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ぼんやりと雲を見ていた。
云うまでもないけど、曇って云うのは不思議で面白くて、ゆっくりだけど動きつづけて、いつも形を変えつづけて、見ていてなかなか飽きない。
はじめはリンゴの形、次にパンの形、その次にぶどうの形、パイナップルの形、カレーライスの形。
……食べ物ばかりだと、まるでぼくが食いしん坊のようではないか。そんなことは、決してないんだよ。
ほら、鳥の形、それから、桜の形、あれは、手のひらだな、おお、脳みそみたいな形、気持ち悪いよ。
あ、それからあれは……
あれは……
すごく面白い形なんだ。本当に面白い形なんだ。ただ、なんていうのかな、わかんないな、なんて云えばいいのかな、あるんだよ、確か。ああいう形のものは。見たことあるんだよ。ただ、うまく言葉が出てこないだけで、だから、ほら、あれなんだよ、あれ。あ、あ、えーと……
なんてもやもや考えているうちに、雲の形は変わってしまって、さっきの面白いものはまったくもってなくなってしまった。
がっかりした。あんなに面白いのに、それを言葉にできなかった。
どうやらぼくは、物を知らないようだ。
つまり、あんまり頭が良くないようだ。
「勉強しよう」
頭を良くするには、勉強が一番だ。
でも、どこで、どうやってすればいいんだろう? 先生なんて、いないのに。
ここはアトラクシア。
ぼくしかいない、ぼくだけの街。
第8話 白紙図書館
さて、どうしたものだろう。どうすれば勉強できるだろう。今まで勉強なんてしてこなかったから、まるでわからない。
とにかく、ぼーっと座ってたら、勉強にならないだろう。どこに行けばいいかわからないながらも、ぼくは歩きだす。
要するに、知らないことを知ることができれば、いろんなことを表現できるはずだ。知らないことって云うのは、要するにぼくが知らないことで、だから、ぼく以外の人が知っていることには、ぼくが知らないこともあるはずで、ぼくが知らないことはほかの人に聞けば知ってるはずで、でもほかの人なんてここはアトラクシアだからいるはずもなくて、つまり、ぼくは知らないことを聞くことができなくて、
「あーもう!」
つまり、人に聞くことはできない。そんだけの話。そんだけの話を考えるのに、なにぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、まったくもう、自分で自分がいやになる。きっとぼくが物を知らないから、こんなに頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。
「一刻もはやく勉強しなくては」
とりあえず、走ってみた。急いでいる気持ち表現してみたんだ。
すぐに疲れて止まった。
どこに行くのかも決めずに走るのは、なんだかとても疲れる。どうしてなんだろう? ぼくはそんなことも知らない。きっと理由があるはずなのに。
「いらいらするなあ、もう」
ぼくはパンくずを投げた。いらいらしてたからだけど、これにはちゃんと理由もある。投げたパンくずが、どっちに曲がったかによって、行き先を決めることができるのだ。まあ、たいていはまっすぐ転がっていくので、そのまま直進することになるのだけれども。
ところが、そうはならなかった。前に思いっきり放り投げたパンくずは、あんまり思いっきり放り投げたせいで、風に運ばれてふらふらと曲がって、とおりの横の壁にぶつかって、それからころころ転がって、こっちに戻ってきた。
どうやら、Uターンするべきらしい。ぼくは素直にくるっとまわって、そこで発見した。
大きな建物がある。
いつの間に通り過ぎていたのだろう? その建物はとても大きくて、ちょっとした塔なんかついていて、塔の屋根の上にでっかい鳥が置物が、さかさまになって、くるくるくるくる回っている。
なんの建物だろう? 当然、疑問におもったぼくは、早足で駆け寄って、入り口に書いてある文字を読む。
《図書館》
