天に見捨てられたのではない。天に認められたのだ。いままで、天は我々を助けてくれていた。汝らに先程まで降り注いでいた完全な月の輝きこそ、我々が天の加護を得ていた証である。だが、完全な月が失われたのは、天に見捨てられたからではなく、天が助けずとも、余の力だけでこの国は守れるであろうと、天が判断したからである。余は天に認められたのだ。余を信じよ。今宵、大祭は終わりを告げる。だがそれは余の治世の終わりではなく、真の始まりを告げるものなのだ。神聖イルナーに栄光はあり。余は余を認めたもうた天に誓おう。余の力尽きるまで、この国に平穏と繁栄をもたらすと」
息を呑む人々に民衆へ向け、彼は高々と云い放った。
「余は王なり。守護者なり。余は神聖イルナー王国第十七代聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータなり」
静まり返っていた聖都は、次の瞬間大祭最大の歓声に包まれた。
天には静かに月が浮かび、星空はそれまでと何一つ変わらぬきらめきで世界を照らした。
イルナー歴三六二年、シアーの月、ハルロードの日。
聖王大祭は終わりを告げた。
イルナー暦三八二年。アネイサーの月。リューザークの日。
「万歳」
「聖王万歳」
「聖王陛下万歳」
「新聖王万歳」
「陛下万歳」
「神聖イルナー王国万歳」
「イルナーと陛下に栄光あれ」
「新王万歳」
今日は戴冠式である。
聖王城内では、新王が大神ローネスの御名のもと、聖なる王冠を授けられ、いままさに彼の臣民へその威容を見せるべく、大広場リクリスの掌に面したバルコニーへと向かっている。
待ちきれない人々は、王が姿を見せる前から、、新たなる主君を迎え入れるようと声を限りに歓声を上げている。
「お召し物の具合はいかがですか陛下」
忠臣、聖王近衛隊長ランドロゥ・バグスティルに、新王はうなづく。
「ああ。見た目よりもずいぶんと軽いものだな。聖王衣というものは」
「ご立派ですぞ、陛下」
老バグスティルは目じりを涙ぐませる。
「バグスティル。なにを泣く。今日は祝いの日であるぞ」
「いえ、近衛隊長の身でありながら、先王陛下がお亡くなりになったというのにおめおめと生き延びてしまっている己の身を幾度も恥じました。私めも陛下に死出の旅路にお供いたそうかと何度思いましたことか」
「馬鹿を云うな。叔父上殿がそのようなことを望むと思うのか」
「そのとおりでございます。死なないでよかったと思っております。陛下のお姿は先王陛下にも並ぶほど勇ましく神々しく、いま私は陛下に仕える喜びを噛み締めております。このうえはこの身朽ち果てるまで、陛下の御為に尽くす所存にございます」
老バグスティルは三十余年のながきにわたり主君を守り続けた愛剣を床に置き、深く叩頭した。王は鬢の薄くなった忠臣の頭上に手をかざすと、微笑んだ。
「お前の忠義、ありがたくいただこう。それでは行ってくる」
「はっ」
そしてバルコニーへと姿をあらわした王は大歓声に包まれた。
まるで聖都中が沸騰しているかのような熱狂の中、新王は極限にまで磨き上げられ日の光を映して輝く銀の剣を鋭く天に向け抜き放ち、高らかに叫ぶ。
「国民よ!」
王が叫んだ瞬間に、興奮に沸き立っていた聖都が、深い森の奥のようにしんと静まり返り、王の剣が空を裂くわずかな音すらが、都中に響き渡るようであった。
「余は神聖イルナー王国第十八代聖王の座を受け継ぎし者、イル・ダグナス・ラズ・ロード。汝らの主にして、守護者となりし者である。いま、余はここに誓おう。余は全身全霊をもってこの国と汝らを守ることを」
静寂から反転し、再び大歓声が、彼らの主君へと向けて放たれる。
誰一人として、祝わぬ者はいない。もはや、平原に不安はないのだ。
熱狂の中、王は宝剣を握った右の腕をゆっくりと下げると、今度は左の腕に握られた杖を高々と天に振り上げた。
新王の言葉を聞き逃すまいと、また聖都は静まり返る。
静寂の中で、ゆっくりと新王は口を開いた。
「我が叔父にして先王、神聖イルナー第十七代聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ」
王がその名を口にすると、広場のいたるところから、押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。
「偉大なお方であった。後を継ぐ余にとっては偉大すぎるほどに偉大であった。およそ三十年、かの方の即位より三十年もの長き間、この国は彼に守られ、平原に広がる多くの戦乱と苦しみから、免れてきた」
戦乱の時代は、終わりを告げていた。
血気盛んな国家の滅亡、相次ぐ戦乱による国力の低下、なにより誰もがおよそ半世紀の長きに渡り続く戦乱の時代に、疲れ果てていた。
それゆえに、戦乱を逃れていたため平原随一の国力、軍事力を有するに至った神聖イルナーが、最終戦争においてただ一度戦場に立ち、フォトキアを滅ぼしリンクラウドを解放すると同時に宣言した全戦争の終結に、首を横に振る国はなかった。
それに、イルナーにわずかでも抗することのできる軍事力を残す国など、平原のどこにもなかったのであるから、首を振ることはできなかったのである。
イルナー暦三八二年、イリークの月。こうして平原より戦争がなくなり、かつての大イルナー共和連合の時代のごとく、平原は神聖イルナーの名の下、平穏の時を迎え入れたのである。
誰もが、時の王、イル・サイナス・ラフォン・トリータを讃えた。
騎士達は王の公正明大にして平和を愛する心を敬い自らの模範とし、詩人達は時を経ようとも変わらぬ王の美しさを歌にし讃え、民衆は永遠に続くかと思われた戦乱の時代を終わらせた王の偉大な慈悲深さを崇めた。
誰もが王を讃えた。王の永遠なる統治を願った。
かの王さえ地上にいれば、二度と戦乱は起こることなく、世界には笑顔があふれ、枯れ果て二度と蘇ることのないはずの《白の草原》すらも、いつの日か王の威光によって蘇るのではないかとすら、人々は思った。
王さえいれば。イル・サイナス王さえこの地上におわしますれば。
だが、戦争の終結よりわずか二ヶ月。
いまより一月ほど昔、偉大なる王、衰えることを知らぬはずの、太陽のごとき輝きを持ったその人は、まるで自分の役目は終わったとでもいうかのように、六度目の聖王大祭を前に突如として病に倒れ、最高峰の医術を尽くした介護の甲斐もなく、嘘のようにあっけなくこの世を去ってしまった。
享年四八歳。この時代の平原の人間としては決して短命とはいえない年齢であったが、平原中の全ての人間が、それこそイルナーとは長き確執の歴史を持つリンクラウドの民ですら、聖王イル・サイナスの早すぎる死を嘆いた。
平原が嘆きに包まれた日より一月、もしイル・サイナスの最期の言葉がなければ、イルナーの人々はいまだ先の見えぬ暗闇の只中にいたかもしれない。
(ダグナスを信じよ。彼は余にもまさる王となろう。余が死すれども、イルナーの日輪は落ちぬ。聖王イル・ダグナスを信じ、余に尽くしたのと同様に、新王に尽くすがよい。彼は必ずや汝らに希望に応えてくれるであろう)
「先王は、余には汝らを導き護る力があるとおおせられた。先王と同様の力があると。残念ながら、余自身は、余ではとてもあの偉大なる方の足元にも及ぶとは思えぬ。だが、もし汝らがわずかでも先王の言葉を信じてくれるというのなら、余はできうるならばそれに応えたい。いまだ守護者として未熟なるこの身なれど、余は汝らを護りたいという想いだけは、偉大なる先王イル・サイナスにも、祖イル・フェイズにも劣らぬものと信じる。余は誓う!」
新王は、左の腕の杖と、右の腕の剣を両方共に高く捧げ持ち、中空にて二つをあわせると、挑むように声高く誓った。
「父より授かりしこの宝剣〈フェイズ・エイルラーン〉と、先王より譲られし宝杖、〈永遠の杖〉にかけて誓う。この身あるかぎり、余は汝らとイルナーのために全てを尽くすと。またもしこの身が砕けようとも、英霊となりてイルナーを護る礎となろう」
(それが、俺がイル・サイナス陛下より預かったこの王座の約束の代価なのだから)
「余は神聖イルナー王国第十八代聖王イル・ダグナス・ラズ・ロード。汝らの守護者である」
「栄光あれ」
「神聖なる王国に、陛下に」
「永遠なれ。陛下の御治世よ永遠なれ」
「万歳」
「聖王陛下万歳」
「聖王万歳」
「神聖イルナー万歳」
熱狂が、リクリスの掌を埋めつくしていた。
新王イル・ダグナスは風を感じながら己が民人たちの声を受け止めていた。
(これでよかったのですか陛下)
(俺が、聖王家とはなんの血のつながりもない、ただの孤児の俺が王となり、これで本当によかったのですか陛下)
イル・ダグナスは、先王の兄、ギルアス・ロードの遺児ということになっている。
だが真実は、彼の出自は親の名も顔も知らぬ市井のみなしごであった。
(二十年前の聖王大祭のあの日、幼子だった俺の前に陛下が現れて)
聖都に、いつになく強い風が吹いている。
民衆の熱狂が風を吹かせているのであろうか。
(王になりたくないか。この国を守る力が欲しくないか。大事な人を守る力が欲しくないか)
欲しい、と言葉の真意も知らずダグナスは答えた。
(ではお前を王にしてやろう。王の力で守り抜いてみるがいい。今日よりお前はダグナス・ロード。ギルアス・ロードの息子、私の甥だ)
(何故、何故なのですか。なぜ聖王家の血も継がぬ私を王に。聖王家の血が途絶えてしまうではありませんか)
(私は子を為せぬ。いずれにしろ、聖王家の血は途絶えるさだめにあるのだ。私は、この国を誰よりも愛し、この国を守る力のある者に王になって欲しい。お前は誰よりもこのイルナーを愛している。いずれふさわしき力も身に付けよう。だから、お前が王なのだ)
イル・ダグナスは瞳を閉じる。
イル・サイナスの真意は、まるで追えば逃げる蜃気楼のように掴み所がなく、最後の最後までダグナスには理解ができなかった。
できないままに、王座についてしまった。
もはや、あともどりはできないのだ。
風が吹いている。
強すぎるくらいだが、興奮して火照った身体には丁度よい。
ダグナスはしばらくの間、黙って瞳を閉じたまま風を感じ、己の名を叫ぶ人々の声に耳を傾けた。
風が吹いている。南へ、南へ。
イル・ダグナス・ラズ・ロードは瞳を開けた。
彼の次なる言葉をいまかと待ち受ける無数の希望の瞳があった。
偉大なる古き王の時代は終わり、新しい時代が、やって来たのだ。
*
風は吹き渡る。
南へ、南へ。
南へ――
聖都エイルナードを抜け、イルナー王国を抜け、南へ、南へ。
広大なるイルナー草原を抜けて、中央に広がる永遠の枯れ果ての地、《白の草原》も抜けて、さらに南へ、南へ。
イルナー草原の、そして平原の中心へ。風は吹き渡る。
はじまりの大樹へと。
「ずいぶんと、約束が遅れてしまったな」
誰にともなく呟くと、彼は自分の仕事の成果をじっくりと眺めた。
サフィリア・トリータ。
大樹の幹には、そう彫られてている。たったいま、彼が彫ったのだ。
「二十年……。二十年も、約束が遅れてしまったな」
のどが潰れたような、ひどくかすれた声しか出ないので、彼は少し恥ずかしいような気もしたが、どうせ自分一人のほかには、ここには誰もいないのだと、苦笑した。
はじまりの大樹。
樹齢三千年とも一万年とも伝えられる、草原の中心に遥か昔から、たった一本だけぽつりと生えている大木である。
地平線の彼方まで続く草原に、ただ一本で大きく枝を広げ悠然と立ち生えるその姿は、まるで世界の中心から人間と自然とを見守っているかのようだ。
この世の初めからここにこうして生えていたのではないかと噂され、いつしか誰ともなくはじまりの大樹と呼ぶようになったという。
「あなたの皮膚に傷をつけるなど、失礼なことをしてしまって、すまないとは思っている。だが、すまないが、もう少しだけ、あなたに傷をつけさせていただきたい」
彼は大樹に向かって丁寧にお辞儀をした。身体が思うように動かぬせいで、よろめいてしまい、大樹に寄りかかるような形で背をつける。
大樹の幹はまるで優しく抱くかのように、彼のからだをやんわりと受け止めた。
「きっとあなたは千年の過去も、千年の未来も、ここでこうやって全てを見守っていくのでしょうね。我々人間の営為など、あなたからしてみれば、ひとときの夢のようなもので、あまりにもあわれで、ちっぽけな……」
震える腕で、また短剣を取り出す。指先がぶれて、うまく定まらない。
だが、これで最後なのだからと、渾身の力を振り絞って、大樹の幹に刃を突きつけた。
