その人がバルコニーに姿を現したとき、民衆の熱狂はついに頂点へと達した。
「万歳」
「聖王陛下万歳」
「聖王祭万歳」
「神聖イルナー王国万歳」
「イルナーと陛下に栄光あれ」
「万歳」
悲鳴とも絶叫ともとれる己が民人の声に、その人は薄紫のマントをひるがえすと、優雅に手を挙げて応えた。
瞬間その人の、のぼる太陽そのものであるかのごとき金の髪が風に揺れて広がり、そこに立つ彼を神話に伝わる大神ローネスの化身であるかのようにすら思わせた。
人々はみな一瞬息を呑んだ。
が、すぐにさきほどにも倍する歓声で己達の唯一の主君を迎えた。
「栄光あれ」
「神聖なる王国に、陛下に」
「永遠なれ。陛下の御治世よ永遠なれ」
「万歳」
「聖王陛下万歳」
「聖王万歳」
「神聖イルナー万歳」
その人が髪と同じ輝く金色の瞳で人々を見渡すと更に歓声は増え、その人がうっすらと微笑みを浮かべると熱狂はどこまでも高まりとどまることが無かった。
聖都エイルナードの、そして神聖イルナー王国のすべての者がその人に賞賛を与えることを惜しまず、限りない敬意と憧れを持ってその人を見た。
争乱の時代だった。暗黒の魔道帝国と、それを打ち破った勇者によって成された大イルナー共和同盟の時代は遙か幾百年の昔のこととなった。
同盟はとうの昔にその効力を失い、決して広くも肥沃でもない土地をめぐり、平原を囲む国々はいつしか争いを始めた。
幾多の国が滅び、また興りが繰り返される。
平原最古の歴史と伝統を誇る神聖イルナー王国もまた、戦火を免れることは出来なかった。
小さな内乱から始まった戦乱の火の手は、またたく間に国中を燃え上がらせ、侵略と謀略の果てついに時の君主、聖王イル・ジャオスまでをもその炎で包み、命を奪い去る。
絶望のただなかで、神聖イルナー王国の人々は大神ローネスに祈りを捧げた。それよりほかに、できることがなかった。
神よ救い給え。
聖なる都を守り給え。
英雄神リクリスをここへ。
神の御威光に守られた真なる聖王を遣わせ給え。
人々の願うはただそればかり。
願いは成就された。
先の聖王イル・ジャオスの第三子にして第一王位継承者、金の髪と金の瞳に彩られた美貌を持つ、神聖イルナー王国第十七代聖王。
名を、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世。
それが、その人だった。
即位よりいくらも経たず、人々は口々にその人を崇め讃えた。
あの御方には神の御加護がついている、と。
即位より一月。
大軍を揃え侵略の構えを見せていた大国セイランは内乱により二つに分かれる。
即位より三月。
常に虎視眈々とイルナーを窺い、国境に軍を展開していた隣国リンクラウドはフォトキアの侵略により軍を撤退。更にイルナー側に非常に有利な条件での一時休戦を申し込んでくる。
即位より半年。
密かに海岸からのイルナー侵略を企んだシェムス連合の大船団は、季節外れの嵐に遭遇し壊滅。戦わずして撤退した。
すべてが、この調子だった。
イル・サイナスの即位より、イルナーはただの一度も戦乱に巻き込まれることはなく、相次ぐ戦乱の中イルナーのみが平穏な時を過ごし、ついには十年が過ぎた。
十年もの月日を戦乱と無縁でいること、それはこの時代には奇跡だった。
だからこそ、誰もが彼を讃える。
聖なる王、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世の聖王祭を国中のものが心から祝うのだ。
しかし
(ふん。何が聖王祭だ)
非常に数少なくではあったが、イルナー国内、それも聖都エイルナードにも、聖王祭を祝わないものが存在した。
(何が聖王祭だ。何が聖王だ。何が……)
聖王祭とは、聖王が即位した日を祝う祭りである。
聖王祭の日は、一年間国を守ってくれた聖王に感謝の意を捧げ、また次なる一年の聖王の加護を求める日であり、国中をあげての祭りとなる。
特に五年ごとの祭りは大祭と呼ばれ、七日をかけて祝う盛大さだ。今日はイル・サイナスの即位より十年。イル・サイナスにとっての二度目の大祭、その一日目となる。
聖王祭の日は、普段は貴族とその許しを得た者以外の出入りは厳禁とされる聖王区が特別に一部解放される。