なるほど、ここは図書館らしい。そう思ってみてみると、この扉の大きいいかめしさや、建物全体から漂ってくる、なんていうんだろう? 威厳というか、とにかく、頭のよさそうな感じ。そういう建物って、あるだろう? そんな感じなんだよ。
これこそいまのぼくの求めていたものだ。だって、本は、役に立つものね。図書館というくらいだから、いっぱい本があって、本をいっぱい読めば、ぼくもいっぱい頭が良くなるはずなのだ。
よし、頭を良くするぞ。ぼくは気合を入れて、図書館の扉に手をかける。
「たのもー」
ぎぎぎ、と重苦しい音をたてて、でも実際は軽々と図書館の扉は開いた。そして、扉の向こうにひろがった景色は、実にぼくの理想どおりのものだった。
まずはじめにひろがったのは、鼻の奥の、くすんだような本の匂い。それから、薄暗い室内にさす、ほんのちょっとの日の光と、その中を舞う、きれいなホコリ。そのホコリの細工を透かして、目の前いっぱいに、高い天井の近くにまで積み重なった、本棚の列。
ひろい図書館の中を、綺麗にぴしっと気をつけをして、何列も何列も整列している。
その真ん中に、細長い机が気難しそうに立っていて、あまり座りごこちのよくなさそうな椅子と一緒に「ここは遊ぶ場所じゃないんだぜ」とでも云いたげに挑発的だ。望むところだ。ぼくだって、ここには遊びに来たわけじゃない。
そして――そして一番肝心なもの。それはもちろん、本棚の中にある。
たくさんたくさん、ある。
すごく分厚くて、重たそうな図鑑。ちょっと頼りないけど、気さくな文庫本。うすっぺらいけど優しそうな絵本。おじいさんみたいに、古ぼけた革の表紙の本。はじめて出会う、たくさんの物語たち。すごくたくさんの、本、ホン、ほん。
みんな、ぼくの先生候補だ。
さあ、読むぞ。読んでやるぞ。そして賢くなるのだ。ぼくは勢いこんで、まず分厚い事典を手にとった。
《百科事典》
まずもって頭の良くなりそうな名前。さあ、いくぞ、とページを開く。
なにも、書いてなかった。
あれ、と思って、べつのページを開く。
やっぱりなにも書いていない。
おかしいぞ、そう思いながら、次から次へとページを開く。
どこもかしこも、なんにも書いていない。
「なにが百科事典だよ」
がっかりしながら、本棚にもどす。全部のページが白紙だなんて、いったいどこが事典だってんだ。ムッとしながら、本棚を見渡す。ほかに、頭の良くなりそうな本は、と……
《生物図鑑》
図鑑! なんと頭のよくなりそうな名前だ。わくわくしてその本を手にとる。重さにちょっとよろめきながら、机のところまで持っていって、よっこいしょっと、ページを開く。
なんにも書いてない。
図は? 生物の図はどこだってんだ?
いくらめくってみても、なんにも出てきやしない。白紙、白紙、白紙の白紙。これが図鑑だっていうなら、ぼくにだって書ける。
「うー」
うなってみたって、なにも図なんて出てきやしない。あきらめて、よっこらよっこら、本棚にもどす。持ってきたときよりも、重く感じるのがまったく憎たらしい。
事典だの図鑑だの、いかにも勉強になりそうなものを手にとったのが、いけないのかもしれない。きっとだれかが意地悪しているにちがいない。だれかなんて、アトラクシアにはいないと思うけど。
なにか、ほかの本は、と……
《世界名作童話集》
童話集。いいぞ、こういうのは、意外と面白くってためになるのだ。早速読んでみよう。開く。
なんにも書いていない。
なんとなーく、わかってくる。
こうなったら、いかにも役に立たなさそうな本を手に取ってやる。
《ホニャムル》
意味がわからない。絶対に役に立たない本だ。
開く。
なんにも書いていない。
なるほど、そういうことか。
もう、タイトルなんか気にしないで、あちこちの本棚の、適当な本を、手当たり次第に開いていく。
白紙。
ハクシ。
はーくーしー。
いったい、なんなんだこの図書館は。役に立たないにもほどがあるよ。
「つかれた……」
くたくたになって、椅子にへたりこむ。
頭を良くしにきたのに、なんだか余計にバカになった気分だ。
「うあー」
うなりながら、天井をあおぐ。
と、そこで気がつく。
「あ、二階」
天井が吹き抜けになっていて、二階がある。そして、二階にもたくさんの本棚があるみたいだ。