「本当に、みじめなくらいに、ちっぽけで……。どうしようもない小さな存在で……でもそんなみじろめなちっぽけな人間だからこそ、せめてこうして永遠を生きるあなたの身体に、自分の名を刻むことを許して欲しい」
サフィリア・トリータ。
その横に、クライ・ローデンス。
二十年間、誰にも呼ばれなかった、それでもたった一つの、彼の本当の名前。
彫りおえると、全身から力が抜けて、彼は大樹に背を預け、地面にずり落ちた。
もう、口を開く気力もない。だから、心の中で、彼はつぶやいた。
(サフィリア……)
(大嘘つきめ……)
(すぐに忘れると……恨むようになると……そう云ったくせに)
(二十年。お前の代わりをして二十年)
(けっして、楽ではなかった)
(戦乱につぐ戦乱……)
(謀略につぐ謀略……)
(いくつもの罪を犯した。何百人も何千人も、魔道によって殺し)
(なのにいつまでたっても平和は訪れず……)
(平穏な時代よりもこの身体が魔道によって朽ち果てるのが早いように思われて)
(だが、私は何とかお前の代わりをしおおせたと思う)
(見てくれサフィリア)
(それと、許されるならディズラッドとフェミナも)
(魔道によって命を失われたすべての人も)
(見てくれ、戦争は終わった)
(魔道も封じた。フェイズ・デルストの塔は崩壊し)
(呪われた聖王イル・フェイズの魂も、ようやく永遠の安らぎについた)
(やっと、終わったんだ)
(全て終わったんだ)
眼が、何も見えなくなった。耳も、なにも聞こえなくなった。
(大嘘つきのサフィリア)
(二十年経っても)
彼は感じた。
風が彼の頬を撫でていく。
まるで彼をいたわるように。
(俺はこんなにもお前を愛しているではないか)
(こんなにもお前を求めてやまないではないか)
風が吹いている。
彼の髪をなびかせている。
(俺はこれから《カイラ・グゥンの闇》へと落ちて)
(永遠の闇の中をさまようだろうけど。お前に会うことはできないだろうけど)
風が吹いている。
彼の涙を優しくすくっていく。
(千年の過去も、千年の未来も、はじまりの大樹があるように)
(千年の過去も、千年の未来も、風がこうして吹くように)
風が吹いている。
彼を包み込んでいる。
(俺の想いもまた、永遠に)
(愛して)
風が吹いている。
もう誰もいない。
はじまりの大樹の葉を揺らすだけ。
風が吹いている――
聖王大祭 完
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阿久我大介は、(うすい)人間である。
終業のベルが鳴る。仕事の終わった人間から、各自PCの電源を落として席を立つ。無償の残業を終えた最後の一人が席を立ち、電気を消す。そこで初めて、その人は気がつく。
「あれえ、阿久我さん、まだ残っていたんですか」
べつに、悪気があって云っているわけではない。その最後の一人は、いつも違う人間なのだ。それでも、全員が口をそろえてそう云う。
「全然気付きませんでした」
そして去って行く。
オフィスには大介一人が残される。
要するに、阿久我大介というのはそういう人間なのだ。
いじめられているわけではない。だれも彼に悪意をぶつけたりなんかしていない。
美男子ではない。しかし不細工でもない。
仕事ができるわけではない。しかし目立ってミスをするわけでもない。
話が出来ないわけではない。しかし話を盛り上げることもない。
貧乏ではない。しかし裕福でもない。
ない。
なにもない。
友人がいない。恋人がいない。趣味もない。家族からの連絡もない。
ないないない。なにもない。
なによりも、存在感がない。
大介は今日もひとり、帰途につき、決して狭くはない1DKのマンションで、自分ひとりのために米を炊き、自分ひとりのために野菜をきざみ、自分ひとりのために鍋を用意する。そして、見るともなしにテレビを見ながら、今日一日、自分が交わした会話を思い出す。
「おはようございます」「はあ」「まあ、そうですね」「そうでしたか?」「では、やっておきます」「それは、おかしいかなあ」「まあまあかなあ」「はあ」「はは」「いや、あんまり」「そうですかねえ」「ああ、はい」「はは」「ではまた」「おつかれさまです」「いえ、そんなことはないですよ」
うん、と大介は一人無表情にうなづく。うん、まあまあか。
大介は表情に乏しい。基本的にいつも無表情である。人と話していても、食事をしても、なにかを考えていても、それが表情に出ることがあまりない。
かといって、能面のような無表情なのかというと、そんなこともない。一応、喜怒哀楽はあるのだ。しかし、どうにも印象に残らない。ひどく喜ぶこともなければひどく悲しむこともない。
ようするに、うすい。
子供のころ、そのうすさをからかわれて、本名をもじってついたあだ名が「ない介」。正確には「アクがない介」。よくも悪くもアクがまったくない彼にぴったりのあだ名だった。
テレビでは、アニメが流れている。子供向けのバトル物だ。
ボーっと見ていると、主人公の父親が、主人公をかばって敵の攻撃を受け、倒れた。それからしばらく、なにやら感動的な会話が続き、登場人物たちはみな泣いていた。その涙の中で、父親は逝った。
いいなあ、と大介は思った。
おれも、ああいう風に死んだとき、みんなに泣かれたい。
大介は、自分が死ぬところを想像してみる。自分の葬式だ。だれが来てくれるだろう。だれが泣いてくれるだろう。
おそらく、同じ課の人間は来てくれないだろう。そういうことには無頓着な会社なのだ。友人……は、いない。学生時代の友人達とは連絡が途切れてしまった。家族は……それは、来てくれるだろう。しかし、泣くだろうか? 母はずいぶんまえに死んだし、残った父とは折が合わない。弟とは仲が良くないし、親戚づきあいもない。
ああ、なるほど、と大介は思った。泣かないな、だれも。だって、そいつらのだれが死んでも、おれは泣かないものな。だれも、おれをわかってくれないものな。そんな奴らのために、泣けないものな。
大介の顔は無表情であったが、心は決してそうではなかった。むしろ、彼の心はいつもさざめきざわめいていた。ただ、それが表に出ないだけなのだ。彼だって、人間なのだ。
どうすれば、みんな泣いてくれるようになるだろう。大介は考える。一応、みんなに迷惑をかけないように気を使っている。細かな気配りだってしている。だから、嫌われてはいない。決して必死ではなかったが、人並みに好かれる努力は、大介だってしているのだ。
けれども、無理だ。これ以上、どうすればいいのか、大介にはわからない。普通のやり方では、彼のうすさは覆せない。彼のために、だれかを泣かせる方法が、わからない。
彼は、とにかく反応が欲しかった。強い強い反応、自分のために沸き起こった、激しい感情を見てみたかった。いままでだれも、彼のために本当の怒りも悲しみも、見せてはくれなかったのだ。
大介の心の動きとはまるで関係がなく、アニメは続いている。さきほど父親を殺した敵を、主人公はなにやら派手な技を使って倒していた。歓声があがった。登場人物たちは全員喜んでいた。これで世界が平和になるとか、もうだれも悲しむことはないとか、やたらおおげさにみんなが喜んでいた。
ああ、いいなあ、とやっぱり大介は思った。死んだだけであんなに喜んでもらえるなんて、うらやましい。
どうして、あのキャラは死んだだけでみんなに喜んでもらえたのだろう、と考える。答えは簡単だった。
悪人だからだ。
いなくなったら世の中が良くなるほどの大悪人だからだ。
すこし考えて、じゃあ、おれでも大悪人になれば、死んだときみんなが笑ってくれるんだろうか、と思う。
なんだかいけそうな気がした。
要は、みんなに憎まれればいいのだ。それは、好かれるよりはひどく簡単そうに思えた。
翌日、大介はいつも通りに仕事をしながら、考えていた。どうすれば、大悪人になれるか。そもそも、大悪人とはなにか。ただの人殺しか。大量に人を殺せば大悪人になれるのか。
いいや、ちがう。それはただの一過性なものだ。憎まれるのはただの行為であって、彼自身ではない。大介が望むのは、もっと自分自身を見てもらうことだった。
地位だ。と思った。地位を築かなければならない。悪人としての地位と実績を築かなければならない。そうしなければ、自身を見てはもらえない。では地位を得るためにはなにが必要だろうか。
金と人脈だ。
昼休み、大介は銀行へ行き、預金残高を確認した。
四百万。
悪事を起こす資金とするには、少ない気がした。しかし、どうやって金を調達すればよいのだろう。
困りながらオフィスに戻ると、となりの席で同僚二人が話をしていた。
「この前、事故っちまって車、全損だよ」
「それじゃあボーナスぶっ飛ぶんじゃないの?」
「いやあ、だからねえ、バァちゃんに泣きついて金出してもらっちった」
「うわ、最悪。よく出してもらえたなあ」
「おれには甘いんだよ、バァちゃん。二つ返事だったな。まあ、ただ修理代出してってのは気まずいから、ぶつけた相手の治療費って云っといたけどさ」
「ぶつけたのガードレールだろう?」
「ま、物は云いようだよ」
なるほど、と大介は納得する。物は云いようか。
大介は仕事を早退して、早速ためしてみることにした。銀行に架空の口座を作り、それだけで準備は終わる。あとは、デタラメな番号に片っ端から電話して、こう云うだけだ。
「あ、おれおれ。いま、大変なんだ。事故っちまって、相手の治療費が必要なんだよ。悪いけど、これから云う口座に百万振り込んでくれないかな。絶対にあとで返すから。口座は……」
一方的に話して、一方的に切る。そううまくいくとは思えなかったが、リスクは少ない。
その日は、百件ほども試してみた。まあ、一件でもうまく行けばいいだろう。そう思いながら、昨晩の残りの鍋をつつき、大介は寝た。
翌日、出勤前に銀行の残高を見て驚いた。桁が一つ増えていた。
のちに、これが「おれおれ詐欺」と呼ばれる社会現象になることを、大介は知らない。
出勤した大介は、その場で辞表を書き、提出した。上司は驚いていたが「こういう時期に困るなあ」というだけで、さして引き止めなかった。それで、大介の覚悟は完全に決まった。
悪人になろう。死んだとき、みんなが笑ってくれるような大悪人に。
さて、決意はしたものの、どうすればよいものか、大介はわからない。大学を出て普通に就職し、その間、悪事に手を染めたことなんてない。どうすればいいのか、まるでわからない。
一人で大悪人になるというのも、なかなか難しいものだ。しかし、ヤクザになるのはまっぴらごめんだった。彼がなりたい悪人というのは、そういうレッテルに守られた存在ではない。どうしたものか。だれか、道案内役が欲しい。どうにかならないかと、深夜の歓楽街をうろついてみた。
ここで、大介の運命は一つの転換を迎えたといっていい。
ニ、三時間ほどもうろついていると、喧嘩に遭遇した。喧嘩、とも云えるものではないかも知れない。なにせ、片方の男が一方的に暴行を加えているだけなのだ。男のやり方には容赦がなかった。アスファルトに倒れた相手の腕を片足で踏みつけ、もう一方の足で徹底的に何度も顔を踏みつけていた。
パトカーのサイレンが鳴って、男は逃げた。大介は男を追いかけた。全力で走りつづけ、男を捕まえたのは、路地裏のゴミ箱を五つばかり蹴飛ばした後だった。
大介は男の肩を叩き、云った。
「あの、部下になってもらえませんかねえ」
この男、名を火鉢という。
界隈では、いわゆる狂犬で通っていた。喧嘩の仕方がへたくそだったからだ。本職のヤクザとはまるで違い、手加減をしらないため、警察に捕まりやすく、しかも自分の身体まで痛めつけるようなやり方だった。
火鉢の血は、名前どおりいつも滾っていた。幼い頃から、いつかなにかしてやろうと思いつづけ、しかし勉強もスポーツもできない彼は、なにをすればいいのかわからずに鬱屈していた。
そんなある日、テレビで岡田以蔵のことを知った。以蔵は有名な幕末の人斬りである。土佐の名士、武智半平太の指示のもと、政敵を斬りつづけ、やがて惨めに死んだ。
これだ、と思った。おれは以蔵になりたいと火鉢は考えた。そんな彼がヤクザのところに出入りし、鉄砲玉になるのは当然のことだと云えた。
19の頃、可愛がってもらっていた本職の男に拳銃を渡され、敵対する組の幹部を殺せと云われた。火鉢ははじめ奮いたち、やがて冷めた。その男が本当に自分が命を捨てるに足りる相手か、不満に思ったのだ。信用しているなら、なぜ杯をくれようとしないのか。火鉢は疑い、結局、その地から逃げ出した。
それからは、流れ流されの日々である。あちらこちらで喧嘩に明け暮れ、組の世話になっては、杯をもらえず、鉄砲玉にされ、いつも逃げ出した。