人々は我先にとその場所、〈リクリスの掌〉と呼ばれる大広場に集まる。
中には祭りの数日前より仕事を放り出し、聖王区の入り口の門の前で幾晩も夜を徹し、祭りの日が来ると同時に広場の中へと他者を押しのけ駆けつける者も少なくない。
なぜなら、庶民にとって天上の神にも等しい聖王の姿を見る、ほとんど唯一の機会であるからだ。
聖王祭の日、太陽がちょうど聖王城の真上にかかったとき、聖王は民衆の前に姿を現すしきたりとなっている。
と云っても、城の最も広場に面したバルコニーに立つだけであり、広場にいても後ろのほうは王の姿は見えず、見えても誰かを判別することはまず不可能である。
だがそれでも、民衆は彼らの聖王を一目見んとして、夜を徹し少しでも王に近づける場所を求める。
そういった儀式も終わり、今は夜、聖王大祭の第一夜がようやく終わろうとしている。
空には聖王を祝福するように満天の星が輝く刻限となったが、人々の熱狂は少しも冷めやる気配はない。
まだ大祭は一日目、祭りはこれからだ。大祭ともなると、七日間ほとんど眠らず騒ぎ続ける者もいるほどなのだ。夜も昼も、関係ない。
それが疎ましいと、彼は思った。
(何が聖王祭だ。何が聖王だ)
彼とてこの国に生まれ、この国に育った者だ。聖王への忠心というものはある。
むしろ一月ほど前には人一倍忠誠あついほうだと云えた。
神聖イルナー王国を信じ、大神ローネスの加護を信じていた。
だが
(この国が神の庇護下にあると云うのなら、なぜ彼女は死んだのだ。なぜ咎人がのうのうと逃げおおせているのだ)
それを思うと、とても聖王祭を祝う気になれぬ。
街のあちらこちらで大声でがなりたてられる聖王を讃える声も疎ましい。
そう思えばこそ、誰もが厭う祭りの日の王城警護に志願したのだ。
しかし、国をあげての祭りの騒乱が、普段は静まり返った城の内にまで轟き響いていたのは彼の誤算だった。
(大丈夫なのかこの国は)
大神ローネスの加護を信じ切っていた一月前では思いもしなかったことが彼の頭に去来する。
(この浮かれ騒ぎの隙を他国に突かれでもしたら……)
無論、それは考慮され国境地帯の警備には貧乏くじを引いた兵士たちにより通常に倍する兵力が配されていることは彼も知っている。だがこの騒ぎを見聞きしていると、それすらも無意味に思えてくるのだ。
「なにも異変はないか」
「はっ。ありません」
声をかけられた若い警備兵が、驚いたように身を震わせて答えた。
気が緩んでいる。それに、見回す限りに見える警備兵は、どれもひどく年若い者か、逆に年老いた者に見える。
貧乏くじを引かされるのは常に力のないものと決まっているのだ。
彼と同年代の者たちは、祭りに加わり楽しくやっているのだろう。国境地帯も似たようなものではないだろうか。だったら、倍する兵力が配されていたとしても無意味だろう。
(まったく、どいつもこいつも)
だが昨年は彼もその一員であったのだ。それを忘れたわけではない。
しかし込み上げてくる怒りは隠せぬまま、彼は足早に歩いた。
どこへと目的地があるわけではない。少しでもこの喧噪の少ない場所へ行きたかった。
輝く白銀の近衛兵正装に身を包んだ特殊警備隊の彼を咎め立てる者は一人としてなく、彼は聖王城の奥へ奥へ、普段彼とて足を踏み入れぬ場所へと進んでいた。
(ここは……)
つと、彼は足を止めた。
気がつくと、喧噪は遙か遠く微かに聞こえるだけとなり、辺りには数少ない警備兵がいるだけであった。
「おい、ここは……」
彼は手近にいる警備兵に声をかけようとして、やめる。
不謹慎なことに、警備兵は居眠りをしていた。
叩き起こし叱りつけようかとも思ったが、まだ少年じみた警備兵の顔を見るとその気も失せた。
それに、人と話したい気分では到底ない。
こんな何もない場所へ来るものもありはすまいし、見なかったことにしようと彼は決めた。ここがどこなのかと訊こうと思っていたのだが、すぐにそれも知れたことだ。
聖王城の中にあって、喧噪から遠く警備の薄い場所と云えば一つしかない。
〈神の庭〉である。
王城の奥深くの門をくぐると突然開ける緑の庭は、神の庭と呼ばれる場所であり、代々何人も立ち入ることを固く禁じられている場所なのだ。