早速、ぐるっと曲がった階段をかけのぼる。二階の本は、ちがうかもしれない。
たしかに、二階の本は、すこしちがった。
ぴしっと並んだ本棚の中にある、本の題名は、どれもこれも、
《彼の本》
《彼女の本》
何百冊も、何千冊も、もしかしたら何万冊、それよりも多いかもしれないくらいに、たくさん、綺麗にならんだおなじ大きさの本のタイトルは、全部、その二つのどちらか。
でも、まったくおなじように見えて、どの本もまったくちがうということが、なぜだか手にとる前からわかる。
へんなの。へんだよ。
ぼくは首をかしげながら《彼の本》を一冊、手にとってみる。
開かなかった。
鍵なんかついていないのに、どんなに力をいれても、まったく開くことができない。まるで、本の形をした彫刻みたいな、でも、さわった感触も見た目も、どこからどう見ても紙でできた本そのもので。
どの本も、そうだった。二階にある、どの《彼の本》も《彼女の本》も、手にとることはできても、一ページだって読むことができない。
なんだか。
なんだかひどく、ぼくはむかついて、本を床に叩きつけたくなって、そうしようとしたけれど、結局、できなくて。
それから、なんだか、泣きたくなった。
まったく意味がわからなくて、でも、わかったことがあって。
ぼくはいま、傷ついているのだ。
いままですこしも思ったことのない、そんなことを思った。
すべての本を、もとの通りにもどして、ぼくはため息をついた。とても疲れていて、、帰ろうかな、と顔をあげた。
それで、奥のほうにある階段に気がついたんだ。
近づいてのぞきこむと、階段はせまい螺旋階段で、見上げてみると、ずいぶんと高いほうまでのびているみたいだった。
そういえば、この建物には、塔がついていたっけ。外から見た様子を思い浮かべながら、考える。
のぼるべきなのかな。けっこう高そうだから、のぼるのはしんどそうだ。でも、いまのぼらないと、もう、この図書館にくることは、ないかもしれない。二度とみつけられないかもしれない。
結局、のぼることにした。我ながらだるそうに、肩をがっくりと落としながら、一段一段、だらだらとのぼっていった。
ぼんやりしていたから、どれくらいまでのぼったのかわからなくて、はーあ、はーあ、と自分のつくため息の数ばっかりかぞえて、それが十五回目になったとき、目の前に扉があった。
めんどうくさくて、ひとさし指だけで押したんだけど、扉をやけにあっさりと開いて、せまい部屋の全部が見えた。
窓のひとつもない部屋で、ランプがやたらたくさん転がっていて、それが順番に点いたり消えたり、明るくなったり暗くなったり、へんてこな具合だ。
それでもって、部屋の真ん中に、机があって、本が一冊、置いてあった。
《ぼくの本》
それが、本の題名だった。
ぼくって、どこのぼくだろう。
ぼんやり考えながら、どうせ開かないんだろうなと、本に手をのばす。
本はすんなりと開いた。
でも、表紙をあけた、そこにあったのは、白紙じゃなくて、文字でもなくて。
鍵だった。
柄の部分が、Aの形の、ヘンな鍵。
なんだって、本に鍵がはさまっているんだろう。
不思議に思いながら、鍵をとると、その下に、文字があった。
その文字は、この街の名前にとても似ているへんてこな文字で、文字のしたには、言葉が書いてあった。
《魂の平安》
つぎのページを開いてみると、今度は、羽根が生えていた。
びっくりして、さわってみると、とても柔らかくて気持ちのいいそれは、羽根の形をした、ペンだった。
そして、それからさきのページは、やっぱり全部、真っ白で、なんにも書いていなかった。
だけれど、ぼくは、そのとき、急に、ひとつだけ、賢くなった。
――ああ、そうか。どんな本も、だれかが書いたものなんだ。
ぼくは、鍵と、羽根ペンと、本をもって、図書館を出ることにした。
ぼくにはまだ、ここの本は読めないけれど、本がなければ、つくればいいんだ。だって、この本の題名は《ぼくの本》なんだから。
「さあ、なにを書こうかな」
考えながら、街をあるく。どうせ、書くことなんか、一つしかないけれど。
どこまでもつづく、アトラクシア。
第八話 白紙図書館 終わり