逃げるとき、火鉢はいつも思う。あれは我が武智、我が竜馬ではない、と。
要するに、火鉢は生き汚い男であったのだ。命を捨てるほどに自分を追い詰め、それを望み楽しんではいたが、命を捨てる気はまるでなかった。まわりの人間はそれを見抜き彼を信用しなかったのだ。本人だけが、それに気付かなかった。
その、火鉢に声をかける人間がいた。それも、よりによって部下にならないか、と。
「なんだ、あんた。おれは見てのとおり、こういうことしか出来ねえぞ」
血で汚れた全身を見せつけ、脅してみたが、その男は表情をほとんど変えず「ええ、まあ」とわずかにうなずいた。
「だからこそ、部下になって欲しいというか、まあ、そういうことです」
「あんた、○○組か? それとも××組か?」
この地域にいるヤクザなら、その二組のどちらかのはずである。が、男は「いやあ」と相変わらず無表情。
「まあ、一匹狼、とでもいいますかね」
「じゃあどこともつながってないとでもいうのか?」
「ええ、まあ、これから始めようってところですから。で、そのためにあなたの力を借りられたらなあ、と。すでに、どこかの組に所属してるんですか?」
「いいや、べつに」
「じゃあ、私の部下になってください。とりあえず、一ヶ月だけでも」
こいつ、バカだな、と思った。こんな勧誘の仕方があるものか。新聞販売だってもっとうまくやる。バカにしながらも、火鉢はとりあえず聞いてみた。
「で、いくら出すんだい?」
「えーと、まあ、とりあえず、一千万円くらいでどうですか」
大介に深い考えはなかった。なにせ相場がわからないから、とりあえず、出せるだけ云ってみた。どうせあぶく銭だから惜しくはなかった。
ところが、火鉢はこれに感動した。
一千万。自分の命にそんな値段をつけてくれた男は、いままでいなかった。
とりあえず、話を聞こうということになり、二人は地下のバーで飲むことになった。
「で、おれが部下になるとして、あんたはおれになにをさせるつもりなんだい?」
「まあ、そうですねえ。とりあえず、お金をもうけたいんですよ、私は。で、それでですね、やっぱりそうなると薬とか売ると、いいんじゃないかな、と思いまして。なんとかなりませんかね。とりあえず、そういうの売っている人とかに会いたいんですが」
「売人なら、マスターにでも聞けよ」
「マスター、知ってますか」
大介はバカ正直にマスターに聞いた。
マスターは答えた。
「ああ、そこにいますよ、カウンターの端です」
幸運にも、店内には彼ら二人とその売人とマスターしかいなかった。
大介は持ち歩いていたボストンバッグを開けて、中から一万円を百枚ずつ束ねたもの、いわゆるズクを十束、カウンターの上に置いて、火鉢に云った。
「じゃあ、とりあえずこれで、あの人をひどい目に合わせてください」
普通なら、ふざけるなで終わるはずだったが、火鉢は違った。
感動した。
死んでこいとも殺してこいとも言われずに、ひどい目に合わせて来いと命令された。しかも、その値に一千万円もつけて。そんなのは初めてだった。
火鉢は云われたとおりにした。そのくたびれた中年の売人に近づき、なにも云わずにぶん殴った。倒れたところを、蹴って蹴って蹴りまくり、時々、襟首をつかまえて持ち上げまた殴った。拳がジンジンと痛む。骨が折れる。それでも火鉢は殴るのをやめなかった。雇い主の大介が止めなかったからだ。
いつも、だれかに止められた。その程度にしておけと云われた。馬鹿はほどほどにしろと云われた。火鉢はいつも不満だった。もっと思う存分やりたかった。だが、自分で望んでやる度胸は火鉢にはなかった。彼は犬だった。命令されていないことはできないのだ。大介は止めず、ただ冷淡な目で事態を静観している。自分の気持ちが伝わっているのだと思った。
その大介はというと、事態がよくわかっていなかった。
とりあえず、痛めつけてクスリのルートでも教えてもらおうという短絡思考で頼んだだけで、深い思惑などなかった。暴力と関わりのない人生を送ってきた彼には、どの程度が適量なのかわからず、とりあえず専門家である火鉢に任せていたに過ぎない。
火鉢を止めることにしたのも、マスターに「あれ以上やったら本当に死んでしまいますよ」と云われたからに過ぎない。
ところが、そのタイミングがまた、火鉢がやめ所を失い困っていたところで、ちょうどよかった。「もうその程度でいいでしょう」と大介が云ったとき、思い込みの激しい火鉢は、彼こそ我が竜馬であるとまで思い込んでしまった。
以後、火鉢は大介の犬となる。
ところでこの店のマスター。
逃亡者である。
以前、九州のほうで大きな組の専属で売人をしていたのだが、女絡みのことでどうしても金が必要になり、もてるだけ品物をもって、逃げてきていた。が、そのせいで表に出ることが出来ないでいる。
マスターは欲望の強い男であった。
金も欲しい、女も欲しい、権力も欲しい。だが命が惜しい。
自分が表に出れば、確実に命を狙われる。先ほどかれが大介に売人だと耳打ちした男は、かれを見張っていた男だった。要するに、大介たちを利用して邪魔者を排除したわけだ。
はじめは、それだけのつもりだった。しかし、火鉢の並外れた凶暴性と、それを飼いならしているらしい大介に興味を持った。ありていに云うと、もっと利用できると思った。
「クスリなら、いいルートがありますよ」
大介にそう耳打ちしたのも、そのためである。
「実はね、捌くに裁けない代物をもって、困っている知り合いにいるんですよ」
無論、マスター本人のことである。
「よければ、横流ししますよ」
「それは、いいですね」
「よければ今から案内しますよ」
「ああ、いいですね」
そのまま、三人は連れだって店を出て、品物を隠してある倉庫に向かった。
「欲しいのはクサですかね。コナですかね。見たところ、やったことないでしょう? Lはあまり薦められませんよ」
「ああ、いや、べつに私がするつもりはないから」
「では、なんのために?」
「ええまあ、その人に部下になってもらおうと思いまして」
「部下にしてどうするんです」
「とりあえず、○○組と××組? でしたっけ? その二つの組のシェアを奪おうかなあ、と考えてます」
けろりとした顔で答える大介に、マスターはうすら寒さをおぼえた。こいつ、もしかしたら大物かもしれない。
倉庫の中には、なかなかにたいした量の品物が隠してあった。
「これ、全部買うといくらぐらいが妥当ですかねえ」
「一億ですな」
正当な価格だ。しかし、今は一銭にもならない。マスターは歯がゆくてならなかった。一億とまではいかず、半分でもいいから手にしたかった。
「じゃあ、私がこれを売りますから、収入は七対三で分けないかと伝えてください」
「七対三? それでは、あなたの取り分が多すぎますな」
「そうですか? じゃあ八対二でもいいですよ。そちらが八で私が二」
あ、とマスターは気付く。こいつ、はじめから自分のほうの取り分を少なく言っていたのか。普通は逆なのに。妙なやつだ。
「それで、どう売るつもりなんですか?」
「まあ、地道にほそぼそとかなあ。訪問販売みたいな感じですかねえ」
なんとも胡散臭い話だった。富山の置き薬ではあるまいし、クスリの訪問販売など、聞いたこともない。しかし、実際のところ、マスターは切羽詰っていた。金が必要だったのだ。なるべく早く。金になるならなんでもよかった。
結局、マスターは話を呑んだ。
さて、この一億円分の商品だが、大介は一週間で売りつくした。
驚いたのはマスターだ。どうやって売ったというのか。もちろん大介を問い詰めたのだが、
「だから、訪問販売だってば」
と、あからさまな嘘をつくばかりで、教えてはくれない。
ところが、実は大介はなにひとつ嘘なんかついていない。かれは本当に、訪問販売をしてきたのだ。
かれが選んだのは、大学だった。なに食わぬ顔でキャンパスに入っていき、適当なサークルを訪ね「悪い薬はいりませんか」とストレートに宣伝したのだ。
もちろん、だれもが馬鹿にし、信じなかった。だから、だれも警察に通報しなかったし、大事にはならなかった。それでいて、信じていないくせに、わりと多くの人間が「じゃあ一回分だけ」と買ってくれた。大学生というのはそれなりに金を持っているし、集団となると勢いがつく。一回分ならたいした額ではないし、話の種にと買ってくれるのだ。
連日各地の大学を回りつづけ、気が付けば、売り尽くしていた。うそみたいな本当の話である。大介の容貌にアクが弱く、とうていクスリを打って歩く人間に見えないのも人々の警戒を薄める役に立った。
この件でマスターは確信した。
この男は、利用できる。なにをかんがえているのかはいまいちわからないが、もっと利用し、しゃぶりつくしてやろう。表に立てぬ自分の代わりにこの阿久我大介を立てて、大きな稼ぎをしてやろうじゃないか。
「いい儲け話があるんですがね、阿久我さん」
金を渡しに来た大介にそう持ちかけたのはそういった目論見からだった。
「うちに来てください。相談したいことがありますから。損はさせません」
大介はマスターに誘われるままに、かれの家に招かれることにした。
マスターの家は、郊外にある安マンションで、部屋の中には女が一人いた。
この女、前述したマスターが九州を出るハメになった原因を作った女である。
名前は慧子。
ものすごい美人である。
しかし、その美貌は非常に水の臭いのする性質のもので、要するにずぶずぶにただれた人生を容易に連想させる容貌だった。
実際、慧子の人生はまともなものじゃない。
慧子にはより強い男を求める性質があった。
より欲望の強い男。より権力の強い男。より金を持っている男。どんなに手に入れてももっともっとと求める。
はじめは地元の暴走族のヘッドで男を知り、すぐに地元の組の若頭に鞍替えをし、次にはその若頭と敵対する組の組長の情婦になった。
その組長のもとによく出入りし、さまざまな商売をしていたのがマスターである。マスターは慧子に一目で惚れた。
で、より若くより野心の強いマスターにあっけなく鞍替えした慧子は、彼についてきたわけだが、今となってはうんざりしていた。
(今のあの人ったら、お金もちっともないし、あのハゲの追っ手におびえてびくびくしちゃって、ちっともセクシーじゃないし。部屋に閉じこもってじっとしてろなんて、冗談じゃない)
そうして柄に合わず部屋にとじこめられて鬱屈していたときに、マスターが部屋に連れてきたのが大介と火鉢だった。
もちろん、すぐに品定めした。はじめは、火鉢を注目した。火鉢も慧子の美貌に目を見張り、好色の目を向けた。火鉢は小柄だが、なかなかに野性的で、情熱的に見える。そこは悪くない。が、慧子の食指は動かなかった。、金と権力のにおいがしない。すぐにダメだと見放した。
次に、阿久我大介を観察した。
わからなかった。
なんともつかみ所がなかった。彼女の顔を見ても無反応。彼女が思わせぶりに視線を投げても無表情。彼女がなにを話しかけても「はぁ、まあ」ばかりで反応が薄い。薄いといえば、何度顔を見てもちがう人間に見える。いったい、この阿久我大介という男はなんなのか。今まで見てきたどんな男とも違う。
それも、そのはずだろう。こういう鬱屈された限定状況でしか、彼女のような派手な人間は、大介のように地味の極地のいる人間を認識したりしない。
マスターと大介は慧子をそっちのけで何か計画を話していた。
「これはあるルートで手に入れたメールアドレスと電話番号だ。一万件はある」
「はぁ、これが、なにか?」
「こいつらから、金を取ろうと思いまして」
「はあ、どうやって」
「例えば、出会い系の広告を送る。無料期間とかで釣って、ものたりない気持ちにさせて、ポイントを安く売る。ところがポイントを買った時点で入会したことになって、高額の入会金を後払いしなければならない、と。どうですか」
「うーん、でも、勝手に入会させたら、あからさまな詐欺じゃないですかねえ」
「細かい字をみっちり書いたメールの片隅に、小さく書いとけばいいでしょう。一応明記してあれば、詐欺じゃありませんな」
「うーん、怪しいなぁ。それに、女性会員はどうするんです」
「サクラでいいでしょう。アルバイトでも雇って」
「はあ、なるほど、しかし、面倒ですね。人件費もかさみますし。うまいサクラ、見つかりますかねえ」
「見つければいいでしょう。なんだったら、私がやりますかね」
「いやあ、それはどうでしょうねえ。うまくいきますかねえ、そんなので。それに、下手したら詐欺で警察に捕まりますし、リスクも高いですねえ。もっと簡単に済ませられませんかねえ」
「簡単にって、どうやってですかな」