その禁令は強く、命を発した聖王自身ですらここに立ち入ることはないと云う。
王は云う。
〈神の庭〉はすでにイルナーではなく、神の領土であるのだ、と。
事実、ここに入った者があると彼は聞いたことがない。
庭は草木や花咲き乱れる場所であるが、それを手入れする者すらおらず、しかし草花が枯れることは決してない。まさしく神の領土であるのだ。
いつのまにここまで迷いこんで来たのだろうか。彼は近衛兵ではあったが、ここまで来るのは初めてのことだった。
来る用事もないし、そもそも本来ここまで入り込むことはできない。
途中で誰何され止められるのが関の山だ。
今日のような祭りの日に、特殊警備隊の任に着いていればこそ来れたのだ。
(しかし、噂通り何もないな、この辺りは)
夜であるから門は閉じられ辺りには眠っている少年兵一人だけで、長い通路にはかがり火のほか何もない。
静寂を求めてやってきた彼の要望にこれほど答えてくれる場所があるとは彼自身思わなかった。
(この門の向こうが、噂の神の庭か)
一月前の彼ならば、そうは思わなかったかもしれない。
あるいは思っても行動に移すことはなかったかもしれない。
彼は人一倍真面目な、それこそ同僚にからかわれるほど朴訥で信仰篤い青年であったから、たとえわずかでも神に逆らうようなことはしようともしなかったはずである。
しかし今の彼は聖王祭を祝う気にもなれぬ絶望の中にあった。
大神ローネスも、聖王イル・サイナスも、いまの彼にはほとんどどうでもよく感じられた。
あるのはただ好奇心だけだ。
噂に名高い永遠に枯れることのないという神の庭を一目見てみようと云うだけの。
彼は眠る警備兵を起こさぬよう気をつけながら両開きの門をゆっくりと開けた。
夜の中、明かり一つ灯らぬ神の庭は暗闇。
その中に浮かび上がるのは荒れ果てた土地だった。
(なんだ、どうなっているんだ)
自分の目を疑った。そこにあるのは草木豊かに実り、一年を通し花咲き乱れると伝えられる神の庭ではなかった。
荒れ果てた、長いこと人の手の入った様子のない土地だった。
(間違ったか)
しかし聖王城の中に禁じられた静寂の地が二つとあるわけがない。
それ以前に、このような荒廃した場所が伝統と文化を誇る神聖イルナー王国の聖都エイルナードの、それも聖王の住まう城に存在するはずがない。
(どうなっているんだ)
彼は思わずそこに足を踏み入れた。
ごつごつとした石の感触と、整備されていない地面の感触があり、目に見えているものが幻影でないことを告げていた。
城下ではこうこうと焚かれている明りも、ここには微塵もない。
さきほどまで彼の上で輝いていたはずの星々は月に隠れでもしたのか、ふと見上げた空は真黒く、周囲は真の暗闇であった。
振り向くといつのまにか門は閉じられていた。
気がつくと、彼は自分がどこにいるのかを忘れるほどの暗闇の中にいた。
(さきほどまで微かに聞こえていた喧噪もまるきり聞こえない。何もかもが見えず聞こえず、こうしてここにいると、全てが虚無へ消え去ったようだ。いや、それとも最初から何もなかったものを、何かの手違いで有ると感じていただけかも知れない。イルナーも聖王も聖王祭も、この俺も世界そのものすら、最初から何もなかったのではないか)
彼女も、そして一月前のあの惨劇も。
(違う)
彼は暗闇の中で短く鋭く首を振った。
(これは逃避だ)
自分は理由をつけて逃げようとしている。彼女のことをなかったことにし、あの苦しみの記憶を消去しようとしている。
だが、事実は彼女は存在し、死んだのだ。
一月前、彼の目の前で。
その事実を認識するのが辛くて逃避しようとしているのだ。
それでも逃避するわけにはいかない。彼女の仇をとるまでは。
(そうだ、奴らにしかるべき復讐を為すまでは)
その奴らとは何者なのかをすら、彼は知らない。
彼は何も瞳に映さぬ暗闇の彼方へ、かぐろい炎を孕んだ眼差しを注いだ。暗闇の彼方に憎むべき奴らがいるかのように。
彼の瞳が暗闇の向こうに捉えたのは、ひどく年経た石造りの壁であった。
(なんだ、あれは)
つい先程までここに有ったのは、荒れ果てた土地と暗闇だけのはずだった。それが突如、としか云いようが無い。
塔があった。