「はあ、そうですね、いきなり請求だけしてしまえばどうですか? 出会い系のものですが未払いがあります、とでも云って。全員が払ってくれるとは思いませんが、まあ十人に一人払ってくれれば十分な儲けですし、そうですね、一人一万円ちょっとくらいだったら、千人が払えば一千万ですからね」
「……そんなので、うまくいくとは思えませんな」
「しかし、リスクは低いですよ。ダメ元でやってみれば、いいんじゃないかなあ」
たしかに、リスクは少ない。
「では、やるだけやってみますかね」
マスターは大介の言葉に従って、リストの全員に一万五千円ずつ請求した。
成功率は、セリーグの首位打率よりも高かった。
架空請求のはじまりである。
大介と出会ってから、マスターの金回りはよくなった。
郊外の安マンションは都心の高級マンションに変わり、高級ブランド品や宝石類を慧子のもとへ持ってくるようになった。
そのあまりにも急激な変化を、慧子は大介の力だと思った。
マスターも、利用するためではあったが、大介に従う形をとっていた。大介の傍らには、いつも以蔵気取りの火鉢が、どこからか手に入れてきた模造刀を片手に控えている。
部屋の中にいる三人の男。おかしなことに、ボスはなにを考えているかわからぬ冴えない男だった。マスターが家を空けたとき、慧子が大介の寝床に入り込んだのは、力ある男を求める彼女としては、自然な成り行きである。
大介は非常に情熱的ではない抱き方をした。ひどく義務的に、きまりきまった役所仕事をこなすように、事務的に抱いた。
実のところ、大介は女を抱くのは初めてだった。かれはうすい人間であったから、当然もてなかった。慧子を抱くときも、ひどく焦り、困惑していたのだが、それが顔には出なかっただけだ。
結果、慧子はひどい苛立ちを覚えた。彼女を抱いて喜ばなかった男はいない。しかし、大介はことの最中もひどく冷めた目をしていたし、なにか、抱かれていてもこの場にいないんじゃないかという存在の希薄さがあった。ことのおわったあと、思わず「ねえ、よかった?」なんて馬鹿なことをたずねたときも、大介は「うん、まあ。そうだね」とちっとも心のこもっていない言葉を云うだけだった。
大介とマスターのビジネスは続いた。
ちょうどその頃、警察は麻薬の取り締まりの強化をはじめた。
原因は、大介が大学で売り歩いた分である。あれがきっかけで、麻薬の不法所持で捕まる若者が増えた。奇妙なクスリの訪問販売者の存在はすぐに知られたが、まさか阿久我大介と結びつける人間はなく、売りに来た人間の顔は、みな口をそろえて「よくわからない。印象のうすい顔だったから」としか云わない。
これらの件を、警察は○○組と××組の仕業と断定した。この一帯でそういった商売をできるのは本来彼らだけなのだから、当然の結論といえた。警察の捜査により、彼らの売買ルートはいくつも潰され、職を失った売人や、クスリを求める顧客が宙に浮く形になり、売買ルートもいくつか隙間が出来た。
そのスキマを逃さなかったのが、マスターである。
早速、稼いだ金の力でそれらの売人やルートを掌握、警察にも他の組にも内密に、独自の売買ルートを築き上げてしまった。さらに、街のチンピラたちを集めて、ほかの仕事にまで精を出した。そういった勧誘の際、
「阿久我さんが、いまに大きなことをやらかすぞ。だからついてくるといいことがあるぞ」
これが、マスターの口癖だった。実際は、自分がやるつもりだったが、阿久我大介の名前を必要以上に喧伝し、危険を大介に負わせる心積もりだったのだ。
マスターの情報操作はあざやかなもので、度重なる宣伝の結果、実際に会ったことのないやつらの間で、阿久我大介の名声は不自然なほどに高まっていった。
こうして、大介の預かり知らぬところで「阿久我党」とでもいうべき集団が結成されていった。警察の捜査はクスリ以外の密売全般に及び、○○組と××組の勢力は次第に縮小されていったのだが、この二つの組は、当然、阿久我大介たちの存在など知る由もない。自分達を窮地に立たせているのは相手の組だとお互いに思い込み、敵対はより深まっていった。
阿久我党の前に、大介は滅多に姿をあらわさなかった。代わりに、火鉢がよくかれらの間を回って、阿久我大介の素晴らしさを説いた。
曰く
「阿久我のアニキはタダ者じゃねえ。いまにでかいことをやらかす」
曰く、
「アニキは力のある奴にはちゃんとそれだけの金をくれる」
曰く、
「アニキに逆らう奴は、おれがぶっ殺す」
事実、たまに少しでも自分の言葉に異を唱えるものがいれば、火鉢はなんの容赦もなく手にした模造刀で滅多打ちにした。斬れないとはいえ、金属の塊である。やられた方は文字通り半殺しの目にあった。
ある日、その半殺しの現場に大介がひょっこりとあらわれた。阿久我党の人間は大介を見るのは初めてだった。大介は模造刀を手に暴れている火鉢を見ると、表情を変えずに近づき、ひょいと火鉢の手から模造刀をとりあげて、火鉢の頭を無造作に叩いて、こう云った。
「やりすぎでしょう」
まわりの人間は青ざめたが、火鉢は頭から血を噴出しながら平伏して
「すいやせんでしたアニキ」
となったのだから、まわりは驚いた。ついさっきまで火鉢の凶暴性を目の当たりにしていたのだから当然だ。そして、驚きは大介に対する畏怖へと変わった。
大介にしてみれば、どうやら火鉢は雇い主である自分には逆らわないらしいと思っていたし、模造刀なんて斬れないのだから問題ないと思って、思いっきり叩いたに過ぎない。要するに、無知だったからできたことである。
一方、火鉢は火鉢で、頭がクラクラ、視界は真っ暗と真っ赤なのをくり返しながら、大介に惚れ直していた。ひどく痛くて気を失わない。アニキはおれが望むだけの力で叩いてくれる。やっぱりアニキはおれをわかってくれている。
要するに、火鉢はマゾであった。マゾだから、生き汚いのである。苦しみたいが、死ぬ気はまったくないのだ。
大介はそのまま去ってしまったが、大介のカリスマ性にはより神秘性がついた。火鉢を叩きのめしたことはもちろん、あれだけのことをしたのに、まるで幽霊のように顔が思い出せないのが不気味でならないと怖がられ、畏れられた。どうやら本当にただものではないらしいという噂が、この一件で流れはじめた。
さて、そんなこんなで大介たちがビジネスに明け暮れている間に、半年が過ぎた。
○○組と××組の緊張状態は限界を迎えていた。もともとが微妙な均衡でシマ争いをしていただけに、麻薬取り締まり強化の一件をきっかけに、ささいな食い違いとトラブルが頻発し、お互いがどちらかを潰すまでは止まらない、そんな気分にまでなっていた。抗争が避けられないのは素人目にも明らかだった。
マル暴の刑事、厳蔵がこの成り行きの発端に疑問をもったのが、その頃である。
本名、鬼瓦厳蔵。通称、鬼のゴンゾウ。四十をいくつか過ぎていまだヒラのこの刑事、はっきり云って、たいていのヤクザよりはヤクザらしいと恐れられている存在である。
厳蔵はそもそも大学の校舎でクスリを売りさばくという、非常識でもあれば、あまりかしこくもないやり方に疑問をもっていた。
クスリというのは、広く浅く売るよりも、固定客が大切である。一度買ってしまえば、すぐに我慢できなくなって二度、三度になる。そうなったらしめたもので、あとは身代をつぶすまでむしりとることができる。
しかし、例の訪問販売は各地に一度しか現れなかった。それでは固定客がつきにくい。次にいつどこで買えばいいのかわからないからだ。商売に馴れた○○組や××組がそんな手段をとるとはとうてい信じられなかった。
厳蔵は街中で執拗な聞き込み捜査を行った。
聞き込み、といえば聞こえはいいが、なんのことはない、ちょっとでも悪そうなやつを見つけては、路地裏につれこんで殴り倒したのである。そして、散々いたぶってから、
「最近、えらい調子に乗っているんじゃねえか、てめえのボスはよ」
と聞いたのである。
たいていのやつらは、○○組や××組のつかいっぱしりや、その下の暴走族のガキどもだったが、何人かに一人は、奇妙な名前を口にした。
「おめえなんか、阿久我さんにかかれば……」
「阿久我さんは関係ねえ」
「大介は調子に乗ってなんかねえ」
阿久我大介。どうやらそんなダニが、いつの間にか街に巣食っていたらしい。
行動力に長けた厳蔵が、大介の家を訪れたのは、それからすぐである。
「おまえが阿久我大介か」
「はあ、まあ、そうです」
「ずいぶんと荒稼ぎしているそうだな」
「はあ。いや、そんなこともないですが」
「しらばっくれるな。クスリの売買、不法な風俗店の経営、銃器の密輸入、やりたい放題だったらしいな」
「はあ、そうなんですか」
「おとなしそうな顔をして、とんでもない野郎だ。だがもうおしまいだ。この家、調べさせてもらうぞ」
厳蔵は礼状もとらずに、一方的に大介の家を調べた。徹底的に調べた。
なにも見つからなかった。
当然だ。すべては大介の名を使ってマスターが勝手にやっていることで、大介は感づいてはいたが、自分の悪名が高まるなら良いことだと放置していただけで、実際はなにひとつ関与していない。ただ、時々相談を受けては指示を出し、当初の規定どおりの二割の報酬を受け取るだけだ。
頭に来たのは厳蔵だ。絶対にとっ捕まえてやろうと息巻いてきたというのに、なにひとつ見つからない。これでは鬼の厳蔵の名がすたる。
「ゆるさねえぞ。貴様は絶対に逃がさん。いいか、絶対に尻尾をつかまえてやるからな。首を洗って待っていろ」
それから、厳蔵は執拗に大介を追いかけまわすことになった。
しかし、金儲けをするのはマスター、喧嘩をするのは火鉢で、大介を捕まえる口実はいっさい見つからなかった。他の二人はいつでも捕まえられたが、上にいる大介を捕まえなけりゃあ意味がない。厳蔵は二人を泳がせ、あるはずもない大介の尻尾を探しつづけた。
そんな最中、ついに○○組と××組の間で抗争が起きた。
まさに血で血を洗うを地でいったこの抗争は、両組の構成員の二割が死亡、五割が検挙され、両方の組長、若頭、幹部のほとんどが死亡、あるいは再起不能となるという大惨事になった。
残された三割のものたちは、途方にくれた。命令をする人間がいなくなってしまったのだから、しょうがない。
待ってましたと行動を開始したのはマスターだ。
「阿久我さんのところに来れば、悪いようにはしませんよ」
弱りきった組員達を、片っ端から口説いて回った。阿久我大介の名がこの街の裏社会に明確に知れ渡ったのはこの時期である。
阿久我党は、一気に数倍の規模に膨れあがった。
マスターは浮かれて提案した。
「金はある。兵隊もいる。敵は弱っている。今なら残党どもをつぶして、この街をモノに出来ますな、阿久我さん」
あっけらかんと大介は答えを出す。
「じゃあ、やりましょうか」
とんとん拍子で話は進んで、あっという間もなく市は大介のシマになった。
大介のやりかたには、人道も仁義もなかった。
「建物に閉じこもっています」
「じゃあ、爆弾でもしかけて来ればいいんじゃないかな」
「あの刑事がうるさいです。やばいですよ」
「じゃあ、娘と奥さんでも誘拐すればいいかなあ」
「中国人グループが邪魔を」
「市内の中国人を全員痛めつけてみればいいだろうね」
「××組の幹部の生き残りが明日にも仮釈放され」
「刑務所の外に鉄砲玉をありったけ用意しとけばどうかねえ」
もちろん、部下は捕まる、人死には出る、金は飛ぶ、大変な騒ぎになったが、長年事務仕事をやってきた大介は、すべてを事務的に効率を求めて片付けていった。
「阿久我さんは、なにか目的があるのですか?」
あまりにも過激なやり方ばかりをする大介に、質問をしてくる部下もいた。
「はぁ、まあ、それなりに」
まさか、死んだときみんなに笑われたい、などとは云えない。適当に笑って誤魔化すしかない。そのうすら笑いを見た部下たちは、大介への畏怖をより強めた。
どんな事態でも茫洋とした顔と歯切れの悪い言葉ですませ、決して笑わず泣かず、なにを考えているのかまるでわからず、影がうすいからどこでなにをしているのかもまるでわからぬ大介は、まるで魔物のように思われ始めていた。
「名前のとおりだ。アニキは『悪が大好き』なんだよ」
火鉢は笑って部下に云う。火鉢の顔は度重なる喧嘩と抗争で、歯がほとんど抜け落ち、鼻がつぶれ、耳が片方なくなってずいぶんとおかしなことになっていたから、余計に狂犬ぶりにみがきがかかっていた。
大介は忙しかった。昼はあちらこちらへ飛び回り、指示をださねばならなかったし、マスターとのビジネスの打ち合わせもあった。夜になれば、慧子を奪われることを恐れたマスターが連れてくる女の相手をしなければならなかったし、マスターが連れてこないときには火鉢が気をきかせて連れてくるし、それもないときはここぞとばかりに慧子が寝床にもぐりこんできた。
まったく大介は忙しかった。気が付けば二年がたちまち経っていた。
街の裏社会は、すっかり大介のものになっていた。阿久我大介の名を出せば、街のだれもが反応を示した。
「ありゃあ、とんでもない奴だよ。逆らわないほうが賢明だよ」
だれもがそう云った。
それでいて、大介がどんな人間か知っているのかというと、
「顔も知らない。だから怖い」
ということになる。
不思議なもので、真面目に生きていたときにはなんの役にも立たなかった彼の存在感のなさ、情のうすさ、事務的過ぎる態度は、すべてカリスマ性となり、街を統率させていった。気が付けば、街は○○組と××組が対立していた頃より、ずっと平和で秩序ある悪徳の街になっていたのだった。
さて、大介が当初の望みどおりに死んだのは、そんな頃である。
大介は自室でテレビを見ていた。流れていたのはニュースだった。頻発するおれおれ詐欺問題についてやっていた。
大介は「おや」と思った。
なんだ、これ、自分がはじめにやった詐欺じゃないか。いつの間にか全国的に広がっていたのだ。まったく、物事はどこでどう広がっていくかわからないものだ。
懐かしさにうすく笑っていると、昨夜、部屋に泊まっていった慧子に、後ろから刺されて、阿久我大介は死んだ。
それからは、大騒ぎである。
まず、慧子が泣いた。
「だって、だってあなたこうでもしないと私のものになってくれないじゃないのよぉ」
慧子はなかなか自分に惚れてはくれない大介を追っかけまわしているうちに、いつしか本気になっていた。何度抱かれても、なにをしても、ちっとも大介が自分のものになった気がしなかった。だから、殺すしかないとまで思いつめてしまったのだ。
血を流しつづける大介のからだに突っ伏して、慧子は泣きつづけた。
知らせを聞いたマスターは、笑った。
「死んだ? 死んだだって? よし、これでこのコネクションは全部おれのものだ」
いままで、じっと耐えてきた。陰にかくれて、この時を待っていた。これだけの力と金があれば、もうこそこそ隠れて生きる必要はない。これからは自分がトップだ。
おかしくて嬉しくて、マスターは笑いつづけた。
馬鹿みたいに笑いつづけて、それから呆然とした。
おれ一人で、こんなでかくなっちまった組織、まとめられるわけないじゃないか。
大介を追っていた刑事、鬼瓦厳蔵はというと、怒った。拳を振り回して大介事務所に殴りこんできた。
「バカヤロウが! てめえはおれが、このおれがとっ捕まえてやるんだって、あれほど云ったろうが。それをなんだ、情婦に刺されて死んだだと? クズにふさわしい死に方じゃねえか。ふざけるんじゃねえぞ。おれが、何のために何年もずっとてめえだけをおいかけてきたと思っていやがるんだ、おい、阿久我よう、阿久我よう、てめえ、ホントに死んじまったのかよう」
厳蔵は事務所で暴れまわり、駆けつけた同業者に連れられて、帰っていった。
しかし、もっともはなはだしかったのは火鉢である。
火鉢は最初、笑った。知らせに来た部下を模造刀で殴りつけ、阿呆になったみたいに笑った
「死んだ? なに云ってやがる。アニキが死ぬわけねえじゃねえか。おれがこうして生きてるのに、アニキが死ぬわけねえじゃねえか」
次に、激怒した。大介の死体を見て、模造刀は振りあげ、死体に叩きつけようとして、まわりに止められた。
「冗談だろ。なあ、おい、アニキ。いくらアニキでも許さねえぞ。勝手に死ぬなんて許さねえぞ」
それから、泣いた。泣きながら、自分の頭を模造刀で何度もなぐりつけ、血をだらだら流しながら泣きじゃくった。
「おれ、やだよ。アニキがいないなんてやだよ。そんなのやだよ。やだよアニキ」
それから長いこと、ずっと「やだよ」とくり返しつづけた。
困ったのは、これらを見ていた大介の霊だった。
おかしいな。みんなが笑ってくれるはずなのに、泣いたり怒ったり笑ったり呆然としたり、こんなはずじゃないのに、困ったな。おれは、ろくなことをしてこなかったはずなのに、こんなのおかしい。みんな、おれを利用しようとして、おれから金や地位を得ようとして、それだけで近くにいたはずじゃないか。こんなのおかしいぞ。
困惑して、考えて、ようやく、当たり前の結論にたどり着いた。
ああ、なんだ。人の気持ちをわかってなかったのは、自分の方だったわけだ。
理解して、嬉しくなった。
それで阿久我大介は昇天したのである。
終わり
彼女を拾ったのは、冬の終わりが近づく夜のことであった。
その頃、私は孤独を求めて夜をさまよっていた。
――と、いうと格好よくも聞こえるだろうが、実体は家人がうるさくて、家にいるのが少々重たくなっていたのだ。しかし家を出れば、ろくに友人もいない私などに行き場があるはずもなく、夜をさまようより他になかったのである。
車やバイクの一つもあれば、夜のドライブと格好もつこうものだが、実際の私は免許の一つも持っておらず、情けなくも自転車ででかけるより仕方なく、だから結局たどり着く場所も、家からさして離れていない、郊外の一角に過ぎなかったのだが、それでも家を出るといくばくか気分は晴れ、人通りの少ない夜の国道は、私を満足させたものだった。
夜更けに家を抜けだして、日によって思い思いの方向へ自転車を走らせ、疲れたら、目に止まったなるべく人のいないファミリーレストランの端の席で、サラダなどをつつきながら、なにかつまらぬことでも考えつつ夜明けまで窓の外の植え込みでも眺めているのが、私の家出の常だった。
だから、その日の私の行動も同じようなものであった。夕食を作りながらわけのわからぬ歌を口ずさむ家人に嫌気がさし、ひっそりと家を抜けだすと、なにも考えずに南のほうへ自転車を走らせ、へとへとになるまでペダルを漕ぎつづけて、隣の市にたどり着いた
隣の市は東京のベッドタウンとして有名な場所であり、駅前はなかなかに栄えていたが、それ以外の場所は建造物の密度に反して過剰といえるほどにうら淋しく、そこが私の気に入った。従業員の一人しか見当たらぬファミリーレストランは、学生達もなりをひそめる平日の真夜中、私を待っているようにすら思え、自然、私はその普段行き着けぬあまり有名でないチェーン店の中へと足を運んだ。
ポテトとサラダだけを頼み、どれほどの時間、ぼんやりとしていたことだろうか。二時間か、三時間か。ポテトは冷えると脂が固まりとても食えたものではなくなったが、サラダはなかなかにうまかったことを記憶している。要するに、いつも通り、なにもせずにぼんやりしていたのだ。
やがて夜が白みはじめ、寂寥感と共に窓の外を見やると、そこに彼女を見つけた。彼女は植え込みの間に座りこみ、葉についた朝露をすくいとってはせっせと顔を洗っていたのだ。それを見た私は、いけない、と思った。早く帰らねば。猫が顔を洗うと、雨が降るというではないか。
さよう、彼女は猫である。
いまにして思うに、あるいは猫ではなかったのかもしれない。猫にしては多少おかしな行動が目立ったし、猫であるのかどうか、しっかりと確かめたわけでもないのだ。が、少なくとも表面上は猫であったし、私には猫に見えたのである。
また、彼女、とはいっても、私は彼女が雄であったのか雌であったのか、ついぞ知ることはなかった。私にとっては、猫という種族はすべて女に見えるのである。
彼女を見つけた私は、帰途につくため席を立ちあがった。その時、食べ残しのポテトとサラダを紙ナプキンに包んで持った。せっかくだから彼女に食べさせようと思ったのだ。
会計を済ませて外に出、植え込みに近づく。彼女は顔を洗うのにも飽きたのか、短いしっぽをブロックに叩きつけて、ぐったりとしていた。私は、食べ残しを持ってはきたが、どうせあげることはできないであろうと思っていた。猫にはよく逃げられるのだ。期待してはいけない。
しかし、予想に反して彼女は逃げなかった。私が近づくと耳をピクリと動かし、うろんそうな瞳で私を見上げたが、けだるそうにそのままだらりと寝転がっていた。まるで、逃げるほどの価値も私にはないというように。
私は彼女の前に紙ナプキンを広げた。彼女はその中を覗きこむと、鼻をつっこみ、サラダの上に乗っかったタコのマリネをくわえこんだ。うまそうにそれを咀嚼し、食べ終わると残りのものには見向きもしなかった。なんと贅沢な猫であろう。私はなかば驚き、なかば憤慨した。
彼女の模様はへんてこなものであった。さまざまな血が混じった雑種なのであろう、背中の毛は白く、足の先と腹側の毛は黒かった。額のところに、まるで公家の眉毛のようにまるい茶色のぶちが、ぽつんと二つだけあるのがおかしかった。
飼い猫ではないようだった。首輪をしていなかった。それだけでなく、首のうしろに、喧嘩でついたものだろうか、おおきな傷口があり、かさぶたの剥がれたあとが生々しく開いている。まともな飼い主がいるならば、こんなおおきな傷を放ってはおかないであろう。
あわれに思った私は、彼女を連れてかえることにした。暴れるかと思ったが、そっと抱きかかえると彼女はおとなしくされるままになった。その仕草を見て、昔だれかに飼われていたのかもしれないと私は思った。あるいは、今も飼われているのであろうか。しかし、こんな傷を放置している飼い主などより私のほうがよっぽどましというものであろう。私は自転車のかごに彼女を乗せた。
窮屈かとも思ったが、彼女はまんざらでもなさそうな様子を見せた。おびえた風もなく、首だけ動かして辺りを見回していた。ペダルを漕ぎだしても逃げる様子はなく、私は嬉しかった。どうやら無事に連れて帰れそうである。
しかし、かごに乗る彼女のうしろ姿を見るにつけ、傷口が痛々しい。だけでなく、傷口が痒いのか、彼女はときおり後ろ足で傷口をかきむしるのであった。たまらず私は途中でコンビニエンスストアに立ち寄り、消毒と包帯を買うことにした。せめて傷口を広げぬようにしなくては、落ちついて自転車も漕いでいられぬではないか。
私は包帯を広げ、そこに消毒を吹きつけた。彼女は耳をぴくぴくさせながら私の様子をうかがっていた。包帯を彼女の首にちかづけると、不意に私の手の甲に痛みが走った。驚きで包帯を落とすのと、彼女がかごを飛び出すのと、どちらが早かったろうか。私の思考がまとまるよりも早く、彼女は民家の塀をのりこえ、いずこともなく姿を消してしまっていた。
逃げられたらしい、と理解したのは、包帯を自分の手に巻いてからである。
どうやら、私はまたいらぬことをしてしまったらしい。いつもそうなのだ。幾度も猫を連れ帰ろうと思っても、一度たりとも成功したことがない。必ず、どこかで逃げられてしまう。私は、いつもいらぬことをしてしまうのだ。いつもいつも。
結局、その日は家に帰り、なにごともなく眠りについた。それからしばらくの日々は、特に語るようなことはなにもない。しいて云うならば、数日後、余所に住む妹に、パソコンのチャットで相談をしたことくらいであろうか。
妹は、昔から猫に好かれる人間であった。道端にたむろう彼女らとすぐに仲良くなってしまうことができるのだ。かつて私が関わりをもつことの出来た猫たち、つまり実家の飼い猫たちは、みな妹が連れてきたものだった。
私は妹にどうすれば猫に逃げられないのかを聞いた。妹はさも簡単そうに、怯えさせなければよいのだと云う。しかし私は猫を怯えさせようなどと思ったことはなく、むしろ非常に気を使って彼女らに接しているつもりなのだ。
そう伝えると妹は、愛しすぎるからいけないのだと云った。あまりかまってはいけないのだそうだ。私には理解できなかった。愛しすぎることは、怯えさせてしまうのであろうか。しかし、私をよく知るだけに、妹の指摘は的を射ているような気がした。
そうして、彼女に逃げられた日から一月あまりも過ぎた。
相変わらず私は家人にうんざりし、やらねばならぬことはなにひとつ手につかず、結句孤独を求め夜をさまよう日を続けていたのだが、ある日ふと名案を思いついた。そうだ、隠れ家をつくろうではないか。孤独を楽しむための隠れ家だ。だれにも教えず、思う存分そこで孤独を味わえばよい。
私はさっそく行動にうつった。まずはどこの地に隠れ家を設けるかだ。家の周辺はいけない。それでは気分転換にならぬし、万が一にも家人に見つかってはややこしいことになる。かといって、あまり遠くてはいけない。あくまで隠れ家であり、自宅と行き来できるようでなければ意味がないのだ。都会はいけないだろう。孤独を感じるには、都会は騒がしすぎる。しかし、田舎はもっといけない。田舎は孤独すぎて、逆に孤独を感じられなくなりそうである。