すぐにそれが塔だと知れたわけではない。最初闇に浮かび上がるように古い苔むした石の壁が彼の前にあり、驚いた彼は自身にもわからぬままとっさに空を見上げた。
空にはいつのまにか雲が動いたのか、再び星が輝き、その天に吸い込まれるように石の壁が湾曲を描き伸びていた。
一度認識すると、薄闇の中でその建造物は異様なまでの存在感を示していた。
光が有るわけではない、むしろ逆だ。
その建物の周りだけ、闇が濃かった。
わずかな星明りをすら拒むように、まるで闇そのものが物質的な重みを持って凝固した存在であるかのように、その建物は暗く重くそれゆえに薄闇の中でひときわ目立っていた。
それは螺旋塔であった。
(螺旋塔なんて……そんな馬鹿な)
螺旋塔の存在は基本的に禁忌である。
遙かな魔道の時代、魔道士達が好み住んだのが、螺旋塔であった。
外壁がねじれながら天に上がると云うその形状そのものが魔道の装置であり、魔道に不可欠な建造物なのだ。
だからこそ、魔道文明を完全に廃したうえで築かれた大イルナー共和同盟の末裔である現在の平原の国家には、螺旋塔があるはずはない。
かつて存在した多数の螺旋等は破壊され、新たな螺旋塔の建造もローネス教の教義によって禁止されている。
ましてや彼がいるのは大イルナー共和同盟の盟主である神聖イルナー王国の首都、ローネス教の総本山をも近郊に構えた聖なる都エイルナードのそのまた中枢、聖王城であるのだ。
(ありえない)
平原に現存する螺旋塔は五つ。
いずれもローネス教の管理下にあり、エイルナードには、ない。
しかしだとすれば、彼の前にそびえるこれは何だ。
暗く重く、彼の前に歴然とした存在感を示し存在するこの螺旋塔は何だ。
(ありえない、しかし)
彼は塔に歩み寄った。
一歩進むごとに体が闇に浸されていくように感じられた。
もし見ている者がいたなら、彼が闇に飲み込まれ、この世界から消え去ったと思ったかも知れない。
だが、ここには彼のほかに一人もなく、物音一つせず、ただ時に強くなり弱くなる星の輝きと怪しげに揺らぐ月の光だけがあった。
まったくの暗闇の中から、浮かび上がるようにこれもまたやはり古びた鉄の扉が現れた。
扉の表面には複雑な曲線を描いた文様が無数に刻まれており、そのいずれもが彼には見覚えもないものであった。
(もし、境界の扉があるとするならば、それはこうしたものなのかもしれないな)
いつも通りに開けたいつもの扉が、ときに幽世へとつながっていることがあるという――イルナーに住む者ならば誰でも知っている怪談だ。
彼も幼心にそれをひどく恐ろしいと思い、扉を開くたび、あるいはもしやこれこそが境界の扉なのではないだろうかと、密かにそう怯えたことも少なくない。成長するにつれいつのまにか、そんな恐れもなくしていたが。
(だがもし……もしこれこそが境界の扉であり、俺をこの生者の世界から死者の世界へと連れ去ろうとしているのならば……。いま俺の前に現れたのは偶然ではない、そうだろう、フェミナ)
胸の中でそっとつぶやくだけでも、その名を思うと彼の心はひどく痛んだ。
その痛みが彼を境界の向こうへと誘っているようだった。
彼は扉に手を当てると、力を込めた。
扉はそれほど大きくはなく、大の大人が一人通れる程度であったが、見た目に反してひどく重かった。
若く、いかにここ最近は自暴自棄に陥っていたとはいえ元々鍛えられていた彼の力を持ってしても一息に開くことは難しく、扉は長いこと開くものがいなかったことを示すように重く錆ついた音をたてながらゆっくりと開いていった。
闇というものはどこまで深くなれるものか、塔の中では、また一段と重く闇がこごっていた。
闇はこの世の光という光を拒んでいた。
それをむしろ心地よいと感じ、彼は闇の中へと身を投じた。
無論、その扉は現世と幽世を隔てるものでなどありはしない。
だが、ある意味においてはそれはまさしく境界となる扉であった。
この扉をくぐったときより、彼は今までとは異なる世界へと住まうことになった。
いや、その世界はもとより確かに存在し、ただ彼ら一般の者が見ることの叶わなかっただけであるのだから、彼が異なる世界の相を見ることになった、というのが正しいであろう。
いずれにしろ、彼はここから禁忌の世界へと足を踏み出した。
その禁忌の名を、魔道と云う。