必要なのは、適度な他人の影と、それらからの隔絶性である。ただの孤独は、孤独に過ぎず、私の求める孤独とはちがうのだ。孤独に絶対値はない。うまい物を食べてはじめてまずい物がわかるように、他者を認識することによってはじめて孤独は感じることができるのだ。少なくとも、それが私にとっての孤独なのだ。
いろいろと考えた結果、隣の市がよかろうという結論を出した。隣の市は東京のベッドタウンであるから人は多く住んでいるのだが、ベッドタウンであるがゆえに施設等は整っておらず、全体的に人と人の交流の乏しい街だ。街といっても郊外に行けばいくらでも畑が見つかるようなところなのだ。
私は駅から徒歩十五分ほどのところにある毎月契約のマンションを借りることにした。決して経済的ではないが、隠れ家の性質上、いつでも引き上げることができるのが望ましかったのである。
契約が無事に済んだ夜、いつも通りに家を抜けだした私は、ペダルを漕いで隠れ家へと急いだ。鍵をさしこみ、扉を開くと、そこに私の望んだ空間があった。
まだなにも荷物の運び込まれていない部屋は、物をすこし置いて布団をしけば、それだけで埋まってしまうような狭いものであったが、隠れ家には十分であった。まずは換気が必要であろうと思った私は、扉を開けたまま窓を開き、ベランダへ出た。
五階を借りることになったのだが、意図せず窓よりの展望が素晴らしく、まばらに生えたビルと、その合間合間にこびりついたように残る平屋のちぐはぐさが私を楽しませた。隣で行われているビル工事のクレーンさえ視界をさえぎっていなければ、景観はなかなかに絶景であるといえただろう。
遠くで光る赤いネオンを眺めまわしたあと、満足感と肌寒さをおぼえた私は、室内にもどろうとふり向いたところで、部屋に寝ころがり毛並みをととのえている一匹の猫を見つけた。短い尻尾。白と黒のちぐはぐな模様に、額に茶色のぶちが二つ。彼女であった。
もちろん、はじめは驚いた私であったが、すぐにここが以前に彼女を見かけたファミリーレストランの近くであることを思いだし、納得した。あまりセキュリティの厳しいマンションではないから、五階と云っても忍びこむことができたのだろう。エレベーターはついているものの、階段も当然存在しているし、そう云えば階段は部屋のちょうど正面にあった。寒さをしのぐために忍びこんできたといったところだろうか。
それにしても、ひどい偶然である。まさか彼女とこのような形で再会するとは思わなかった。本当に、この猫はあのときの彼女であろうか。似ているだけのべつの猫ではあるまいか。いぶかしんだ私は、彼女の首のうしろを見た。幾分治りつつあったが、確かにそこに傷はあった。疑いようもない。まぎれもなく彼女は彼女であるのだ。
よく見ると、彼女には傷がふえていた。左後ろ足の間接部分の毛がはがれ、すりむけているのだ。傷口はまだ新しく、見るだに痛々しい。しかし彼女はまるで気にする様子もなく、まるでこの部屋がわが家であるかようにくつろいでいた。まるで、私が訪れるよりもずっと前からこの部屋に住んでいたとでも云わんばかりの態度だ。思わず私のほうが卑屈になってしまい、座ることをためらってしまう。
彼女をどうすべきか、私はしばし迷ったが、結局放っておくことにした。かまいすぎてはいけないという妹の言葉を思い出したのである。彼女が勝手に住み着いてくれるのならば、それに越したことはないではないか。
その日は、一晩中寝転んで本など読みながら過ごした。疲れると、ベランダに出て夜風にあたりながらまだ見慣れぬ風景をあかずに眺めた。真夜中だというのに、どこかの部屋からギターの音がこぼれ落ちてくるのが、心地よかった。なにを弾いているのかまるでわからぬそれは、私にとってまるで関わりのない音楽であるのだ。ここには、私の求めた孤独がありそうだと胸を躍らせた。
彼女はそんな私の気持ちなどおかまいなしに、フローリングの床で爪を研いだり、私が夜食のパンを食べ始めると、私のひざの上によじのぼり、濡れた鼻でパンをつつきまわし、反対側からかじって三分の一ほどをもぎとった挙句、口に合わなかったのか、ほとんど食べずに部屋の真ん中に放置して、寝息をたてはじめたりした。
夜明けになり、私は帰るとき、彼女をどうすべきか迷った。このまま扉を閉めて閉じこめるわけにはいくまいが、追い出してしまえば二度と彼女は訪れてはくれないのではあるまいかという不安がぬぐえなかったのだ。なにより、気持ちよさそうに眠っていたのを起こすのはしのびなかった。
私は部屋の扉をすこし開けたまま帰ることにした。不用心ではあったが、どうせ盗られるような物などまだなにもないのだ。玄関から中をふりあおぐと、朝焼けの中、部屋の真ん中で耳をぴくぴくと震わせる彼女と、その横に置かれたアンパンの欠片が見えた。
次に隠れ家を訪れたとき、彼女がいることを期待したりはしなかった。彼女は偶然あの部屋にいただけであるのだ。期待をしてはいけないのだと、自分でちゃんとわかっていた。次に私があの部屋で発見するのは、月光のほかはなにもない空洞のはずなのだ。
しかし、案に相違して、翌日に訪れたときも彼女は部屋の中で毛並みをととのえていた。パンの欠片はひからびて部屋の隅に移動していた。まったく、なんという贅沢者なのだろう。仕方なしに、新しいパンと牛乳を床に置いてやると、悪びれもせずに食べはじめ、そしておおいに食べのこした。
その夜は、なにもせずにもちこんだ毛布にくるまって寝た。彼女はもぐりこんでくるかと思ったが、それはせず、毛布の端っこにちょこんと乗って、そこで眠りはじめた。私は、小一時間ほども震える耳を眺めていたが、ついに我慢がしきれなくなり、音を立てぬように手を伸ばして、彼女の頭に触れた。そこは額のぶちとぶちの間で、短い毛はすこしだけ堅く、指先に当たるかすかな刺激が心地よかった。私が触れると、彼女はうっすらと目を開き、私を見てから、掌に鼻先を押しつけた。冬の猫の鼻先は、ひやりとしている。この時、私を襲った感情は、ゆるやかな喜びと、それ以上の恐怖であった。
私は、彼女を抱きしめたくなった。この腕に抱いて、そのまま眠りたいと思った。彼女は、きっと抵抗をしないであろうと、なんとなく理解できた。しかし、そんなことをしてはいけないのである。私は彼女の飼い主になりたくはなかった。飼い主になってしまえば、いつか彼女を失うことになってしまうのだ。それはきっと、遠くない未来のことに違いあるまい。
失うことを恐れた私は、彼女をこの手にするのを諦め、なにも見えぬよう毛布の中にもくりこんで寝た。それは正しいことであったと、今も私は思う。そうだ、私はいつも正解を知っている。なにが間違いで何が正しいのか、理解できているはずなのだ。
翌日は、近所のリサイクルショップを訪れ、14インチ型のテレビと、安物のビデオデッキを買った。それから、レンタルビデオショップへ行き、ビデオを数本借りてきて、日がな一日、それらを見たり見なかったりしながら、うつらうつらと寝たり起きたりして過ごした。彼女は私のことなど興味なさげであったが、ビデオが流れはじめると、私よりも熱心に画面を睨みつけていた。
このようにして、私と彼女の生活ははじまったのだった。
――と、ここまで書きあげたのち、私は途方にくれてしまった。
いったいなにから話しはじめればよいのか。どこまでを話せばよいのか。そもそも、話すことなどあるのか。
私は、彼女との生活を書こうとした。しかし、彼女との生活は、あまりにもありふれ、退屈で、事件がなく、なにを語ればいいのか、まるでわからないではないか。
彼女との生活に、時の刻みはなかった。彼女と過ごした日々は、どの一日がどの日付に起こったことであるのか、まるでわからないし、どれもいつあった事にしてもまるでかまわないであろう。重要なのはただひとつ、私は冬の終わりに彼女と出会い、冬の始まりに彼女を失った、ただそれだけなのだ。
ともあれ、彼女が隠れ家を訪れて以来、私はあまり家に帰らなくなった。私は隠れ家にこもったまま、日がな一日、他愛もない架空の戦記小説を読んだり、バカな映画を見たり、盛り上がりに欠ける音楽を流したり、もちこんだノートPCをいじくり回したりしながら、のんべんだらりと幾日も過ごしていたのだ。そして、その部屋には、いつも彼女がいた。
といっても、彼女は部屋から一歩もでないわけでもなく、時々いないこともあったが、いつもしばらくすると帰ってきて、疲れきったように部屋の真ん中に座りこむのだ。そういうとき、彼女はたいてい、なにか紙切れを口にくわえて戻ってくる。
紙切れは、チラシの切れ端であったり、どこかの大学ノートの切れ端であったり、ポスターの切れ端であったり、小説の切れ端であったり、いつも違っていたが、共通しているのはいつもなにか文字が書いてあることと、読もうとしても切れ端であるがゆえになにが書いてあるのかさっぱり意味がわからぬことであった。
彼女はそうした紙切れを実にさまざまなところから調達した。ゴミ箱の中からであったり、電信柱に張られたものであったり、風に吹かれて流されていくチラシであったり、時には私が読んでいる本の一頁を横からちぎっていってしまったり、驚いたことには、起動させたまま放置してあったノートPCのキーボードを巧みに踏みつけ、偶然なのか故意なのか、意味のわからぬ言葉の羅列を一人でプリントアウトして持っていってしまったりもする。相当にかしこい猫であったのかもしれない。
そして彼女はその、私にはゴミとしか思えぬ紙切れたちを、いつも大事そうに抱えて寝るのである。奪いとろうとすると、うなり声をあげて私を威嚇し、決して離そうとはしない。そのくせ、丸一日それを抱いて寝ると、次の日にはまるきり興味を失い、放り捨てて外へと出かけて、また新しい紙切れを拾ってきたりする。そして、その紙切れもまた翌日には捨てられるのだ。彼女は賢かったが、それなのにというべきか、それゆえにというべきか、おかしな行動の目立つ猫であった。
彼女との生活には、声が存在しなかった。彼女は鳴かない猫であった。口を開け、なにかを訴えかけはするのだが、声は出さず、閉じる寸前に泣き声とはほど遠い小さな音がのどからこぼれ出るばかりで、私はと云えば、言葉を使わぬことの自由さを満喫し、部屋の中には、いつも不自然な音ばかりで構成された自然な空間があった。それで十分に意思の疎通は出来たし、逆を云えば、それ以上の意思の交流を、私は望んでおらず、彼女もまた、そう望んでいたのだと、私は思っていた。
役者を目指している友人の家を訪ねたとき、べつに彼女を連れて行こうとしたわけではない。彼の家を訪ねようと思いたって、エレベーターに乗ったところ、彼女も乗りこんできて、私が外へ足を踏みだすと、彼女もうしろをついてきたのだ。一時間あまりも歩く間に、彼女はときに私の前を歩き、ときにうしろを歩き、公園を見つけては姿を消し、それからまたひょっこりと植え込みの間から姿をあらわし、そんなことをくり返しているうちに、結局友人の家まで着いてきてしまったのだ。そして友人が玄関を開け、私たちがその場で一言二言、挨拶などをしているうちに、彼女はおびえる様子もなく、勝手に友人の家へあがりこんでしまった。
友人は苦笑をしながら、私の猫かと尋ねてきたので、私は違うと答えた。では野良猫かと友人が云うので、私はしばらく考えたあとに、私の部屋に住んでいるのだと云った。ではお前の猫ではないかと友人は笑って、それでこの話はおしまいになってしまった。
だが、違う。断じて違うのである。私は彼女の所有者、飼い主ではない。ただ、同じ部屋に住んでいるだけに過ぎないのだ。そういったことを友人に説明しようとしたのだが、うまく表現が出来ない私は、よく覚えていないが、よっぽど下手な話をしたのだろう、友人はただニヤニヤと笑うばかりで、お前らしいやとなにかを勘違いしたような態度をとるばかりであった。
ひさしぶりに会う友人の話は面白かった。次に控えた舞台の話をしてくれた。それ自体はまるでつまらぬ話なのだが、つまらぬことを、なんとも魅力的に話す男なのだ。私は笑いながら、突然、どうしようもなく彼を憎んだ。なぜ私に会うこともなく、彼はこうも楽しく生きていけるのだろうか。なぜこのようにつまらぬ話を楽しく語れるのだろう。すべてが疎ましく妬ましかった。
その脚本がどれほどくだらぬものであるのかを、愛情をこめた薄ら笑いを浮かべながら、彼は延々と語った。頷き、時に感心したふりをしながら、私の心は自分の海に沈没していった。立ち去りたかったのだ。一刻も早く、友人の前から消えてしまいたかったのだ。彼と話しているのは楽しかった。だからこそ、彼に退去を迫られたときには、捨てられたという思いが私を押し潰してしまうにちがいないのだ。助けが欲しかった。彼の笑顔を断ち切り、捨てられるよりも早く私を外へと連れ出してくれる、だれかの助けが。
彼の持つ台本の一頁が破られたのは、そんな思いに沈んでいたときである。
彼女であった。彼女が、いま開かれていた頁の端をくわえ、私が読む本に幾度かそうしたように、ちぎりとって持ち去ってしまったのだった。友人は怒声を上げ、それから舌打ちして私へ苛立ちと困惑の表情を見せた。それで、私の金縛りは解けた。
戸外へとすでに逃げ出していた彼女を追って、彼女の持ち去った部分を取りかえし、FAXで送ると友人に約束してから、私は彼の家を辞去した。
求められるのは、怖かった。求められてしまえば、私は歓喜し、同じだけを相手に求めてしまうであろう。それはすぐにエスカレートをし、私は相手の何もかもを求めてしまうのだ。友人は気安く求めすぎ、気安く捨てすぎる男であった。彼の前にいるのは、怖くてたまらなかった。彼女が、彼の前から去る機会をくれなければ、私はいつまでもそこに座っていたかもしれない。私はもはやどこにも姿の見えぬ彼女に感謝した。
帰る道すがら、彼女が求めぬからこそ、私は彼女と共にいられるのかもしれないと考えた。彼女は実にいろいろなものを求めた。猫のくせに、一年中発情していた
道を歩いていて、通りすがった犬に発情した。道の真ん中で餌をついばむ鳩に発情した。テレビを見ていると、街頭インタビューを受けている名もない青年に発情し、売り出し中の若い女性アイドルに発情した。日本語吹き替えの映画にはなにも興味を示さぬのに、同じ映画を字幕で流すと発情した。パソコンのモニターに移った猫の画像に発情し、気まぐれで買ってきた小さな鳥のぬいぐるみに発情した。彼女はありとあらゆるものに発情した。私以外のありとあらゆるものに。
そして、彼女が発情するものは、いつも彼女の触れることの出来ぬものばかりであった。犬は近づくと吼えたけり、鳩は彼女のかすかな嬌声に飛びさってしまい、モニターのなかの存在はなにも変わらぬ笑みを浮かべつづけ、無生物たちに命が宿るという奇蹟も起こらなかった
あるいは、求めても手に入らぬからこそ、彼女はそれらを求めたのかもしれない。であるならば、彼女と私は似たもの同士であったのだ。求められることを恐れて孤独を求める私と、手に入れることが出来ぬものだけを求める彼女は、同じ生き物であったのかもしれない。
部屋に帰ると、彼女はすでに帰っていて、友人から奪いとった台本の切れ端を前足に抱えこみ、ベランダの窓に向かって求愛をしていた。夜の景色は、彼女の格別のお気に入りの求愛対象であった。それにしても、今考えればおかしなものだ。部屋から遠く離れた場所で彼女を見失ったというのに、私は彼女が部屋に帰っていることをすこしも疑っていなかった。私にとって、あの部屋と彼女は、不可分の存在であったのだ。
その夜、私は彼女からすこし離れたまま、彼女の見る夜景を見た。中天に浮かぶ月の行き先を、赤いクレーンがさえぎっていたが、雄々しく孤高にそびえるかれらをもまた、私はいつしか愛していたことに気付いた。彼女は夜明けまで声もなく鳴きつづけ、私は読みさしの本をいくつか読んで、彼女が寝たのを確認すると、その額に柔らかく触れてから、毛布にもぐりこんだ。
私たちの春と夏は、そうして過ぎ去っていったのだった。
なぜ、私が彼女を失うことになってしまったのか、わからない。
私は知っていたはずだった。私たちの関係が、互いに求めぬからこそ成立していたということを。彼女もまた、それを知っていたはずなのに。
秋だから、としか云いようがないのかもしれない。秋の持つメランコリアの引力が、私たちにふりそそいだのだ。
なにがきっかけであったのか、あるいは、きっかけなどなかったのか、彼女は、寝るときに私の毛布の中にもぐりこんでくるようになった。私が連れこんだのか、彼女がもぐりこんできたのかすら、もう思い出すことも出来ない。それは、あまりにも自然であたりまえのことのように思えたのである。
ともに寝て、私は彼女の毛並みの暖かさと柔らかさと、傷口のざらついた感触を知った。
彼女はいつも怪我をしていた。あるところは深く、あるところは浅く、全身に無数の傷を持っていた。それは、どこかで擦った傷であったり、切った傷であったり、打ちつけた傷であったり、明らかに噛まれたあとであったり、さまざまであったが、彼女は傷が治るころになると、まるで望んでつけたかのように、新しい傷をどこからかこしらえて戻ってくるのだ。はじめは何度か手当てを試みたのだが、それが激しい拒絶をしか生み出さぬことに気付いた私は、拒絶を恐れるあまり、彼女の傷を放っておくことを選んだ。
決定的であったのは、近くの公園を散歩していたときのことだ。二匹の猫が、ひどい声をあげてお互いを威嚇しあっているのを発見した。止めようか、眺めていようか、逃げようか、こういう事態に出くわしたときにどうすればいいのかわからない私は、なにをすべきか決めかねてまごついていた。すると、私のうしろを歩いていた彼女がなにくわぬ様子で二匹に近づいていき、それから、聞くにたえないひどい声を出して、二匹を威嚇した。驚いた二匹のうち、一匹が彼女の前足をひっかき、もう一匹が彼女の首筋に噛みついた。
彼女はなにも抵抗をしなかった。驚いた私が駆けよって、二匹が逃げるまで、されるがままにぐったりとなっていたのだ。私は血を流す彼女のそばへ寄って、それでも抱き上げるべきなのかどうか、迷った。迷っているうちに、彼女は何事もなかったかのように起きあがり、すこし歩きづらそうにしながら、一人でマンションに戻り、一人でエレベーターに乗り、一人で部屋へ帰っていった。そして、真夜中になるまで、部屋の隅でずっとうずくまっていた。
私はさすがに手当てをしようと思ったのだが、彼女は私を近づかせぬような空気を放っており、その空気を越えていいのは、彼女の飼い主、だけのような気がした。私は迷って、結局やめた。なんだか、こうして改めて考えると、私はいつも迷い、そしていつもなにもしないでばかりいるではないか。
その深夜、電気をつけぬ部屋の中で、PCをつけたまま私がうとうととしていると、唐突に彼女は部屋中を駆けずりだした。口を何度も大きく開けて、何度も鳴く様子を見せながら、かすかにのどの奥を鳴らすばかりの彼女は、その口を閉じるたびに、私の本を、ノートを、新聞を、チラシを、画集を、一枚ずつ、ちぎりとっていった。
紙片を部屋の片隅に集めながら、彼女はなかなか止まらなかった。キーボードの上に飛びのり、いくつものキーを乱暴に踏みつけたあと、私に向かって声の出さぬ鳴き声をあげた。うろたえた私が思わず伸ばした手は、血で固まっていた彼女の首筋に触れた。驚いてひっこめた手の甲を、彼女の爪がかすめていった。期せずしてそれは、彼女とはじめて出会った時につけられた傷と、ほとんど同じ場所であった。
痛みに声をあげると、彼女はぴたりと止まった。そして、紙片を積み上げた部屋の隅に戻り、闇に光る眼を私に向けたまま、ぴくりとも動かなくなった。
傷は浅く、痛みは薄かったが、思ったよりも出血はあった。絆創膏を貼ろうとして、彼女の視線に気がついて、やめた。彼女の傷のほうがひどいのに、私だけが手当てをするなんて、なぜできようか。傷口のかすかな熱さを感じながら、私は寝ることにした。
夜中にふと目が覚めると、私の傷口を彼女がなめていた。一心不乱なその姿からは、しかしいたわりの気持ちはまるで感じることがなく、彼女はまるで、私を傷つけたことを、なかったことにしたいように見えた。瞬間、私は彼女に傷つけられたのは、初めてであったときと今と、たった二回だけだと気付いた。
猫好きで知られる知人も、妹も、いつもからだのどこかに、彼女たちのつくった引っかき傷をもっていた。傷は非常に小さなものばかりであったが、それはまるで飼い主の証であるように見えた。私には、その証を手にする資格がないのだ。だから、彼女は傷を消そうとしているのだと、私は気付いた。
いま、左の甲を光に透かしてみた。小さな傷は、今はもう、すっかり消えてしまって、どこにも見つけることが出来なかった。
私がその車の前で足を止めたのは、数日後のことだ。
部屋の近くにはおおきな公園があり、私はよく散歩をしていたのだが、そばの駐車場に、週に何度か、ワゴン車が止まっていることがあった。近くには手製の看板が置いてあり「ペット販売 レンタルもあります」と書いてあった。開けられたトランクの中に、いくつものケージが積み重なっており、小さな犬や猫が声もたてずに来る予定のない誰かを待っていた。その内の一匹の猫を、いくばくかの金と引きかえに胸に抱いたのは、手にする資格のない証を、それでもかりそめに手にしてみたかったからかもしれない。
いかにも血統書がついていそうなその子は、まさしく借りてきた猫そのままに、少し怯えながら、逆らうことなく私に抱かれるがままになっていた。毛並みは柔らかく羽根のようで、あごの下をなでてやると、素直にごろごろとのどを鳴らし、店員から買ったミルクをやると、私の掌からうまそうになめた。そして、ミルクが無くなると、もっとくれと私に甘えた声を投げかけるのだ。まるで彼女と違っていた。ひどく可愛かった。あまりにも可愛くて、私は恐慌に陥りそうになり、規定の時間が来るよりもかなり早くその猫を返すと、部屋ではなく自宅へ帰って、彼女のことを考えた。
なんでもっと、生きやすく生きられないのだろう。
秋の終わりが近づくころ、私は部屋の中で遭難した。
書かねばならぬことと書けぬ現実に押しつぶされ、手に入れることの辛さと手に入らぬことの苦しさを思い、なにもできぬ自分となにかをせねばならぬという焦燥感の間で、ひどい倦怠感と無気力が、私に惰眠を貪らせた。
私はひたすら、彼女と寝た。毛布と彼女の毛皮に包まって、暖かさというよりは暑苦しさにうめきながら、ひたすらに眠った。目を覚ますと、彼女の傷口をすべて手当てした。彼女は逃げ出さなかった。手当てをされるがままにし、包帯と絆創膏だらけになった自分の身体を、うとましそうに眺めて首をふり回してから、私の指先にすこし歯をたてた。私達は一緒に毛布の中にもぐりこんで、私の中に吹き荒れる吹雪が過ぎ去るのを待って、三日間、ただひたすらに、眠りつづけた。
そして四日目の朝、嵐の去ったあとの心のなかに、彼女がそばにいることを当然のこととして受け止めている自分を発見した私は、逃げるように自宅へ帰った。
それから、私は彼女にさまざまなものを与えた。病院へ連れていき傷の治療をした。専門家にトリミングもしてもらった。私の食事よりもはるかに高級な料理をあたえ、真新しい毛布を買って、彼女の寝床とした。彼女はなにひとつ拒否しなかったが、なにかを与えるごとに、彼女の瞳は澄んで美しく切れあがっていき、私を見ることを、やめていった。与えられるものが何も思い浮かばなくなった私は、彼女がちぎりとるのを期待して本を積みあげ、ふざけた映画を流し、クラシックをかけ、画集を切りぬき、詩集を声に出し、部屋をシュールレアリズムの色にした。
私はいつだってわかっていた。いまの状態が、どれだけふざけたバランスの上に成立していて、それ維持するにはどうすればよいのかわかっていた。なにを選択することが正しく、何を行うことが過ちなのか、わかっていた。私はいつも、過ちを理解しているのだ。そして、わかっていながら、いつもそれをおこなってしまうのだ。
彼女はいつしか、眠るときに、音をたてずに部屋を出ることをおぼえ、私は彼女が出ていくのを見届けてから、自宅へと帰ることをおぼえた。
いつの間にか部屋には、私の望んだ、孤独だけが、棲みついていた。
部屋を訪れても、彼女がいないことが、多くなっていた。私は空虚な室内で待ち望んだ孤独と戯れるのに必死で、本を読むことも、文を書くこともできず、冷蔵庫の中で、本を冷やしてみたり、電子レンジで、CDを暖めたりしながら、彼女が部屋に来るのを待っていたが、夜明けに彼女が訪れると、すれちがいに部屋を出ていくことを繰りかえした。メランコリアの秋が、もう終わっていたことに気付くこともなく。
私がとうに到来していた冬にようやく気が付いた日、それは、ひどく月の綺麗な夜のことで、彼女は、珍しく先に部屋に来ており、あとから訪れた私に一瞥もくれず、窓の外に向かって、発情していた。
下弦の月は、本当に綺麗で、まわりを渦巻く雲を従えて、気高く妖しく、残酷なほどに輝いており、たとえ人の足が何度その地を踏みしだこうと、だれも月を手に入れることは出来ないのだと、月はまさしく女王であるのだと、気付いたときに、私は冬の訪れを、知った。
彼女が求愛しているのは、月なのだ。
誰かが叫んでいた。
「手に入らぬものばかりを欲しがりやがって」
言葉は嫌いだ。言葉は、想いを固めてしまう。
「おまえはただの臆病者だ。己の欲望が怖いだけだ」
言葉は、気体のような想いまでも、重い固体に変えてしまい、誰かを傷つける。
「欲しければ、行けばいい。どこにだって行けばいい。飛んでみせろ。どこまでも行け」
どこにも行くことなんてできやしないのに。だれがそんなことを云うのだろう。私の醜い腹のなかを、研ぎ澄まされてもいない言葉の角で切り裂こうとするのはやめておくれ。開け放った窓から冷たい風がほほを吹きつけるまで、それが自分の言葉であると、私は気付かなかった。
部屋に背をむけ、彼女を見ずに部屋を出、扉を完全に閉めて、鍵をかけた。その間中、ずっとなにかを怒鳴っていた。エレベーターの中で、このままワイヤーが切れてしまえと、地の果てまでも降りていけばいいと思いながら、すがりつく場所が欲しくて、床に座りこんだ。使いなれぬ携帯電話を取りだして、思いつくかぎりの罵声をうちこみ、送るあてがないから、デタラメなアドレスを打ちこんで、片っ端から送信した。あて先のないメールは次から次へと私のもとへ帰って来、私はそれを上回る速度でメールを出しつづけた。疲れと寒さで指がいうことを聞かなくなったころ、私は自宅へ帰りついていた。
布団を頭からかぶり、暗闇の中で、ダイヤルを回さずに受話器に向かって話し続けた。安っぽい罵声が、私の心を安っぽく変えていくのが心地よかった。どこにもつながらぬ電話だけが、私の言葉を聞いてくれた。一晩中、私はなにかを罵りつづけ恨みつづけ、叫ぶことに疲れて、いつしか眠りについていた。
夢を見た。
私は見知らぬ年上の女とレストランにいた。店内には和食洋食フレンチイタリアンからインド料理まで揃っており、そのメニューの多さゆえに、注文をするには、非常に特殊なルールに従った煩雑な手順が必要で、それを知らぬ見知らぬ女は激しい苛立ちをあらわにしていたのだが、そのころ、私はというと、料理のことなどまるで頭になく、どのようにこの女と寝るべきだろうかと、ずっと考えつづけていた。
目が覚めて、私は笑った。
注文の一つも満足に出来ぬくせに、女を抱くことばかり考えている。なるほど、それが私なのだ。
台所に行くと、家人が麻婆豆腐などをつくっており、食べるかと聞くので、仕方なしに席について、家人のつくるあまり辛くもない麻婆豆腐を食べた。
それでようやく、帰ってきたのだと思えた。
数日後、部屋を訪れたが、彼女の姿はなく、孤独もまた、どこかへ消えてしまっていた。なにもいない室内で、ただ一片の、ほこりをかぶった紙切れが私を出迎えた。
紙片には、やはりわけのわからぬ言葉が羅列されており、何度読みかえしても、どの角度から読んでも、さっぱり意味がわからなかった。私はその紙を上着のポケットにしまいこんで、部屋の荷物を処分し、マンションの契約を解除した。
これで、私の話はおしまいである。
その後、私は彼女を見ていないし、あのあと彼女がどこへ行ったのか、まるでわからない。ただなんとなく、一人になった彼女は月へ向かって飛びついて、けれどもたどり着くことが出来ずに(どこか)へ還っていったのではないか、と思った。それがどこなのかはわからないが、私には、彼女は月と部屋のあいだにある(どこか)から来たような気がしてならないのだ。
時に、私は夢想する。
いつかまた、部屋を手に入れることを。
それが十年後か二十年後かわからないが、部屋の鍵を開けたときに、月光とともに出迎えてくれるのが彼女であることを、一人の夜半に夢想する。その時、彼女の残した言葉の羅列は意味を持ち、私は彼女を手に入れ、彼女もまた、私を手に入れるのだ。それぞれの望む形で、それぞれの望む姿で。
――そんな、叶うあてもなければ叶って欲しいと思うこともない未来を夢想しながら、私はこのようなくだらぬ文を書いて生きていくよりないのだと、今は静かに、受け入れる。
それは、悪いことでは、ないだろう。
了
第一幕
開幕。
中央に巨大な門。安っぽく書いてある「霊界の門」
右手に「天国」激しく白いライト。
左手に「地獄」黒と赤い光。
門の前に一人の門番。歌うように死人の案内をしている。
門番「さー、よってらっしゃいらっしゃい。こちら霊界、あの世の入り口。
いいことした人、右手へどうぞ。そこは天国いいところ、次のお目覚め待つところ。よい子でおねむり仔猫ちゃん。
いけないボーヤは左へどうぞ。そこは地獄さゴートゥヘール! 魂キレイに洗うまで、ゆっくりおつかり血の池地獄。
さあさあようこそウェルカム。ここは霊界来る者拒まぬウェルカム。だけどダメダメ、帰るのだめよ。いいも悪いもリフレッシュ、まっさら新品なる日まで、でてっちゃいけないお約束、さぁさぁみなさんいらっしゃい……うわっ」
左の地獄から、黒い塊が飛び出してくる
門番を突き飛ばし、霊界の門をくぐって外に出で行く。
門番「こらっ! ダメだって! ……行っちゃった……どうしようどうしよう、あーどーしよー、ホイ、どーしよー、ホイ、パッキャラマードパッキャラマードパオパオパッキャラマードパッキャラマードパオパオ……
今度は右の天国から白い塊がとびだしてくる。
門番をまた突き飛ばし霊界の門を出ていく。
門番「あーもうダメだってのに……行っちゃった……ハッハッハッ、二人も通って行っちゃった、ハッハッハッ、ひどいもんだなあ、こりゃ大目玉は確実だ、ハッハッハッ……ど、どうしよう~」
門番がうなだれていると、地獄から一人の男がやってくる。
黒いスーツに黒帽子、濃いサングラス。あからさまに怪しい。
名は泥門大二郎。
泥門「おい、ここを通してもらうぞ」
門番「わあっ、なんですかアナタは。ダメダメ、ダメに決まっているでしょう。ここはだーれも通しません。ええ通しませんとも、ホイ通しません
泥門「だが通したんだろう? さっきは」
門番「げっ。な、なぜそれを? アナタ、何者ですか」
泥門「こういうものだ(懐から名刺を取り出す)
門番「悪魔探偵・泥門大二郎……ああ、地獄の。それではさっきの魂は、やはりそちらの方から?
泥門「ああ、脱走した。で、非公式ながらやつを捕まえるためにおれが派遣された。やつはここを通ったんだろう?
門番「ええ、それはもうすごい勢いで
泥門「では、わたしも通してもらおう
門番「へぇ。……あの、ひとつお伺いしたいのですが」
泥門「なんだ
門番「わたし、怒られませんよね? 脱走したってのは、そちらの手違いですもんね
泥門「知らん
門番「知らんって、そんな無責任な! そちらの手落ちなんでしょう? ねえそうなんでしょう? 上のほうで責任をとってくれるんでしょう?
泥門「知らん知らん。わたしはただ雇われただけの探偵だ
門番「はいと言ってくださいよ、ハイと! SAY YES!」
泥門「くっつくな、うっとうしい。いいから通すんだ
門番「嘘でもいいから! 一時の嘘でもいいから! あとで弄ばれたって、裁判沙汰にしたりしないから! SAY YES! SAY YES!
泥門「わかったわかった。あとで聞いといてやるから。早く通してくれ。こうしている間にも、やつは遠くに離れていってるんだ。
門番「絶対ですよ? ホントに絶対ですよ? 指きりですよ? エンコ詰めますよ?
泥門「わかったわかったわかった」
門番「それでは通行証を提示してください(急に事務的)
泥門「通行証はない
門番「そうですか、ないですか、ハハハハハ、なんでないんですかあ!(急にキレる)
泥門「(ビクッ)さ、最初に云っただろう、非公式だと。上には内緒なんだよ。バレないうちに連れ帰そうって話なんだ
門番「なんですか、それ。じゃあばれたらおおごとじゃないですか。地獄の不始末ですよ、これは。わたし、巻き込まれたんですね? こんなにまじめに働いているのに。
泥門「いやまあ、そういう言い方もできなくはないが
門番「監督不行届だ! 職務怠慢だ! どーりでおかしいと思ったんだ
泥門「落ち着け、な、落ち着け
門番「いーえ、これが落ち着いていられますか。わたしはあんたたちの巻き添えを食ったんだ。前からおかしいと思ってたんだ、地獄は手抜きをしているんだ
泥門「いや、決してそういうわけではなくだな
門番「でなきゃ二人も脱走するはずがあるもんですか
泥門「ちょっと待て。二人? わたしが頼まれたのは一人だけだぞ
門番「またそうやってわたしをだまそうとする。もう惑わされませんよー。二人! 確かに二人でしたとも。最初に一人、あとからもう一人。確かにそうでしたとも
泥門「なんだって? そりゃどういうことだ?
門番「どうもこうも……」
そこで左の天国から女が登場。
純白の衣服に、手には杖。優しげな微笑と金髪。
うさんくさいほどに天使そのもの。
名は暗減悠子
暗減「もう一人のかたは、ワタクシの探しているかたですわ
泥門「誰だあんた? そのカッコ……天使か」
暗減「人に名前を尋ねられるときはまず自分の名前を(すかさず名刺を差し出す泥門)あらあら、よくできました
泥門「どうも。で、アンタは?
暗減「ワタクシはこういう……こういう……こういう……(からだのあちこちをまさぐる)
泥門「なんだ、名刺を忘れたのか?
暗減「いえ、忘れてはおりませんわ
泥門「じゃあ早く出せばいいだろう
暗減「ありませんわ。はじめからつくっておりませんもの
泥門「(ずるっ)じゃあなんで探すんだよ
暗減「ついうっかりつられてしまいまして。ホホホホホ
泥門「まったく、しっかりしてくれよ天使さん。名刺くらいちゃんと用意しておくのが常識だろう
暗減「チッ。ンなこといったってよぉ、メンドくせぇ……
泥門「えっ?
暗減「あっ、いえいえ、申し訳ありませんですわ。今度作りますです、ハイ。ホホホホホ
泥門「(いぶかしみながら)……で、アンタは何者なんだ?」
暗減「ワタクシ、暗減悠子と申しますの、天国で探偵をしていますわ。
泥門「へえ、向こうの同業者さんか
暗減「そうですわ、悪魔さん
泥門「で、天使さん、あなたはなにをしにこの霊界の門までいらっしゃったのですかね?
暗減「実はですわ、天国から
門番「魂が下界に逃げ出したとでも? それを捕まえるためにあなたが雇われたとか? それでここをとおせとおっしゃったりして? しかも非公式だったりとか? まさかそれで通行証がないなんて? まさかまさかそんなことをおっしゃったりは?
暗減「よくご存知ですわね。まったくそのとおりですわ
門番「もうたくさんだ! まったく天国も地獄もうんざりだ。いい加減なことばっかりしやがって。通しません。わたしはだーれも通しませんよー、だいたいねえ(しばらくずっとブツブツ)
暗減「悪魔さん、これはどういう事ですの?
泥門「わたしも下界に降りなくちゃならんのだが、この門番がさっきからずっとこの調子なんだ。で、困っている
暗減「困っているって……ずいぶんとゆっくりなさった悪魔さんですわねえ
泥門「とんでもない。焦っているさ、とても
暗減「でしたら、なんとかなさったらいかがかしら?」
泥門「なんとかって、云われてもな
門番「……決めた! もう決めましたよわたしは! 天国の云うことも地獄の云うことも聞きません。ええ聞きませんとも。ストです。スト決行です。日本プロ野球界に続き霊界も初のストライキに突入ですよー
暗減「しかし、まあ、なんと申しますか……ホホホ、うっざいなあ、コイツ!」
泥門と門番、びっくりして固まる。
すかさず持っていた杖で門番の頭をぶん殴る暗減。気絶する番。
暗減、泥門を見てニッコリ。
暗減「さあ、なんとかなりましたわ
泥門「な、なんとかって……(門番にかけより抱き起こす)おい! 大丈夫か? 生きてるかー? 死んでないかー?
暗減「死んでるもなにも、ここが霊界ですわ
泥門「あ、そうか。えーと、とにかく大丈夫か? しっかりしろ
暗減「あ、しっかりさせてはダメですわ。そんなの生きようが死のうがどうでもいいですからほっといて、今のうちに門を通ってしまいましょう
泥門「あ、あんた本当に天使か?」
暗減「(ギクッ)あ、あなたこそずいぶんとおやさしい悪魔さんですこと
泥門「(ギクッ)お、おう、そうだな。こんなやつはどうでもいいな。さ、行こうぜ。おれにゃあ大事な仕事があるんだ
暗減「そうそう、行きましょう。ワタクシも早くあの子を見つけなければなりませんもの
泥門「アンタも人探しか?
暗減「あなたもそうですの? それではあなたに神のご加護を
泥門「魔王サタンの贔屓を
二人「祈りますわ・祈る
二人は霊界の門をくぐる
暗転
第一幕 完